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憲法雑感

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 憲法というのは、武器や訓練された組織を持ちいつでも暴力装置として国民に攻撃をかけることが出来る国家権力に対して、その暴走を許さないために存在します。ですから基本的に憲法は民事間のことには不介入です。ここでは国民の権利に対峙する概念は国民の義務ではなくて、国家の権限であります。
 一方、国民同士の権利義務関係を示したものが民法です。ここでは個人の権利に対峙する概念は個人の義務であります。権利を主張する以上は義務を履行しなければならないという関係は、私人間の取り決めである民法に由来します。他人の我儘は自分との関係において個別に解決する以外方法がありません。
 憲法を活かすためには、個人が精神的に自律していくことを了解すると同時に、国民が個々のちがいを認め合うなかで連帯するという姿勢が不可欠だと思います。
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 今回は、まず上記ブログからの一部転載。
    ―――――――――
 国会で私がこだわった論点はふたつ。児童ポルノや性的搾取における「実在青少年」の被害は救済すべきだが、客観的な事実としてその被害者が存在しているかどうかの見極めも大事だ。ハダカンボの幼児の水浴びの写真、あるいは国会でも話題にしたベストセラーになった『Santa Fe』などを本箱に持っているからと言って、「単純所持罪」が適用出来るというフレームは、過剰規制ではないか。そのことによって、どんな被害事実を回復しようとしているのかが定かでない。

 議論をしていくと「所持の目的が問題ですね」という話になる。つまり「自己の性欲を満たす目的」などいかがわしい意図を持って所持していたかどうかが「犯罪」か「日常」かの分水嶺になるとのことだ。しかし、心の中で何を考えようとも、外側に表出する実際の世界で犯罪行為が行なわれない限り、処罰対象にならないという戦後の刑法の大原則はどこへ行ってしまうのだろう。しかも「内面のあり方」が処罰か非処罰の分かれ目になると言えば、捜査は自白に頼ることになる。「内心の自由」に大きく関わる問題だ。
    ―――――――――
 以上、転載終わり。
 
 私がこの問題で懸念するのは、戦後、最高裁の判例が死守してきた憲法第十九条【思想及び良心の自由】 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」が根本からぐらつくことです。氏が言われるとおり、客観的に被害者が実在しているのかどうかというところが、ひとつ肝心なところで、裁判員法といっしょで立法事実があいまいなまま、またもや国民の基本的人権があやうくされつつあります。裏を返せば、それだけ国家権力の権限が強大になるということで、もし、この法案が十分に本質審議もされないままに立法化されたら、捜査当局のウイングが果てしなく広がり、いつでも誰に対してでも、家宅捜索が可能となります。
 
 警察の家宅捜索が現実的には、事件解明の目的で用いられるよりも、むしろ見せしめ的な色合いのほうが強かったことは周知の事実であって、国会を舞台に取調室の全体的可視化が論議される一方で、このような耳障りはよくとも皮一枚めくれば危険がいっぱいの法案が、まるで検察当局の保険か何かのように滑り込まされていることに、国民は十分注意する必要があります。

国家権力とはなんだ。

 「国家権力」という言い方をよくいたします。今回の検察側の暴走ほど、国家権力の矛盾を考えさせられた事件はなかったような気がします。なぜなら、国家権力によって狙われたのは、政権与党の幹事長であったからです。政権与党の幹事長であれば「国家権力」の中枢でどんと構えているのかと思いきや、さにあらず。えー? いったい国家権力って何なのよ? と不思議に思った人も多かったのではないでしょうか。

 国家の最高権力者というのは、法の上では鳩山首相に間違いありませんが、それはあくまで法律がうまく機能していればという話で、今回のように本格的で急進的な政権交代があれよという間に行われますと、相当混乱を来しているわけで、それはもう政治家が何人か生命を失っても不思議はないわけであります。おそらく、民主党政権はそのあたりをもっとも心配して旧勢力を徹底的に追い込むことはできれば避けようとしてきたのかもしれません。あえて乱暴な言い方をすれば、法のもとでの最高権力者以外にも、その地位を脅かしうる人間はおりまして、たとえば合法的に武器や兵器の所持が許されている、警察や軍隊が法を無視して突っ走るということがありえるわけで、今回の検察側の動きも警察力を自由に操れるという自負があってのことと思います。ですから、日本国憲法が思想信条の自由を謳い、最高裁もこの自由に関しては、たとえ警察や自衛隊の職員に対しても、きわめて厳格に解釈してきたのだと思っています。

 しかしながら、こういうことは余程秘密裏に計画が進み、関係者の意思の疎通がとれておりませんと、いくら官僚にとって厳しい時代が到来しそれに不満を持つものが多かったにせよ、足並みそろえて実行というわけにはいきません。そこで、日本の官僚、財界、メディア、自民党をはじめとする現在の野党に一様に「天の声」として強力に命令しうる人たちによってきっかけが作られたのだと思います。アメリカの保守勢力がそれで、そういう力の前に日本はひれ伏すような外交を続けてきたわけであります。

