よっしー本店

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 自分のとっさのときの行動に万福の信頼を寄せることが出来れば、あらゆる不安から解放されるのです。難局にぶつかったときには、覚悟を決めて、ひとつずつ解決することです。いちばん肝心なことは面倒がらないこと。面倒がらなければ、途方にくれることも、絶望することもない。結局、自分で解決しようとしているのか、誰かが同情を寄せて助けてくれるのをただただ待っているのか、どちらかですよ。もつれにもつれた紐も丁寧に解こうとすれば解けるのです。自分が出来ないと考えている理由をほかの人が同意したからといって、本当に出来ないわけではない。

 「面倒がらない」ということをモットーにしているだけで大抵の難局は乗り切れるのですよ。漠然と「幸せ」を追いかけても、何も得られないだろう。なぜなら、具体的でないからです。

 今日は余り時間がないので、これでおしまい。

 約2年前に、私が二人の息子たちにあてたメッセージというのをまとめました。息子の結婚のおりや私自身の遺言としても使えるものですが、別に息子じゃなくたって一般的に五十路の人間から次の世代へ贈る言葉としても使えると思いますので、関心のある方はどーぞ。

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 これは私が二人の息子にいつか渡そうと思ってしたためたメッセージです。なかには、何のつもりだったか忘れてしまったものもあります(多分、思い出すでしょう!)。

一、退屈な時間を大切にしなさい。退屈は孤独の裏返しであるから、退屈から逃れることは、自分を見つめる機会を逸することです。孤独と格闘し自分を見つめることは苦しいことです。しかし、その苦しみの中から全ては始まる。つまり、退屈から逃れ続け自分を見つめない限り、何も始まらない。たとえ百年経っても何も始まりません。

一、なんとなく不安に毎日を過ごしているのは、自分のなかに未解決の問題が残っている場合が多い。そんなときは問題を大きな塊のままにしておかず、蕎麦をのばすように薄く広く伸ばしてみる。そして、できるところから一つ一つ解決していきなさい。
 このように、悩みや不安は問題を直視しない限りなくならない。そして問題が大きければ大きいほど塊のまま一挙に解決することはありません。

一、問題を解決するとき、二つのことを肝に銘じなさい。ひとつは何ごとも面倒がらずに丁寧に行うこと。もうひとつは、不安を必要以上にあおらず、事実のみを直視し、最終的には捨て身でのぞむこと。

一、性格という概念を疑ってかかりなさい。性格というのは、人間は変わらないという発想から来ています。それは、自分が成長することを面倒がっている証です。
 性格を信じなければ、性格という幻想はいとも簡単に突破できます。

一、真の自由とは、自分が信ずる道を歩く自由です。人の権利を侵さない以上、この自由は誰にも止めることができません。

一、権利を主張するときには、前提となることがあります。しかし、それは義務を果たすことではありません。権利と義務とは切り離して考えてよろしい。
 前提となるのは、他人の権利も同様に尊重するということです。

一、平等とは、右(上)の自由と権利を例外なく認め合うことです。平等を実現する主体は自分自身です。

一、学問も仕事もどうすれば楽しめるかを考えながら取り組むのがよろしい。
 楽しむためには、人と競争するよりも過去の自分と今の自分とを較べた方がよろしい。
 楽しむためには、工夫しなければなりません。
 工夫するためには、理解してなければなりません。

一、理解するというのは、応用例や具体的な例えが少なくともひとつは頭に浮かんでいる状態を言います。楽しむための理解とは、さらに自分の生き方と関連づけ、哲学を引き出すことです。

一、与えられて満足する暮らしよりよりも、自ら文化を創造し生産する暮らしの方がよい。前者はただ時間を消費しているにすぎず、後者は時間から多くのものを生み出すからです。

一、本を読まないと何も始まりません。学ぼうとしない限り、人生の転機も素晴らしい出会いも何も訪れません。そして、学ぶのであれば今このときを逃しては十年の歳月を無為に過ごすことになると思いなさい。

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 コンプレックスも大切な自分の一面です。綺麗ごとに聞こえるかも知れませんが、これを斬り捨てようとか、これに打ち勝とうとか、コンプレックスを否定的に捉えることは自己否定へと繋がっていきますから、あえて否定する必要はないと思います。かといって、コンプレックスに囚われていると壁を突破できないのも事実であります。

