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ある政党の改憲案に、憲法18条の前段にある「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」の一文が削除されているとの情報がありました。
憲法には、法規として機能している側面があることはもちろんです。ただし、この場合は国民を国家権力の暴走から守ることが憲法の法規としての位置づけであるため、原則として民事間の争いに対しては、憲法を根拠にすることはできないといわれています。もっとも、民事間であっても、公序良俗の解釈上憲法が引き合いに出されることはありうるということのようです。
さて、憲法には法規としての側面以外に、人の生き方を示す教典的な側面があります。たとえば、第12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」という条文は、「自由及び権利」は国民が努力することで、維持することができるし、外形上は権利の行使であるように見えても、他者の基本的人権を侵したり公序良俗に反したりするようなことがないように責任をもって「自由及び権利」を行うことが求められている。」ということを述べているのだろうと思います。
ところで、奴隷的拘束とは一体何でしょう。たとえば、いじめはどうでしょう。自分の行おうとしていることを自分で決めるのは、第13条で「個人として尊重される」以上、当然のことかもしれませんが、いじめを受ける環境は自分で自分の行いを決めることができない、いわば奴隷的拘束を受けているということを自覚していることが前提となります。だから、彼らは「いじめられている」ことを告白しようとしないのです。それは、すなわち自分が奴隷であることを明らかにすることにほかならず、屈辱を伴うことであるからです。しかし、奴隷的拘束であることを直視して、憲法もそれを許していないのだ、社会全体が自分を支えるはずだ、と考えることができれば、現状を突破する第一段階にたつことができるかもしれません。
DVでも同じことが言えるかもしれません。また、陸山会事件でも、行き過ぎた取り調べが問題になりました。取調室で行われていることは、たとえば任意の取り調べであれば、いつ帰ろうと自分が決めれば良いことであるはずなのに、それができない状態というのは奴隷的拘束にハメられているということで、明らかに憲法違反であるとうことを自覚して、次の一手が打てるということになります。
このような状態に対して「奴隷的拘束」というショッキングな言葉をあえて使うことで、あらたな発見もあると思われます。言葉の魔力というものですかね。
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憲法雑感
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憲法というのは、武器や訓練された組織を持ちいつでも暴力装置として国民に攻撃をかけることが出来る国家権力に対して、その暴走を許さないために存在します。ですから基本的に憲法は民事間のことには不介入です。ここでは国民の権利に対峙する概念は国民の義務ではなくて、国家の権限であります。
一方、国民同士の権利義務関係を示したものが民法です。ここでは個人の権利に対峙する概念は個人の義務であります。権利を主張する以上は義務を履行しなければならないという関係は、私人間の取り決めである民法に由来します。他人の我儘は自分との関係において個別に解決する以外方法がありません。
憲法を活かすためには、個人が精神的に自律していくことを了解すると同時に、国民が個々のちがいを認め合うなかで連帯するという姿勢が不可欠だと思います。
一方、国民同士の権利義務関係を示したものが民法です。ここでは個人の権利に対峙する概念は個人の義務であります。権利を主張する以上は義務を履行しなければならないという関係は、私人間の取り決めである民法に由来します。他人の我儘は自分との関係において個別に解決する以外方法がありません。
憲法を活かすためには、個人が精神的に自律していくことを了解すると同時に、国民が個々のちがいを認め合うなかで連帯するという姿勢が不可欠だと思います。
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日本がとてもオカシイ状態になってきている。前からといえば前からだが、いまや臆面もなく無茶をやる時代に突入した。まず最初に腐り始めたのは、司法であった。
①違憲立法審査権を持つ最高裁判所が自ら違憲の疑いの強い裁判員制度の設立に動いたからだ。
