よっしー本店

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 小学3年生の児童を前に話をする機会を得ました。人権についての話をという依頼でしたが、内容についてはお任せしたいとのことでした。地域にいる複数の大人に聞いた話をメモって、最終的には1枚のCDに落としていくということらしく、そうであればきっと「思いやり」に関する話が多かろうし、子どもたちというのは意外と大人(反面、大人たちというのは結構子ども)という「よっしー道場」の流儀によって、「自由とは何か」みたいな話を卑近な例を散りばめてやってみようと思い立ちました。

 2クラス64人の集中力を維持するためには、なるべくテーマをキャッチボールのように投げかけあいながら進めていく必要があります。30分の時間があったので、「自由」という言葉がついた熟語を投げかけるというところからスタートしました。

 次に、詩人金子みすずについて問いかけると、授業でならっているようで、大抵の子どもたちが反応し、「みんな違ってみんないい」という有名な一節もすんなり。ここまでは予期したとおりでした。さあて、これから先がよっしー道場の腕のみせどころ。次に小島よしおについて問いかけると、これもさすがにみんな知っていましたが、金子みすずと落差に唖然としています。以後、こんなやりとり。

「なんて言ってた?」
「そんなの関係ねえ、って」
「そのまえに何かくっついてただろう?」
「‥‥?」
「でも‥‥そんなの関係ねえ、だろ?」
「うん」
「この『でも』っていうのが、すごく重要なんだぞ」
「‥‥?」
「はい。これはね、金子みすずさんの『みんなちがって、みんないい』というのと、同じことを言っています。」
「えーっ!?」

 まあ、こんな感じですかね。
 次に、ランドセルの色について尋ねます。男の子は黒や青、女の子は赤系統、これも予想どおり。

「もし、君たちが、自分は男だけど本当は赤が好きだとしたら、ふつうに赤いランドセルをして来れるかな?」
「‥‥」
「勇気が相当いるよね?」
「‥‥(うんという表情)」
「でも、よく考えれば誰にも迷惑かけないよね?」
「‥‥」
「たとえば、それをやるのが『自由』なんだ。簡単かい? すごく勇気いるし、難しいだろ?」
「‥‥」
「でも、『みんなちがって、みんないい』‥‥だろ?」
「‥‥」
「誰からからかわれようと、『でも、そんなの関係ねえ』だろ?」
「(あっ、そうか)」
「自由というのを手に入れるのは、こんなに難しいことです。」

(つづく)

父が亡くなりました

 先週の金曜日の午前1時過ぎに父が逝きました。
 89歳といえば大往生というべきところ、そのようなイメージはなく、生身の人間として痛がったり、介護に尽くしてくれている姉とけんかしてみたり、最後まで良かれ悪しかれ人間くささを感じさせる父でした。若い頃労働組合の先頭に立って闘っていた割には、部落差別や障がい者差別に囚われていた矛盾を併せ持っていました。
 差別の根絶に向けて微力ながら尽くすことを自分のテーマとしている私の当面の課題は、父にのしかかっているそれらの差別意識からいかに解放の手助けができるかということでした。私の前では差別意識をひた隠していたつもりの父でしたが、差別意識などというものは隠し通せるものではなく、何かあるたびにぼろが出て、私にやんわりと注意されることが余程こたえたのでしょう。元来頑固でわたしたち子どもには厳しかったのが、10年ほど前からは立場が逆転し、見え透いたいいわけをする父が私にはどうしても憎めず、つい笑ってしまうこともありました。
 葬儀に駆けつけてくださった皆様の前でお礼を述べるはずの私の口からは、図らずも嗚咽ばかりが出てくる始末で、今となっては何も語らぬはずの遺影が、言葉では尽くせぬほどに多くのことを表現しているのでした。このときほど、父を尊敬した瞬間はなかったといえます。
 差別をしてきたことが悪いのではない、差別をし続けることが悪いのですよ、そうか、そうか‥‥。そういう対話が交わされないまま、逝ってしまった父に、親とは子どもにとってなんとありがたいものであったか、感じざるを得ません。私もひとりの親として、子どももまた親にとってはありがたいものと思う日々です。
 平凡な親と平凡な息子。平凡な生涯にも人間は多くのことを語り、多くのものを引き出しあっていくのでしょう。

 「どういうタイプの人が好きなの?」よくテレビで聞かれる台詞ですね。だいたい「そんなこと聞いてどうするの?」という気にもなりますが、それはさておいて、こんな問いかけをするようになったのは、ここ2,30年くらいのものじゃないのかなぁ。

 ひとりくらい「俺はタイプで人を好きになったり嫌いになったりはしない。だから、俺のことも遠目から見て判断しないでくれ。」と切り返す輩がいてもよさそうなもんです。

 人間をタイプで分けるというのは、本当に人間の面白さが分かっていない連中の、たわいもない予断の応酬ごっこだと思います。人間というのは予測を裏切るから面白いし、それが恋愛の面白さでもあり、失恋の「苦さを伴った快感」を生み出す源泉でもあると思います。あえて失恋を快感であると言ったのは、自分の小ささを知ることで自分の生きている世界の広さをも知り、自分が大きくなろうとしていることを予感する瞬間でもあるからです。

 人間を表面で判断するようになったから、人間から思想や個性が抜け落ちてただ選ばれるだけの存在に自ら貶めてしまったから、人間に尊厳を認めず冒瀆されるままに冒瀆され続けてきたから、かくして正札のごとき可能性からも見放されたタイプに分別されて、商品のように陳列台に並べられてしまったのです。