 ではどうするか、ということを考える前に、コンプレックスというものの正体を確認しておきましょう。コンプレックスには「性格」というものが深く関係していると思っていませんか。私はそこに周囲からの情報の刷り込みを読み取ります。私は「性格」という概念そのものを信用していませんが、それはさておいてもあなた(とりあえず二人称を使わせていただきます)のコンプレックスはその「性格」ゆえに存在するのではなく、そういう「性格」として情報を刷り込まれたがゆえに存在するのです。親や兄弟姉妹、親戚あるいは友人、知人によってあなたがそういう性格だと言われてきた事実があなたを苦しめてきたわけです。その情報が間違っていた、とは断言できませんが、少なくとも周囲の人たちがそろって陥っていた認識の誤りがあります。

 さて、私は「性格」という概念そのものを信用していないと申し上げました。「性格」という固定的な、遺伝をも連想させるその言葉は、全く罪深い言葉です。「性格」という言葉は個人の可能性を否定したところから出発しています。固定的だからこそ、「性格判断」で一喜一憂せねばならなくなるわけです。
 私たちは、暗い性格とか人に好かれる性格とか言いますが、「その人の行動様式やコミュニケーションにおける反応の仕方が習慣化されることによって周囲の人々に共通した印象を与えるもの」を「性格」として認識するに過ぎません。そして、それが習慣化しているのはその人がそれを選択しているからにほかならず、別のものを選択するには考え方を改めるだけで事足りるということ、それ以上でもそれ以下でもないというのが私の考えです。たとえ何万人の科学者が遺伝に起因した固定的な性格の存在を主張したにせよ、信用するかどうかはその人次第です。私は信用していないので「性格」とか「タイプ」とかいう概念は私の中に最早存在しません。それで、実生活で何か困ることがあるかといえば、全くありません。つまり、「性格」とか「タイプ」とかいう言葉は単に社会を混乱させているだけで、迷信の一種だと思っています。

 あなたが変えられないと思いつめていた「性格」は変えられる、場合によっては1日で変えられるということを踏まえたうえで、コンプレックスをいちど忘れることが大切だと思います。新しい生き方を選択するためには、日常を具体的に変えていくことしかありません。イチロー選手は国内でプレイしていた当時は「振り子打法」でヒットを量産していましたが、メジャーに行ってからは「振り子打法」という独自のスタイルをいともあっさりと変えてみせました。私はこの潔さが大好きです。
 新しい生き方で成功するかどうかはこの際あまり重要ではありません。新しい生き方に踏み切るかどうか、その潔さというか捨て身の生き方を選択しえたということが自尊感情に繋がっていくのだと思います。

 それができたとき、あらためてコンプレックスというものを思い出してみましょう。むしろ、コンプレックスがあなたを大きくしたとはいえないでしょうか。

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私の死生観

 私は洗礼を受けていないという意味ではクリスチャンではない。また、イエス・キリストを人間として捉えていたという意味でもクリスチャンから遠いところにいるのかもしれない。しかし、私はイエスを愛している。
 私は死んだ後に天国だの極楽だのに行くつもりもない。私は万物は現象だといってきた。若い頃、夢野久作に少しばかり傾倒したことがあった。「ドグラ・マグラ」に出てくる、人間は脳でものを考えているのではなくて、それぞれの細胞がものを考えていて、脳はその集合体としてそれらの考えを系統立てたり調整したりしているだけだという。私はこの発想に正直シビレた。荒唐無稽だとお笑いになるかもしれないが。
 私はさらに原子というものに「思考」のエネルギーがあるのではないかと仮定した。すると当然ながら、世界がかわって見え始めた。
 私は悟った。死んだら無に帰するのではなく、それぞれの原子が狭い肉体から解放されて、原子としての思考に戻るのだ。それはすなわち宇宙へ回帰することと同義である。こうして、我々は人間という現象を終えた後は、次の現象の中に「生き続ける」のだ。
 「死」とは架空の概念に過ぎない。万物に始まりもなければ終わりもない。それは、人間の肉体と寿命という有限の世界の中で経験だけを頼りに精一杯考えてきた空想でしかない。つまり、人間の行為の中で何かを始めたり終わらせたりするというところから物事には全て始まりと終わりがあるかのように人間が勝手に思い込んでいるだけのハナシであって、こういう風に人間の発想というものは自らの肉体を通して体験できることに向けて知らず知らずのうちにコントロールされてしまう。
 例えば、そのようなコントロールは「宇宙人」や「幽霊」というような想像上の存在にも現れていて、すでに擬人化してしまうという癖に人間自身はなかなか気づかない。宇宙空間に生命体を見つけたとしてもそれがどれほどの意味を持つのだろうか。宇宙空間に高度な文明を期待するという実に遠回りな発想よりも、既に存在が明らかな生物、たとえばミミズでも植物でも良いが、それらの生物が何をどう思考しているのかを想像する方がはるかに面白い。雌雄同体のミミズなどはそのことだけで人間の想像力では追いつけない。
 幽霊というものに関しては、これら自然科学的アプローチのほかに、文化人類学的もしくは民俗学的アプローチをしていくとまったく別の着地点にいたることができる。すなわち、幽霊という概念そのものを必要としてきたのは何者だろうかという発想である。これは、そのことで最も恩恵を受けているのが誰かという逆算をすれば良い。幽霊という空想上の存在は、倫理観と結びついており、「祟り」などと同種のものと考えたとき、民衆をコントロールするのに実に都合が良いシロモノなのだ。つまり、「宇宙人」を想定し脅威として情報化するのと全く同根で、古来より国家権力によってつくられ維持されてきたものと考える(参考―→http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/7142118.html )そして、テレビ・メディアがやたらこの種の番組を流したがるのも、視聴率をとりたいということだけではないという気がする。なぜなら、それは常に肯定的に流されるからだ。社会を混乱させるような俗信を迷信というならば、そういう迷信は正すことが社会正義であり、国民の「知る権利」にちがいないが、現実には報道機関が護ろうとする「知る権利」とは、たかだかこの程度の胡散臭いものである。
 また、人間にとって視覚体験で捉えられるもののみを存在視していく傾向があるのも人間の持つ不完全さ、不正確さを表わしているが、これについてはずっと前に拙文を書いている(「言葉の威力」 http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/21128245.html )。
 ほとんど、直感的に書いておりしっかりした根拠があるわけではないので、念のため。