裁判員制度がどうして憲法違反になるか、ざっとおさらいしてみよう。まず13条で国民の自由が立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする、つまり憲法で国民の義務というのはやたらに設けることが出来ないのだ。
ただし、ここで言う国民の義務とはいわゆる「自由の制限」とは異なる。自由の制限とは、自動車を運転するという自由に付随して交通法規の遵守や免許証携帯の義務が生ずるように、ある行動をしようとするに当たって生ずる義務のことで、自由に責任が伴うという当然の原理である。したがって、この場合は車の運転をしようとしなければそんな義務が生ずる余地はない。
裁判員制度の場合、裁判員になるのが希望者だけであるなら「自由の制限」としていろいろな義務を設けても差し支えない。しかし、裁判員法によると強制的な参加である。したがって、裁判員法の定める裁判員としての義務は憲法13条と矛盾する可能性が出てくる。
しかし、13条には「公共の福祉に反しない限り」とある。この「公共の福祉」という言葉もあいまいすぎて、たびたび国連サイドから、「公共の福祉」の内容を具体的に法律で明文化するように求められている。少なくとも、「公共の福祉」を主張するためには、立法事実(立法化しなければならない社会的背景)の妥当性が吟味されねばならない。しかし、驚くべきことに2009年4月3日の衆議院法務委員会において森法務大臣(当時)は立法事実はなかった旨の発言をしているのだ。そういうわけで、憲法13条に違反している疑いが強い。ほかに18条の「苦役からの自由」に違反しているという意見もある。
〔そのほかの出鱈目例〕
② 検察や警察の裏金疑惑。裏金そのものより捜査費・捜査報償費の実績づくりのため、事件を作る=冤罪という構造の方が罪が重い。
③ 裁判所が検察の起訴を断念したケースにつき、推認に基づき有罪判決。推認とは先入観や偏見に基づいているといえないか。裁判に偏見が伴うと「高松結婚差別裁判」の愚を繰り返す危険がある。
④ 九州電力、玄界原子力発電所再稼動。第三者委員会の調査に協力せず、資料廃棄をおこなった。そんな経営陣が事故が起こったとき情報公開するとは考えられない。
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私は日本国憲法には、法令としての側面と理念としての側面とがあると考えています。法令としての側面として、国を相手取って裁判を起こすときなどに根拠として憲法の条文が引用されます。これはもっぱら国家権力の暴走を防ぐために存在し、民事間同士の争いには基本的にノータッチだとされています。もっとも、まったく影響を与えないのかといえば、民法上の「公序良俗」などの概念に具体性を持たせるために憲法の理念が引用されることはありうるというのが、通説であります。
さて、この理念としての憲法は国民生活のいたるところで活用され、また個人の生き方にも影響を与えています。私が最も好きな条文は、第13条です。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
「すべて国民は、個人として尊重される」とは、噂や思い込みによって十把ひとからげにされない自由とでもいうのでしょうか。私たちは勝手な思い込みによって、人を傷つけたり、逆に買いかぶったりすることが少なくありません。よく「〜気質」とか「国民性」「県民性」とか、「男らしさ」「女らしさ」「子どもらしさ」などのフィルターを通して人を判断したり、行動を予測したりすることがあります。そのこと自体は必ずしも悪いことではないかもしれませんが、いま自分はそういうフィルターを通してものを見ているという事実を客観的に見つめ、思い違いがありうるということを常に認識しておく必要があります。
たとえば、冤罪という人権侵害が発生する裏には、検察官や裁判官に自分がそういう見方をしているということの事実認識が欠けていると捉えることもできると思います。人間誰しも、自分にとってすわりのよい状態が社会にとっても安定した状態であると勘違いする傾向があります。特に強い権限を持っている検察官や裁判官は、自分の価値観を正当化してはばからないという人間の業がより強く現れるのではないでしょうか。調書を「作文」する慣行が幅を利かせ証拠として採用されるというのは、いかに憲法の理念が検察や裁判所において風化しているのかを示しています。検察官や裁判官といえども同じ人間である以上は、間違うこともあるでしょう。釈迦に説法とお笑いになるかもしれませんが、憲法13条の理念がもう少し生かされるシステムづくり、組織づくりが必要だと私は思います。
