よっしー本店

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 Wikipediaからの引用。

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 文部科学省は、2007年1月19日、児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義を見直すことを決めた。従来のいじめの定義では「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」としていたが、見直し案では「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」とした。具体的ないじめの種類については「パソコン・携帯電話での中傷」「悪口」などが追加された。いじめの件数についても「発生件数」から「認知件数」に変更された。この定義によれば全国の小・中・高・特殊教育諸学校におけるいじめ認知件数は12万4898件にのぼる。[1]

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 ところで、児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)では、第12条でいわゆる意見表明権を謳っておりますが、それだけではなく、第13条で表現の自由を、第14条で思想、良心及び宗教の自由を、第15条ではなんと結社の自由及び平和的な集会の自由について、さらに第16条でプライバシーへの干渉または攻撃から法的に保護されることを謳い、第17条では児童にマス・メディアを利用する権利を認めております。
 日本がこの条約を批准したのは、1994年のことでありもう15年たちますが、この間国内で行われてきたことは、この条約を公然と無視するということでありました。特に、メディアがほとんど何も語ろうとしないだけでなく、1996年、当時の文部省は中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」でもたった2年前に効力発生した同条約を平然と無視し、最高裁にいたっては例の国籍法をめぐる裁判で横尾和子判事(当時)をはじめとする3名の判事が国内法よりも上位の同条約の存在を一顧だにしない論理展開をし大いに顰蹙(ひんしゅく)を買ったという、まあこの条約をめぐる国家やメディアのあり方とはその程度のことでした。
 もちろん、この条約を積極的に評価しようとする向きもあり、自治体によっては条例制定によって推進に努めるところが出てきたことなどはその好例であります。

 いじめ問題に話を戻すと、いじめが大人社会の反映であるということをテレビや新聞社説でよく見聞きますし、それは多分正しいのでありますが、それはあたかもいじめ問題は簡単にはなくなりませんよという風に聞こえます。メディアはいじめ問題が起こると教育委員会や学校を批判する割にはそのあたりの意見どまりで、子どもの権利条約のアピールもしない、要するに煽るだけの存在であります。しかし、無責任なのはメディアや国家ばかりではありません。おとな全体が、いじめ問題と向き合うことを面倒がっていると思います。
 私は、いじめと闘える子どもとそれを支援できるおとなの関係こそが30年以上も未解決のいじめ問題を根底から突き崩す力になっていくと思います。学校や行政は、「思いやり」とか「人権感覚」とかで解決を図ろうとします。それも大事なことに違いないけれど、いじめ問題を前にしたとき少しばかり悠長な態度といえないでしょうか。もっとも、いじめと闘うとは、いじめ集団と物理的に「戦う」ということではありません。条約そのものを使って、法廷で「闘う」ことも含め、現場現場であるいはいろんな媒体を使って支援の枠を広げていく、そういう知恵の集積と思想の醸成こそが具体的な「生きる力」を生み出すと思います。
 実は、子どもの権利条約は締結国に義務を述べているばかりではなく、子どもたちやおとなたちに解決方法を語ってくれます。そう、条約が子どもたちに保障したことを正々堂々と誰に遠慮もなくやってのければよいのです。

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 子どもたちへ

 いやなことをされたり、暴力を受けたり、脅迫を受けたりしたときは、それがいやなことである旨をはっきり伝える、つまり、警告を発する。何の警告って? 君は権利を持っているんだぞ。警察に告発する権利、民事裁判を起こす権利だってあるんだ。もっとも、親に手続きはしてもらう必要はあるけどね。でも、そっちの方が相談しやすいだろう? 「実は僕はいじめられているんだ」っていうのと「僕は連中を訴えたいから、手伝ってよ」っていうのとでは‥‥?。
 また、先生にチクルのではなく、学校側や教育委員会に改善を求める。それがかなわなければ、自殺なんかするよりもマスコミを巻き込んでハンガーストライキをおこなう、そういう勇気がないと自分を低く見積もる必要はないんだぞ。勇気というものは、最初は誰にでもなさそうに思えるだろう? 実は眠っているのさ。それを揺り起こすのが「思想」っていうやつだ。思想を身につけるには本を読むのが早道だ。「思想」をもつと不思議と仲間ができる。仲間ができたら集会を開けばいい。
 今言ったことは、全部条約で保障されている。生きているうちに闘えよ。君には国連がついているんだぞ、頑張れ。