 私としては、ひれ伏そうがどうしようが、実利をとればよいと考えていますから、見かけがいくら冴えなくても一向にかまいませんが、アメリカとの全面対決という窮余の無策だけは御免被りたいと思います。そこで、アメリカにもいろんな人がいていろんな考え方がありましょうから、アメリカの強硬姿勢を制するためにはアメリカ国民からの日本指示をひきだすことが、私のような凡庸な一国民に許された手段であります。

日本国憲法
第九十七条【基本的人権の本質】
 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条【憲法の最高法規性、条約・国際法規の遵守】
1 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条【憲法尊重擁護の義務】
 天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

   ――――――――

 少数者の人権がおろそかにされる社会は、多数者の人権もまた確立していない、いつでも崩壊するおそれがある社会であるというのが私の考え方です。それは多数者の人権に論理や哲学が付いて来ていない状態、すなわち基本的人権が文化として定着していないこと意味します。例えば、日本に定住している外国人に外国人登録証の常時携帯を義務付けて疑問に思わない日本人社会は、自らに対する裁判員制度という基本的人権を無視した制度の導入をも簡単に受け入れてしまうということであります。このような状態で多数決によりものごとを決しようとしても、丁寧に意見を交し合って論理を共有するという作業を省いていますから、暴力的な結果が出されるだけです。およそ、そのような少数者に対する抑圧を多数決等で手続き的に正当化しようとしても基本的人権の理念が「確立された国際法規」(http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=761571627 )と矛盾を生じる結果となり、憲法第九十八条1項及び2項に照らして本来、効力を発生しないと考えられます。逆にいえば、一部の少数者に対する抑圧から少数者を守ると同時に、廻りまわって多数者が自らの首を絞めてしまうことからさえも私たちを守ってくれるのが国連が採択した人権関連の条約であり、憲法第九十八条のとりわけ2項であります。
 ところが、最高裁の憲法判断には、同条2項からの論理展開が弱いように思われます。国連で採択され進化を遂げてきた数々の人権関連条約の成果がほとんど国内法規の中で活かされてこなかった背景として、マスメディアによる情報遮断(特にテレビメディアにおいては国民にとって情報の優先順位があまりにも熟慮されることなく軽率に選択されている)とともに条約の引用に対する司法の消極姿勢がネックになってきました。

 多数者が少数者からの搾取構造を是正することなく多数者であり続けようとすることは平等原則を踏みにじり暴力的であるうえに、その当事者に自覚がないのがふつうです。多数者であり続けることは権利でも何でもないにもかかわらず、少数者の抑圧に多数決の原理を以て正当化しようとする風潮、世論調査等を利用してそれを煽ろうとするメディアの姿勢、さらに裁判員制度等憲法を軽視してまでそれを追認してしまう国家のありようは危険極まりないと感じます。

 人権関連条約の進展と軌を一にした国内の動きが今まで起きてこなかったために、少数者の権利が多数者の権利の対立概念としてイメージされ、手続法上の停滞を生み、少数者の抑圧が正当化されることを通じて多数者が国家によってコントロールされる排他的な構図があります。同様のものを、小泉構造改革の中に見出すことが出来ます。このような排他性は、現在の多数者の生活レベルの水準を少数者の権利擁護政策が引き下げてしまうという主張を展開することで国民の不安を煽るとともに施政の矛盾をエスケープしてきましたが、本来、自由競争が活力を持つためにはスタートラインに平等参加できることが大切であって格差の存在は自由競争に対する弊害と位置づけるべきところ、言葉のイメージが先行し平等参加イコール経済停滞という逆の論理が巷に敷衍していったわけです。

 元来、基本的人権が資本主義社会と矛盾なく成立するためには、この「平等参加」というところが鍵であると思われます。そのためには、憲法13条に謳われている「幸福追求の権利」が「教育を受ける権利」や「労働の権利」、「思想及び良心の自由」などと相俟って国家によって保障されることが前提であると思います。

数学と民主主義の関係

 「社会に出て、数学の難しい理屈は必要でない」と感じている方は多いと思います。確かに、社会に出て数学の難しい計算式が必要となる場合は、職業にもよると思いますが、あまりないというのが私も含めてほとんどの方々が感じていることだと思います。
 しかし、数学を小学校で学ぶ算数の延長というイメージだけで捉えると、計算方法を学ぶ学問ということになって、無味乾燥な学問の代表のように思えてきます。

 ところで、数学が現実の社会と折り合う場面では何がしかの調整が必要です。
 たとえば「1+1=2」ということも「1個の石ころと1匹の猫を足したら何になりますか」という質問をしたとすると、解答としては「1個+1匹=1個+1匹」でしかなく「2」にはなりえないのであります。つまり、ここにはこの命題を真実たらしめるための暗黙の了解というか条件が付随してあることがわかります。それは、数学的にいうと「同じ単位であれば」(成立する)ということであって、より論理的にいえば「個性の差を考慮に入れなければ」という条件が、この命題に限らず数字を表現として用いるときには必ずついて回るのであります。逆に言えば、この条件さえみんなが理解しさえすれば、数字というのはあらゆる共通認識の出発点となりえます。