本来ならば、検察や裁判所では、そこに勤める一人ひとりに憲法の基本的人権の理念が息づいていなければ国民に範を垂れることはできないと私は思いますが、いまどきそのようなことを期待するほうがおかしいといわれそうです。かといって、それゆえに先般の司法制度改革が求められてきたというわけでもありません。検察改革に消極的な現状を見ていると、検察官がとりわけ憲法を理念として大切にしているふうにも思えず、単に自分たちの「業」を正当化しているだけであるように思えます。
主権者である国民の側に立った真の司法制度改革がやっぱり必要ではないでしょうか。法曹三者のもたれあいで成立した裁判員制度や公判前整理手続等の総括ももちろんですが、それには当然ながら取り調べの全面的可視化が含まれるでしょう。また、国連が求めている諸条約の完全批准に応えていくことも必要で、本来それらは法務省や最高裁の側から提起されるべき事柄であるという風に思います。しかし、国民の支持が得やすいところから改革していくという常道に立つならば、江川紹子氏が主張するようにまずは全面的可視化からということになりましょう。
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日本のなかでは、「自由」というものが「わがまま」と混同されたり、形容詞や副詞として用いられるなかで意味がことさら矮小化されたりとかいうことがあって、冷遇されている言葉だなぁと思ってしまいます。僕にとって、「自由」とは、厳しいイメージこそあれ、自分をコントロールできずに好き放題やったり、怠け放題というイメージとは、天と地の違いがあります。まあ、ここは理屈を言うよりも、自由のイメージを列挙した方がよさそうです。
1.信じられる人たちの前で自分の事実を打ち明ける。カミング・アウト。
2.周りに左右されずに自分の信念と思想とで、自分の生き方を決める。
3.おかしいときに笑い、悲しいときに泣く。
4.分からないことがあれば、笑われてでも尋ねる。
5.すでに存在するもののなかから選択するばかりでなく、自分で新しいものを創造する。
6.世間体や迷信にとらわれず、合理的な考えを持つ。
7.世の中の常識を一度は疑ってみる。
僕は、こんなことが「自由」だと思っています。
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なぜ、人間は生まれながらにして人権を有するといえるのか。かつては、神によって与えられた(天賦人権説)とか、自然法や理性に基礎をおくと考えられていたが、現在では「人間の尊厳」にその根拠が求められるようになっているようだ。そして、今や日本においても、児童虐待防止法における「虐待」の定義やいろいろなハラスメントの事例が明らかにされることによって、人間の侵すべからざる「尊厳」というものがより鮮明となってきている。
つまり、私たち日本人が自らの人権を守ることが不得手であるがために、しばしば人権が利己主義やわがままと混同され、それがグレーゾーンとして「人権」の明確なイメージづくりを阻害してきたきらいがあった。それが証拠に行政の行う人権啓発は、長い間、「人権」=「思いやり」であるかのようなスタンスをとるところが多かった。それは、国家犯罪としての、死刑制度や冤罪の問題を回避させたのみならず、部落問題や在日の問題と自分たちの生活との正確な距離を測る作業をも結果として遠ざけ、いつまでたっても自分の問題とさせなかった根本原因であるからだ。
ところが、たとえば児童虐待の防止等に関する法律の第2条には児童虐待を物理的暴力だけでなく、わいせつ行為に関することや著しい減食又は長時間の放置、著しい暴言や拒絶的な対応、さらには夫婦間におけるDV(ドメスティックバイオレンス)をも含め規定したことで、これらが人権侵害であることを明確にした。また、専門家によってパワーハラスメントの類型が明らかにされるなかで、自分の守るべき「人間の尊厳」が次々に具体化されてきたのである。
これらの動きは、捜査官と被疑者との関係に対しても、何らかの影響を与えずにはおかないだろう。そういう意味では、取調べの全面的可視化が事例提供という意味で果たす役割は大きい。もちろん、裁判の証拠的価値や研究目的に限定されることはいうまでもない。要は、そのことによって冤罪が抑止されるかどうかが問題なのであって、数々の個人情報が飛び交うであろう取調べの「公開」を求めているわけではない。また、被疑者等の人権が守られるためには警察組織がコンプライアンスに熱心になることが大前提であって、検挙率の低迷に対して人権を無視した強引な捜査で帳尻を合わせるなどということが絶対におきないようお願いしたい。
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