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近況報告を‥‥。
1.9月22日から25日まで香港に旅行。
連れ合いと3泊4日の旅行。ホテルがなんとパンダホテルという、変わった名前のホテルで、壁面にパンダの絵がデカデカと描かれてあって、しかも古くて辺鄙なところにあるので、最初はちょっと失望した。なんせ、ホテルの場所が香港市内のどのあたりにあるのかが、非常にわかりにくかった。ホテルにおいてある地図にも、パンダホテルが載ってないときている。
されば、近くをとにかく歩き回って、地下鉄の駅なり引っかかるものを見つけ出さなくてはと、ホテルのフロントで周辺の略図をもらって、1時間も歩いてみると地下鉄の駅をひとつ見つけることができた。こうなると、壁面に描かれたパンダの絵がものを言う。それは、夜でも照明に照らし出されて、とにかくわかりやすい目印となった。
釜山や台北に行ったときもそうだったが、とにかく地下鉄の駅を見つけると後が楽だ。
3日目はマカオにまで足を伸ばしてみた。結構、人と車の多い街だった。
2.筑豊はいいなぁ。
仕事の関係で、ひとり筑豊の田川市を訪れ、人権センターの方に強制連行跡地を案内していただいた。案内役の光武さんは4つの碑文やお墓をまわって、事細かに、しかもこちらの興味を巧みに引き出しながら丁寧なフィールドワークを展開してくださった。思えば、20年位前にも筑豊の人に田川市や桂川町を案内してもらったことがあって、はじめてであった人たちなのに包容力があるといおうか、それはそれは楽しい1泊2日であったことを覚えている。以来、楽器の修理や懇意のグループと温泉に飯塚市を訪れたりするけれども、筑豊のダイナミックで小さなことにこだわらない気質が好きだ。
3.「玄洋社・封印された実像」が著者の石瀧豊美先生から送られてくる。
石瀧豊美先生は、部落史や郷土史のほかにも玄洋社の研究家として知られているが、実は私の小学校の先輩でもある。玄洋社についての新刊を海潮社から出版しますとご案内を受けていたもの。冒頭、先ごろ読んだ城山三郎氏の『落日燃ゆ』の「広田(弘毅)は玄洋社の正式メンバーではない」との記述が間違いであるというところから始まっており、興味深々だ。
4.サックスがうまくふけません。
最近調子が悪いというか、フィンガリングがうまくいかないし、息が続かない。もうそろそろ限界と違うかなぁ。アタックもさえないし、‥‥。もう一回、丹念にチェックしなおしてみるかな。
5.ボクシングのDVDを入手。
ロッキー・マルシアーノ。ヘンリー・アームストロング。ジャック・デンプシー。シュガーレイ・ロビンソン。ジョー・フレイジャー。ビセンテ・サルディバル。ラリー・ホームズ。イベンダー・ホリフィールド。カルロス・モンソン。ジェームズ・トニー。ウィルフレド・ベニテス。トーマス・ハーンズ。ウィルフレド・ゴメス。サルバドール・サンチェス。ヘクター・カマチョ。カルロス・サラテ。ルーベン・オリバレス。
落日のトーマス・ハーンズやオリバレスなど、見るも切ないなぁ。全盛期のシュガー・レイ・ロビンソンのすごいことといったら。アリやレナードのスタイルの原型だ。若いころのカマチョもすごい。
そういえば、話変わるけど、渡辺二郎氏は無罪を勝ち取っていたなぁ。彼の恐喝の疑いも無実だったということか。メディアっていうのは、本当に恐ろしい。
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無題
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最近、自分の立ち位置が分からなくなって、寂しくなるときがあります。自分の外に向けて、発信したり表現したりしているうちに、ひょっと自分自身を省みて空虚さを感じるっていうのかな。やっぱり、身近なことをしっかり固めておくということに怠慢だったかなぁと思います。
たとえば、連れ合いや子どもたちや親兄弟に対して、地味でもいいから本当にやさしかっただろうかという疑いがあります。私は、愛情や優しさを受けるばかりだったんではないか。それが、職場やほかの人付き合いのなかでも同様だったので、次第に私という人間の底の浅さが再認識された結果、社会からの孤立感という形でリバウンドしてきたのではないだろうか、そして周囲からワンテンポ遅れて地殻変動に気づいた私がいるということではないだろうか。
楽器の練習やパソコンもいいけど、家事を手伝ったりということから出直そうかな。そういう身の回りのことから、達成感を積み上げていくべきだな、やっぱし。それと、100点満点からの減点主義ではなくて、0点からの再出発で行こう。自分のちっぽけさを認識しながら、再スタートを切ったこと自体を誇りに思う生き方っていうのかな。そろそろ軌道修正しないと、ひとりで空回りしているだけの存在になってしまいそうだ。
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日本では、「あんな悪いやつを野放しにしといていいのか」的な発想がしばしば支配的になる。どうしようもなく悪いやつと私自身が感じる相手が過去から将来にわたって皆無と言い切る自信はない。そういう意味では、私自身、排他的な部分も併せ持っているということだ。しかし、同時に私の内部にも罪深い小悪魔が潜んでいることもまた事実だ。つまり、そんな悪いやつに私自身がならないという保障はない。人間とは弱く罪深い生き物だ。
これまで生きてきた日常とは全く違った環境に突然迷い込んでしまうことがある。そして、そういう環境は自分の意に反して絶望的に長く続くものだ。そんなとき、自殺にいたるかどうかというのは、偶然でしかないような気さえするのだ。私の場合、50余年の人生のなかでそのような経験が二度あった。最初は20歳前後、2度目は40歳前後であった。
どちらのときも、私を救ったのは、人間だった。私を苦しめていたのも人間だったが、私を救ったのも人間だったのだ。人間は、環境によって硬直もすれば、柔軟にもなる。それほど、幅があり、可能性に満ちている。そうだ! 私が自殺を選ばなかったのは、究極のところで人間を信じ、自分を信じ、時の流れに可能性を見出すことができた、すなわち「待つ」ことができたからなのだ。人間の中に悪だけを見るのでなく、数々の善を見ることができたからなのだ。
どんな人間でも善と悪とを併せ持つ。悪が表に出たときは、人を苦しめるばかりでなく、自分をも苦しめる。だから、なるべく善が表に出るようにしなくてはならない。つまり、人間の善を引き出すように社会が機能しているかどうかが問題なのだ。
フロッピー改竄事件の前田主任検事も環境が彼に悪のほうを引き出すよう機能していたのだ。彼ばかりではない。事件を早めに幕引きにしたがる最高検も、スクープに見せかけてその実検察と一蓮托生の朝日新聞も、あくまで最高検に期待するという柳田法務大臣も、悪のほうばかりを引き出しあっている。それが、イデオロギー装置として機能しあっている場合も含めて、システムの欠陥をそこに見出さなくてはならない。
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私は、勇気を持つにはどうしたらよいか尋ねました。 |
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次に私が質問したのは、「この中で自分の性格のことで悩んでいる人はいますか?」 |