 こう考えていくと、数学というのは実用の学問という側面も勿論ありますが、可能性と限界とを明らかにしつつ一種の哲学として理解していったほうが実りが大きいと思います。ことに、「証明」などの領域は、論議から誰もが承服するような真理を導き出す上で必要な能力を育むもので、国民が誰しも備えていることが望ましいし、私は義務教育の段階から、もちろん社会教育の分野でもじっくり時間をかけて行われるべきだと思います。将来の国家像として、安易に多数決に走らず、なおかつテレビなどのマス・メディアのよるゆさぶりとは無縁の本質的な議論が生まれ、それを生かすことができる、そういう国民が主権者として確固たる地位を獲得できる時代へと向かうと思います。

 私が憲法で定められた自由と権利とを護ろうとしているからといって、個々の我儘まで尊重しようという気はさらさらありません。まず、人間は一定の年齢になれば自律できていることが前提であります。自律の中身は、経済的自立や精神的自立を確立していないと社会的信用が得られないという現実を踏まえて努力していること、しかしながら同時に他人に厳しく自分に甘いという姿勢もまたいただけませんから、人間を外面や噂だけで判断しないとか、思いやりや長い目で人を見る姿勢も必要になります。これを「連帯」と呼んでもいいし「互助」と呼んでもいいし、もっと漠然と「情け」とか「お互い様」といってもよいと思います。

 問題は、憲法が国家権力(これには自治体の権力も含まれます)の暴走を食い止めるためにあるということです。これについては多分に誤解があるようで、たとえば「表現の自由」は国家や自治体に対して個人の自由が保障されているものであって、AさんがBさんに対して何をいってもよいかどうかは、民事間で解決が図られることになっており、調整できない場合は名誉毀損など民法上の規定を争点として争われるのが普通であります(拙文http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/19292173.html また三菱樹脂事件最高裁判決要旨 http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=26914&hanreiKbn=01 )。
 したがって、民事間で権利を主張する際は根拠を私法上に求めねばならず、憲法の保護は受けていないというのが一般的な解釈であります。これは自然人にしろ法人にしろ憲法の保護を受ける権利は相争う双方がともに享受すべきであるところからも当然の論理的帰結であります。ちなみに、今のところは企業対個人であっても、私法上の問題であると考えられており、しかるに企業が採用や労働条件に関して差別的取り扱いをしてもよいのかという問題に関しては、労働関連法など立法上の問題とされています(平成11年職業安定法改正により第5条の4が加えられたことによって、事実上、企業による身元調査は禁止されています)。

 それはさておき、権利と我儘の違いは普遍性を持っているかどうかであると思います。特に基本的人権は憲法上の最も中心をなす規定であって、多数決でも覆されない性格のものであります。私たちが裁判員制度に反対しているのは、憲法が無力化されていくことを危惧するという普遍的な理由にもとづくものであって、私個人が参加したいとか参加したくないということとは全く異次元のことであります。

 また、死刑制度に反対しているのは、最も大きい理由は冤罪を防止するシステムが確立されていないからでありまして、これが確立されない間は少なくとも執行を停止すべきと考えております。まして、税金が勿体ないとの論議がありますが、税金の有効活用のためにもまず冤罪を無くすことが最優先されるべきと考えます。2番目の理由として、事件の再発防止に役立っているのか甚だ疑問であります。抑止力は神話に等しいというのはあくまで個人的な感想の域を出ませんが、逆に大阪教育大学附属池田小学校事件の宅間元死刑囚のように死刑を希望して犯罪に及ぶ事例が日本にも登場してきたことを危惧するものです(ゲイリー・ギルモア事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%82%A2 )。第3の理由として、死刑制度が代替の制度を検討することもなく排他的論理だけで延々と継続されていることです。第4に人を処刑することで国民が安心感を得るというのは、国民の安心感とは裏腹に実は国民統制の一手段と考えられることです。ちなみに、死刑の適用があるのは殺人罪に限りません。適用例はないと聞いておりますが、外患誘致罪や内乱罪などがあります(拙文http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/19485942.html )。そのほか、国際人権規約の自由権規約委員会から廃止に向けた取組を強く指摘されているという事情もあります。
 我儘というと少数者の主張のように思われがちですが、冤罪の可能性を斟酌せずに死刑制度を肯定する方が少なくありません、中には、死刑制度反対派の人道主義的な装い(?)が気に入らないという理由で反対の反対は賛成という方も結構いらっしゃるような気もいたします。そういう方々から見ると、私の方が我儘に見えるのかもしれませんが、兎に角、双方冷静な意見交換を重ねながら距離を縮めていくことが必要なようです。

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