よっしー本店

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日本のメディア

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悪名高き「記者クラブ」に代表されるメディアと政権・官僚組織・大資本等との抜き差しならぬ癒着構造。とくに小泉構造改革断行の中で、メディアは3つの大罪を犯したと考える。
1.客観報道を大きく逸脱し、小泉構造改革の賛美に走ったこと。
2.構造改革の過程で謎の死を遂げた人物についての事実。また裁判員制度では60名の党派を超えた衆参両院議員が結集し「違憲立法であった」ことを認めた事実。さらに小沢前民主党代表の政治資金規正法に則った処理が何ら法令に違反していなかった事実。これらに関して、積極的に報道しようとせず国民の知る権利に何ら応えてこなかったこと。
3.和歌山カレー事件をはじめとする報道には、捜査の疑問点が多々存在するにもかかわらず、必要以上に介入をし、むしろ世論を誘導してきたこと。

よっしー道場では、これらの批判だけでなく、メディアの側に身をおきつつも矛盾を感じている方々との連帯を探っていきたい。
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朝日新聞批判

http://www.asahi.com/national/update/0103/TKY200901030115.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090104ddm010040010000c.html
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090104/trl0901040800000-n1.htm

 上記は、裁判員制度に関する朝日・毎日・産経の各新聞社による社説の内容です。この3社のうちでは、朝日新聞がもっとも制度に対する突込みが甘いというか、何ら疑問を持っておらず、産経新聞がタイトルでも明らかなように、いろいろな角度から疑問を呈しています。

 「朝日新聞社は護憲」というイメージが単なるファッションに過ぎないことは最早あきらかであります。裁判員制度をはじめとする今回の司法制度改革のベースがアメリカからの要望に端を発しているということ、法曹界の制度に関する見解が特に日弁連と裁判所側とで一致していないこと、国会で審議に要した時間が2ヵ月足らず実質3週間であった事実、大地の会鈴木宗男議員の指摘は「新たな義務を設けるのは憲法違反」との主張であり延期そのものを目的とした意見ではないこと、社民党保坂展人議員の法務委員会での憲法18条「苦役の禁止」違反の疑いについての指摘等々、インターネットの世界では常識化しつつある内容に、朝日新聞はこの期に及んでまだ頬かむりをするつもりでしょうか。

 もう劇場型は通用しません。ネットの中では多くの人がメディアの欺瞞に気がついています。小泉劇場をとっくに総括していますから。朝日新聞社はいくら左翼的装いをしても右とか左とかでお茶が濁せる時代ではありませんし、そもそも憲法認識が他社に比較して、いや一般の国民に比較しても勉強不足と見えて仕方ありません。このままでは朝日新聞社ではなく朝日旧聞社ですよ。

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 私は田母神前空幕長の発言にただ呆れたり憤慨したりするだけのメディアのあり方は間違っていると思います。同氏の言論の自由という主張に対して、全く正面からぶつかろうとしていないからです。中国や韓国が反発を強めるのは必至と新聞には書いてありますが、そうであるならばなおのこと、新聞の責任を果たしたらどうでしょう。
 たとえば、同氏の論文の問題になっている部分を掲載し、新聞社としてどの部分に事実誤認や論理的な飛躍があるかを指摘していくのです。メディアがこぞってそういう対応をとれば、国民にも事実関係が分かるし、また国民自身の学習にもなります。そうした積み上げの中で日本人全体の歴史認識が深まれば、同様の論文や発言があったとしても外交問題にまで発展するでしょうか。事実関係がいい加減であったり論理に繋がりがないなどしたとき、その論文は中国や韓国がどうだという前に日本国内でまず具体的な批判の対象になるでしょう。あるいは、物笑いのタネになるかもしれません。国内で認知を受けないような発言や論文は淘汰され、消滅していくでしょう。
 今のようにやれ、「謝罪の言葉もなかった」とか「懲戒免職にならなかった」というような底の浅い批判を繰り返していても、上滑りするだけです。このままで行くと、論文の内容を知る者もないまま何の教訓も残さずに終わってしまいそうです。いつもそうです。日本人全体のそういう努力を中国や韓国はずっと期待している、私にはそう思えてなりませんが‥‥。そうして、そういうなかで麻生総理の任命権が野党の追及によってではなく、国民全体の目から批判されるようになるのではないでしょうか。

 ここ2,3日、ノーベル賞受賞者が日本人のなかから続いたということで、相も変わらず「日本、バンザーイ!」とアオスジ立てて叫びたがる報道の前に、当の受賞者の方が困惑してしまっているようです。なかには「あんまり万歳、万歳とやらないでください」と逆にメディアに向かって注文をつける方がおられて、私などは痛快に感じたものですが、「なぜ、いっしょになって喜んでくれないのか」という押し付けがましいメディアの圧力の前に態度を変えざるを得なくなったようです。
 私が思うに、ノーベル賞の受賞が嬉しくないわけはないと思います。しかし、それは純粋に研究者の研究に対してであって、それを「ニッポン、バンザーイ!」というような別の意味づけをねじ込まれることに不快感を示したものであろうかと思います。「素直に喜ばなかったこと」に逆にメディア側が不快感を示し、当人にお詫びめいたコメントをさせてよしとするマスコミの傲慢さは報道ハラスメントとでもよびたいくらいです。
 片やオリンピックで金メダルをとった柔道の石井慧さんの「天皇陛下のために戦った」というコメントなどは、マスコミも大喜びして、オリンピックはかくあらねば‥‥と言外に言っているような気がします。石井選手がどういう感覚で戦おうが私の関心外でありますが、現憲法下の象徴天皇にしてみれば「もっとご自分のために努力してくださいよ」と考えておられたかも知れません。いずれにしろ基本的人権を唯一否定されている天皇にとっては表現の自由や思想信条の自由すらなく、こうして有名人の復古的発言に対してもただ微笑みながらあえて受け皿にならねばならないことを考えれば、私は今の天皇自身、報道ナショナリズムの被害者でもありうると思っています。
 メディアとは本来媒体という意味でありましょうが、このように報道媒体が意思を持ちすぎると、国民の知る権利を満たすという関係者の大義名分が相当に眉唾物で、真実を知らせる責任ではなく真実とは似ても似つかぬ意味合いに事実を塗り替えている「広報」機関と感じている人は少なくないと思います。
 このようなマスコミに対して、NHK受信料を支払い、読みもしない新聞代を近所づきあいの手前支払っている私の家族の生活にも責任があるのかも‥‥。