 失恋するのが怖いから、恥をかくのが怖いから、いまどき人間達はタイプという安全なフィルターを通してしかものが見れなくなったのでしょうか。

 メディアの演出に巻き込まれて自分の真の素晴らしさが見えなくなってしまった人間たちよ。もっともっと遥か遠くを見つめ、自分に向かってこう語りかけよう。
「立ち止まったまま、既にずいぶん歩いてきたような装いはもうやめだ。これからは本当に歩き始めよう、一歩ずつ一歩ずつ‥‥。どれだけ歩けるかは全然どうでもいいのだ。ただ、歩き続けることだ。そして、出会いを重ねよう。自分はきっといろんな人と出会うために生まれてきたのだ。」

 私の家族は私たち夫婦と大学生、高校生の男児という4人家族です。
 別に何も厳格な教育方針があるわけではありません。ただ、子どもたちが生まれてこの方、あいさつは欠かしたことがありません。思えば、私はあいさつ好きの子どもでした。私のあいさつ好きは中学校で寄宿舎に入った時に始まります。
 家は曹洞宗でしたが大して熱心に信仰しているわけでもなくて、私は私立のカトリック系の中学高校一環校に進みました。木造の、隙間だらけで冬は風がひゅうひゅう入ってくる寮に、小学校を出たばかりの個性豊かなじゃりどもが14人、神父兼先生たちと寝食を共にする生活が始まりました。
 寮長の神父さんが体育の教師を兼ねていたために、朝は全員まだ暗いうちから起こされて、やれバレーボールだの何だのと特訓を受けた後、寮の掃除をするわけですが、箒掛けをしていると寮長以外にもいろんな神父(学校では先生を兼ねる)が通ります。そのたびにぺこりと頭を下げて「おはようございます」。学校では厳しい先生方も寮ではにこやかで、「元気がいいね」とか何とか声を掛けてくれるものですから、嬉しくなってまたやるといった毎日でした。
 その寮はあまりにおんぼろだったために、一年で全員退去、ほとんどの者が近代的な寮へと移りましたが、中学校1年生のときの生活が今でも私のなかで息づいています。

 あいさつが家庭の中で自然に行われているからかどうかわかりませんが、家庭ではユーモアを大切にする土壌があります。大学生の長男にはテレがあるのかあんまり自分から積極的に笑わせようというところはありません(それでも幼少の頃はよく笑わせてくれました)が、高校生の次男は冗談好きです。
 ユーモアは、使いようによっては重大な局面を乗り切るうえで大きな役割を果たすと考えています。特に、私のように、日頃から、やれ裁判員制度だの死刑制度だの差別問題だのに関わっておりますと、周囲との軋轢を生まない工夫というものが自然と身についてきたのだと思います。自分自身の精神バランスの上でも必要かもしれません。

 元来、こういうあけっぴろげなコミュニケーションとは楽しいものです。ずいぶん以前に、仕事か何かのことで考え込みながら車を運転していたとき、高速道路の料金所で係の方から掛けていただいたちょっとしたひとこと――たしか後部座席に乗せていたまだ幼かった長男を指差しにっこり笑って「気持ちよさそうに寝とるばい」と言ったんだったのかな――が私の気持ちを相当和ませてくれた記憶があります。
 必要なことしか伝えないというスタンスも時には必要でしょうが、プラス・アルファで何かを伝達していけたらいいなと思っています。そのぶん、相手と対面しない電話での応対が悪すぎるかなぁと反省もしていますが‥‥。

 集団の中で少数者が主張し続けることは並大抵のことではありません。特に、何らかの意思決定をせざるをえない組織などの場合は、その組織なりの歴史があるため理屈が常に「1+1=2」になるとは限りません。権威ある人たちのご機嫌をとることが組織ぐるみで行われたりしていくうちに「正論」がタブー視されてしまいます。

 そんな中にあって、私も常日頃から部落問題や在日コリアン問題を話題にしているわけではありません。ただ、組織の方向性を決定するような会議のなかで責任ある立場の人がこれらの問題の本質を誤っていると感じたときは、いくら私とは比べものにならないほど偉い人であっても、私は自分の意見をはっきりいうことにしています。これには私への反発が当然予想されます。一方、私はといえば難病をかかえる身。仕事は一生懸命やっていますが、とても完璧というにはほど遠い仕事ぶりです。そんな私が遥かに上の上司に利いた風なことを言うわけですから、言う方の私としてもハナから気後れがしているわけです。でも、言わなければならないと私は思っています。外からあーだこーだ言うよりも、私たちの内部での頑張りが組織をよくしているのです。

 同様の立場の方はたくさんいらっしゃいます。マスメディアにも、真実を報道しようと頑張っているジャーナリストの方や今のメディアのありかたを一歩でも正常化に近づけようと頑張っている関係者の方がきっとおられるでしょう。警察や検察あるいは裁判所にも必ず冤罪を憎み、それを失くそうと精一杯頑張っている人たちがいると思います。また興信所や探偵社には差別を助長するような身元調査をなくしていこうと努力している人たちがきっといるはずです。

 こういう四面楚歌の中での闘いは、続けることに意味があるのですが、まさに続けていくことがとても難しくて、励ましあいがあれば大分違うと思います。そして、孤独であるがためにともすれば自信を失ってしまいそうになっても、私たちの活動は間違ってはいません。たとえ、組織の長やる気がまるでな〜いと分かっていても、それが原因で周囲から浮いてしまったとしても、悪いのは自分ではなくほかの日本人全体だと誇りをもっていきましょう。


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