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 もう数十年たちますが、地元の美術館で「パブロ・ピカソの陶芸展」というのがありました。上に魚がのったデザインのお皿などが記憶に残っています。しかし、諸作品に劣らず印象的であったのは、そのとき紹介してあったピカソの次のような言葉です。

「神様はゾウやキリンを初めてお創りになった。素晴らしい。大したものだ。だが、私も同じだ。いろんな新しいものを沢山創っている。」

 なんせ四半世紀も前に一度きり出合っただけの語録でありますから、記憶も薄れ正確にお伝えできませんが、まあ大づかみで言えば上記のような言葉だったと思います。こういうのを「自由」というんだろうなぁと感動いたしました。(ついでながら、この言葉を展示してくださった関係者の方に感謝していることも申し添えさせていただきます。)

 また、これも相当以前に知ったのですが、クラシックの流れを汲む吉原すみれ氏、ジャズの流れを汲む土取利行氏、この二人の国際的なパーカッション奏者がそれぞれ別の企画の番組や新聞で紹介された折、たまたま同じようなことを言っていました。これもピカソの例にたがわず大づかみですし、私なりのモチーフが知らぬ間に侵入しているかもしれませんが、曰く―――
「自分は音を奏でているのではありません。もともと材質が個性として持っている音を引き出して、いろんな音と音が出会う世界を楽しんでいるのです。」

 造形芸術と音響芸術との違いはあるものの、上記の2例に同じような可能性を感じています。様々な芸術が、素材を芸術家に従順でもの言わぬ材料として「調理」され、一方的に「加工」を加えられ、「消費」されるという前提で、商品として流通したり、官製の美術館の設置規準が定められたりしているのだと思います。それはそれで社会一般の広範な支持を受けたあり方でありましょうから、尊重いたしますし、私もその恩恵に与っているのも事実です。
 しかし、もっともっと芸術に対する価値観は多様であっていいとおもいます。作成の過程も芸術行為である以上、造形芸術を舞台芸術的視点で捉えるというあり方、あるいは芸術家を生産者、鑑賞者を消費者に類似した固定的な構図で考えるのではなく鑑賞者も生産的に鑑賞するというあり方(拙文http://www.geocities.jp/yossie_70/yl_seinonakani.htm )、延いては素材と素材以外の区別を廃したところから可能性を見るあり方(下記引用文参照)などがあると思います。
 久しぶりに家の片付け(まだ全然片付いておりませんが)をしていましたところ、なつかしい冊子が出てきまして、改めて目を通してみて30年も前に書かれたものなのに十分新しいと感じたものです。私の政治的意見の傾向もそのルーツは中学・高校のころのキリスト教との出会いにあると自分自身で思い込んでいましたが、ひょっとするとこのあたりも遠因になっているのかもしれません。ま、どうでもよろしゅうございますけど。



※参考(morgue No.3 Autumn 1980 の中から「PARIS 1976-1979 成瀬弘・青山マミ」より引用)
一九七九年三月 彼方へ
近藤等則、ユージン・チャドバーン