 最近、「モンスター・ペアレンツ」なる言葉が教職員に限らず大流行しているようですが、こういう風潮を私は二つの視点から見ておいたほうがよいと考えているところです。
 まず、権利の主張に自己責任を確認する視点が遊離していることをややシニカルに表現しているのでありますが、そもそも権利でもないものを権利と曲解している場合もあると考えられます。「反射的利益」といわれるものがそれで、たまたま親切でしてあげた行為がいつのまにか役割として当然視されるようになる場合などにつかわれたりしていますが、これが頻発すると「親切もほどほどに」というような抑制的コントロールが個人や組織集団にはたらき、社会の硬直化を招いていることは事実でしょう。
 もうひとつの視点というのは、「モンスター・ペアレンツ」や「クレイマー」に類した表現がやがて一人歩きをはじめ、逆に正当な権利主張をも封じ込めようとする動きに繋がりやすいということです。特に、メディアはこういう言葉を意識的かどうかわかりませんけど多用しがちであり、もの言わせぬ世論づくりに結果的になっているのではないかという懸念を私は持っています。たとえばテレビのハイビジョン化にはもっと批判が集中してもよいと私などは思うんですが、批判があってもそれをメディアがなかなか取り上げようとしないために、私たちはそういう批判があたかも存在しないかのように思い込んでしまってはいないでしょうか。
 「五十歩百歩」という言い方で簡単に納得してしまう国民性。本来ものわかりがよいのは美徳のはずですが、メディアが巨大化してしまった現在、物分りがよすぎるというのも罪深いと言わざるをえません。それは肝心のときにもの言えぬ社会を自ら引き寄せているということであります。


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人間を取り戻そう

 メディアによって流される情報ばかりではありませんが、報道番組などでは人間が誇張されて描かれがちです。つまり、とんでもなく悪いヤツか、はたまた善良なる市民か、そのどちらかとして人物像を作り上げていきます。それは、私たちの先入観や偏見を満足させる形で情報提供され、私たち自身も意識していない排他性にきっちり収まりながらいとも簡単に受け入れられていきます。私たちのなかにある排他性は、自分に利益をもたらさないものに対しては冷淡になりがちですからメディアとしては照準を合わせやすく、少数者を切り捨てたような番組づくりがマニュアルどおりに作られてゆき、お茶の間には多くの視聴者に都合の良い情報のみが溢れかえるという仕組みです。それらの番組は視聴者にこうささやいています。
「今度起こった事件は、とんでもなく悪いヤツがやったんですよ。悪いことをするヤツっているんですねぇ。親の育て方が悪かったんでしょうね。被害者は誰からも好かれた、あなたのすぐそばにいそうな善良な市民です。だから、あなたたち善良な市民は気をつけないと大変なことになりますよ。」

 「高度成長時代」に都市化が進むなかで職住分離も進み、私たちはお互いの生活が見えにくくなりました。また、急激に産業構造が変化するなかで、労働者組織も弱体化を余儀なくされました。こうして地縁・職域両面で連帯意識が薄れる一方で、メディアの影響力が群を抜いて肥大化していきました。個々ばらばらの大衆の価値観をメディアが一手にひきうける格好になったのです。しかも、情報は一方向的で、ややもすると視聴者をコントロールしてしまいかねません。現に番組制作者が先入観で善良なる市民と「悪いやつら」とに分類し、結論を急ぐかのように断罪していく例は枚挙にいとまがありません。
 こういうことが長く続くなかで人間がコンパクトに診断されるような風潮がまかり通り、本来人間が持っている良い意味で矛盾した側面が抜け落ちてきて、紋切り型の言葉で表されるものにタイプ化されてきたのです。メディアによって、あるいは人間によってひとたびタイプ化された印象は、修正が施されることもなく定着してしまいます。以上はとりたてて分析と呼べるほどの作業を労したわけでもなく、私の個人的な見解にすぎませんが、これらの傾向が冤罪を「受け入れる」社会を生み出しているばかりでなく、「いじめ」の遠因ともなり、「ひきこもり」に人間を追い込んでいるような気がします。

 人間には、いろんな側面があり表情があります。本来、決して善良な市民か悪いやつらかに分類されるものではなく、そのときどきによって善くもなり悪くもなるものだと思います。問題は私たちがそのことにどう関わるかというところで、自戒を込めてもの申せば、たとえば距離を置いて批評する態度もありますが、人間の持つ善良な側面をいかに引き出すか、引き出しあっていくかという視点も大切ではないかと思います。前者は人に迷惑をかけてはならないとする立場に共通し、後者はちょっとしたことを迷惑がらないとする立場に共通する面があります。どちらも必要なことかも知れませんが、前者ばかりが強調されているのではないでしょうか。それは、課題を他者の責任にしておくか、自分の課題として見つめなおしているかということにも繋がっていくと思います。


※ 現在、「裁判員制度」に関する投票を行なっています。ご協力ください。


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