   
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 つい先ほどある方のブログを読んで、私のかねてからの持論と一致するところが多く、自信に繋がってきたところです。すなわち、この間の裁判員法をめぐる論議で与党側からの批判を許していることでも明らかなように、全会一致で法案を可決成立させてしまった護憲政党の「護憲」とはいったい何なのかという根本的問題であります。どうも9条論議に振り回されすぎて、国民に身近な問題たるべき「個人の尊重→幸福追求権(→自己決定権)」(憲法13条)を中心に据えた運動や理論の展開がないがしろにされてきた結果、裁判員法という私たち素人でも見抜けるような違憲立法をプロの政治家の皆さんが見抜くことができなかったという現実に繋がっていることは間違いありません。

 ひるがえって、われわれ国民の側に言えることは、マスメディアがまさに御用機関となってしまった今、ネットの世界、ブログの世界が役割として相対的に重要度を増してきたことは事実であると思います。しかし、まだまだテレビ・新聞の刷り込みに対抗できる段階でもないこともまた、事実です。しかし、時間は待ってはくれません。メディアが真実を隠蔽している間に次から次へと重要な案件が決定されていくし、現行法すら無視されるという状態をいわば「許している」なかにあって、着実にネット上の論議を実力として蓄えていく必要があると思います。

 僭越ながら、ブログや掲示板などを眺めておりますと、他者の意見を揶揄するような論調が目立ちます。もちろん、「あらし」として故意に中傷的な批判をやっている人たちもいてそれに対して対抗している場合もあるのでしょうが、もともと単に意見の食い違いである場合も少なくありません。ブログを通じて社会正義を実現したいと考えている方は多いと思います。揶揄や冷笑的態度では肝心の論旨がぼやけてしまい論理的深まりに達することができないと思われてなりません。また、ブログがテレビや新聞を糾すだけの存在として大衆的に認められるには前途多難であります。まぁ、かく言う私自身、筆が走りすぎて人を必要以上に不快にさせたこともあり、同じ罪深き存在ではありますが、そこは素直に反省いたしまして、こういう僭越なことを申し上げる次第であります。

 裁判員法の凍結は不可避ですが、感情に任せていてはどうしても一発を狙いすぎて大振りになります。そんなときこそ、冷静になることが大衆的支持を受ける第一歩だと思います。最終ラウンド、力任せのパンチを振り回しても有効打にはなりません。かっこいい勝ち方をする必要はない、判定でもいいから兎に角勝つこと優先で、クールにジャブをコツコツと当てていきましょう。ジャブを当てるというのは、やるべきことを確実に行っていくことを意味します。凍結に対する反対意見に反論するなら丁寧かつ要点を絞って、行う必要を感じます。ヒートアップするなかれ。特に公式サイトのコメントのやり取りは多数の者が同時に見ていることをお忘れなく。ピンチをチャンスとして活かしきるかどうかはその人次第。相手をコントロールするためには自分をまずコントロールできてないと、タイトルは取れないと思います。


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