 彼らの使う素材の、「楽器」という観念をゆさぶる滅茶苦茶さは、演奏者と演奏行為を、それらを守るあらゆる幻影や制度から解き放つ起爆剤となる。近藤等則はトランペットを、ユージンはギターを使う。しかし、ユージンのギターには鍵束やドナルドダックの人形、針金や銭片がくっつけてあり。それ自体、異様なオブジェだ。ギターの箱も、壊れてガーガーいうマイクも、ヤスリも、まわりにころがっているものはみな素材になってゆく。近藤等則は毎日、カフェからかっぱらってきた灰皿や空缶の蓋や鈴木昭男のガラクタ食器をステージにもちこみ、床や壁や椅子を演奏にまきこんでゆく。トランペットやギターも吹かれたり弾かれたりするだけでなく、敲かれ、こすられ、風船やチューブによって演奏される。トランペットやギターは、ガラクタの間で、まだ主領のような顔をしているが、「技法的完成」とか「音楽」的音からは程遠い音共をまきちらす。ステージの上に堂々ところがっているもの達に囲まれる時、トランペットやギターは「楽器」としての特権を失い、音の出る可能性を秘めているもの達の一つとなることを強いられる。偏見に縛られることなくあらゆるものが等価の素材として在る時、「音楽」的美意識の基準からはずれたノイズが効果やリズムとしてでなく音そのものとして在る時、「音楽」的音がはりめぐらす幻影の幕は消えさり、演奏行為そのものがより生々しく迫ってくる。一瞬一瞬、ものと音とエネルギーに出会い、それを受け止め、己の内側をかけめぐらせ、再び外へ吐き出すこと、それは呼吸に似ている。しかし、知らないうちに行なっている呼吸ともちがう。そこでは、ある観念、ある感情、ある意味の伝達は行なわれない。なにものも説明されず、なんの解答も与えられない。呼吸そのもの、行為そのもの、音そのものが提示される。演奏者の一瞬一瞬に於ける世界との、事物との出会いと、出会ったものへの視線だけが浮彫りにされる。演奏者はなにも物語らず、ただ出会い、在るものを提示しつづけることによって、そこにある不可視の宇宙を現出させる。その時、灰皿は灰皿でありながら、「灰皿」ではなくなる。
 音は耳で追いかけられるのではなく、この空間をとびかっているエネルギーとして視えてくる。聴く者は、聴くのではなく、体験することを強いられる。(以下省略)


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夢はつねに眠りの中

 私は自分がまだ幼かった頃、昼寝から覚めたときよく泣いていたことを憶えている。夢の世界は常に心地よく、それに較べて現実は苦しみに溢れていたからだ。

 人間とは弱く醜い存在にもかかわらず、そのことをしばしば忘れてしまい、完成された人間になったと、あるいは完成された集団であると、錯覚してしまう。
 自分だけは弱くないし、清廉潔白だと信じたい。しかし、それは絶対に幻想に過ぎないのだ。たとえ、何万人もの人々が賞賛してくれようと、幻想なのだ。賞賛にいつまでつきあっていても夢の続きを見るようなものだ。私たちに真に必要なコトバがあるとすれば、夢から覚ますような言葉であるかもしれない。

 誰でも夢を見続けたい。しかし、それは夢なのだ。夢を見ている間はものごとが前に進まない代わりに、夢から覚めたときにものごとは前に進む。だから夢から覚めて嘆く必要はないのだ。終わりではなく始まりなのだ。私たちは常に成長過程にいる。それは人間の可能性と表裏の関係だ。

 私たちにできることは、それでもめげずに頑張ることだけなのだ。
 問題は、私やあなたが弱く醜いかどうかではない。それは誰でもそうなのだ。
 大切なことは、その現実を見ようとしているかどうかだ。
 大切なことは、弱く醜い自分と格闘しているかどうかだ。
 大切なことは、弱く醜い他人を放逐することではなく、いかに連帯し、弱さ醜さとの格闘に力を与え合えるかだ。

 めげずに行こう、めげずに‥‥。


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言葉の威力

 小学生の頃、理科の先生が気体・液体・固体の話をされて、気体は見えないが液体と個体は見える、私たちの身の回りにあるものはこの3つのどれかから成り立っている、と言われたことがあります。すると質問がいろいろ出て「雲は何体ですか」「ナメクジは何体ですか」‥‥等々。私も聞いてみた「火は何体ですか」‥‥。このとき先生は何もお答になりませんでしたが、いまの私には分かるようになりました。火(炎)はモノではなくて、燃焼という「現象」であるということが‥。人間は「燃える」という現象を視覚体験できたためにモノとして認識し、「火」という名前をつけたのでした。

 では、いったい何がモノで、なにが現象なのか、それらを区別しているモノサシは何かを考えたときに、まず万物は現象であるという結論めいたことを先に申し上げておきたいと思います。私たちの体験では「水」はモノとして認識されますが、少し長いスパンで考えたとき「水」はその時点でたまたま「水」なのであって、環境が変われば氷だったり水蒸気だったり、あるいは化学反応をおこしていたりするわけで、すなわちH2Oが液化している現象を人間がモノと認識して「水」という名前をつけたというのが正しい順序だといえます。同じようなことは山とか海とか私たちが当然モノだと認識している対象も、造山活動の一瞬間を人間がモノと認識して「山」という名前をつけた、というような言い方をしたほうが正確だし、自然科学・人文科学・社会科学の垣根をこえることで、人間文明の傾向を測ることができます。それはともかく、何をもって人間が現象をモノとして認識するか、そのモノサシは‥‥現象の移り変わりが体感できるかどうか、少なくとも人間の寿命の範囲内で移り変わりがはっきりしない場合は、モノとして認識するという了見の狭い世界で人間という輩は活動しているわけであります。これは人間の限界であり、致し方ないことかもしれません。

 しかし、人間の発想がそれを示すコトバの有無によって誘導を受けるということは知っておいてよさそうです。たとえば、差別表現は差別感情に繋がっていきますし、存在しない(かもしれない)ものを存在するかのようにさす言葉もあります。「奇跡」「天才」「知能」「性格」「本能」‥‥私たちが普通に使っているこれらの言葉も実体の伴う概念であるとは限りません。政治的意図があってあるコトバが作られ流布された史実もあります。たとえば「性格」というのは架空の概念であって、実際はその人なりの「ものの考え方」があるだけで、それがいくつかの目を通してタイプ化されただけなのだという考え方があります。また、「階級」「共同幻想」「偽善」「演出」「自由」「解放」なども支持するかどうかは別として、同様の言葉と言えます。

 一方、あるコトバがあることによって、逆に内面的に励みとなり、連帯のきっかけになることもあります。「セクシャル・ハラスメント」「性同一性障がい」などは、そういう言葉が存在することによって苦しんでいるのが自分だけではないことを知ることができます。
 言葉一つで世界が変わると思いマス。

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我が心の植木等

 私が小学生の頃のアイドルといえばクレージー・キャッツ。昭和30年前後に生まれた世代には面白いというよりも、カッコイイおじさんたちでした。ギャグそのものに気品があって、いかにも大人向けのコメディアンという感じで憧れの的、相当入れ込んだものです。特に植木等が放つ「ナニ? およびでない?」というジョークは、今で言う「空気が読めない」という感覚をギャグったものですが、今のように批判的、排他的、冷笑的な対象として外に追いやるのではなく、みずからふてぶてしさを持って「異端」を演じることによって勇気ある笑いに仕立てたところがスゴイ! これは小島よしおのヒット作「でも、そんなの関係ない」にも繋がっていると思います。

 大学に入って私は再びクレージー・キャッツを意識するようになります。当時、ジャズにのめり込んでいた私(いまだにそうですが‥‥)は、日本におけるモダン・ジャズの黎明期を捉えた「幻のモカンボ・セッション」というレコードのライナー・ノーツに、油井正一氏が「セッションの世話人がハナ肇と植木等」だったことを書いていたのを読んだからです。また、その演奏があった当時の著名なバンドが写真で紹介されていましたが、その中にベーシスト犬塚弘の姿も見つけることができました。以後、ジャズ・ミュージシャンとしての彼らに関心が湧いてきます。私がもっともカッコイイと思ったのは、メンバーが自分の楽器だけではなく、いろんな楽器がやれるというところでした。なかでも谷啓はさすがにシャープス・アンド・フラッツで鳴らしただけあって、トロンボーンはもちろんフルートやヴィブラホンまで何でもござれ。植木もボーカルだけと思っている人も多いようですが、ギター部門でスイング・ジャーナルの新人賞を受賞したというから、やっぱり只者ではない? 私が密かに憧れていたのは、実は安田伸のマルチ・リード奏者ぶりでした。

 社会人になって、私は部落解放運動へ傾斜していきますが、ちょうどそのさなかに反戦反差別の闘士としての植木等と出会います。父親への思いを書いた「夢を食いつづけた男—おやじ徹誠一代記」との出会いがそれです。

 まるで私が歩く道々に待ち構えていたかのように現れる‥‥といえば、我田引水も大抵にしなさいと失笑を買いそうですが、何ごとにも半端でない彼らは、いつになってもアイドルであり続けます。そういえば、映画「会社物語」で植木と犬塚がチャーリー・パーカーに熱心に聴きほれる場面がありますが、じーんと来ましたね。ホントに涙が出ましたよ。

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