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裁判員制度の当初の目的は何だったのだろう。日弁連は司法に市民感覚を取り入れるためであると言っているが、法律にはそうは書いていない。裁判員法には、第1条にこう書いてある。
第1条 この法律は、国民のなかから選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。
つまり、もともとは「司法に対する国民の理解とその信頼の向上に資する」からという理由で制定された法律であって、理解が足りないのは国民のほうであり、国民は司法を信頼せねばならないという考え方が基本になっている、要するにあべこべなのだ。はたして、これはほうっておいていいことだろうか。
大きな間違いほど周囲には分かりにくいという。最初から大きな誤りがあるなどとは思ってもみないから、ついつい周囲の視線は小さな間違いやどうでもよいことに向けられがちなのだろう。そして、理屈はあべこべでも語呂合わせさえそれらしくできていたなら、キャッチコピーに慣らされた現代の日本人には案外するりと納得されてしまうものだ。
ここで問題なのは、これをあべこべのままに見過ごしておくと、「主権在民」という現憲法を支える理念のひとつが大きく後退しかねないということだ。まして、この法律では裁判員等が裁判所に出向くことを「出頭」と言っているのだから、この国家と国民との位置関係を確認したい気になるのは私だけではあるまい。
さて、国民の抱く疑問などには、国は可能なかぎり丁寧な対応が求められると私は思っている。それが、いかに初歩的な疑問、マイナーな疑問であっても、合理的・効果的な手段で疑問に答えていく必要がある。最近、マスメディアは国民の一部の意見に対して、コメンテイターがさも呆れ顔でまともに受け答えしない傾向があるが、よくないと思う。少なくとも、国の機関にはそういう対応はあってはならない。それが、国家と主権者国民との基本的な位置関係であり、国民の「知る権利」の根拠のひとつである。
裁判員法が定めているのは、国民の理解と信頼が足りないから裁判員として刑事裁判に関わってもらおうという荒っぽい発想だが、そもそも国民の理解と信頼が充分でなかったかどうかさえ、私たちには分からないままであった。そして、ここが曖昧である以上、課題が克服されたかどうかを知るすべはなく、裁判員制度という国民に厳しい役務の提供を求めるこの制度は、エンドレスで続くことになりはしないか。また、この制度を推し進めてきた最高裁が違憲立法審査権を併せ持つという、見過ごすことのできない大きな矛盾があり、検察審査会同様、司法に対する新たな不信を招いていることは皮肉といえば皮肉だが、両者には同根の問題が宿っていそうな気がする。
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裁判員制度
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裁判員の自由権や自己決定権に関して考えます。なお、憲法の複数の条文に関連する記事も、ここに収めます。
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4月14日のNHK総合テレビで朝やっていた「週間ニュース深読み」という番組で、裁判員制度について3年後の見直し時期にあたるということで、ラサール石井氏をはじめ3人の聞き手が推進側の学者さんとNHK解説員、それに制度改善派の市民運動家にツッコミを入れるという結構みどころのある番組をやっていました。
国民にとっては、いつの間にか決まった印象が強いが、①この制度を導入するにあたって国民の側から要望があったのかという問いに対して、それは特になかったけれども、②三権のうち立法府・行政府には市民参加がシステムとして導入されているのに司法だけにそれがないというのはおかしいし、③国民にも一部参加してもらうことによって司法に関しても責任ある社会を実現していくという趣旨で設けられていると説明していました。
また、④裁判員体験者の多くの人たちが「体験してためになった」と応えているということを強調していました。
これらのことについて、私は次のように考えます。
①国民から要望もないのに、憲法に定めのない新たな義務を課したことに関して。 これは司法制度改革審議会の様子をマスメディアが積極的に報道してこなかったことも問題でありますが、マスメディアが申し合わせたように報道してこなかったと感じられるのは、むしろ法務省や最高裁が情報を積極的に提供しなかったためではないでしょうか。こんな憲法に疑義を生じるような制度改革について、国民に土壇場まで内容を知らせずにいて、国民にばかり「責任ある態度」を求めるというのは、どうなんでしょうね。国民主権というのをつまみ食いするような姿勢には納得ができません。
②は、司法に国民が参加できなかったのは、裁判所が無謬性を主張してきたからで、それは今でも変わっていないと思います。③のように、国民に主権者としての責任を持たせるなどと主権者を見下ろした見方をしているようでは、改革自体が抜本的に進むということは期待できません。
つまり、私が言いたいのは、司法のどこが弱点なのかを具体的にしないと国民参加で司法の何が改善されたかが明らかにならないということです。改善すべきところに国民参加の余地を検討するというスタンスでのぞまないと、国民に大きな負担を背負わせる以上、はじめに負担ありきでは、納得できないでしょう。
素人の私が思うに、日本の刑事司法の弱点のひとつとして、冤罪を生みやすいシステムと再審制度の立ち遅れがあると思います。まず、そこに風穴を開けるような国民参加であれば、国民の要望もあるわけです。裁判員のような人間の基本的人権と直接対峙せざるを得ないような役割を担わせるのは苦役そのもので、それを職業として自ら選択した職業裁判官といっしょくたにするのは乱暴といわざるを得ません。そもそも、「意に沿わない苦役」かどうかの判断を本人でなく裁判所が下すという、この傲慢さがある限り裁判所に基本的人権の理解を求めるのは無理と思いませんか。
④はどのようなアンケートをとったのか明らかにする必要がありますが、それはさておき、裁判員の人生にどう反映されるかというような、司法制度改革と直接には関係のない統計に最高裁がこだわる理由は、裁判員制度の目的が司法のシステムを変えるのではなく、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」(裁判員法第1条)ことにあるためで、いうなれば裁判所側の要望のみが目的化されています。
裁判員制度導入時の背景について、「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアチブ」が発端であるといわれておりますが、そういう情報を国民の前に明らかにしないと、裁判員制度について狐につままれたような印象がぬぐえないと思います。
最後に、裁判員をされた経験をより効果的に生かすうえで、裁判員経験者に対するアンケートの内容を充分工夫されたものにする必要があります。せっかくご苦労なさったのに、その経験が司法制度に反映されなかったら、大きな損失です。
何度もいいますが、職業裁判官が職業選択の自由に基づいてその仕事を選ばれたように、凡ての国民はほかの職業を持っておりそれぞれ責任がありますし、個別の事情もあるはずです。そういう人間関係を引き裂くような重圧を伴う制度は、いくら裁判所が考慮していくといったところでおのずと限界がありますから、当初の目的を達したならば、できるだけ速やかに制度を終結していただかねばなりません。ところが、今の制度では設置目的が非常に曖昧であるために、いわばエンドレスの義務と重圧を国民に強いる結果になっています。これでも「主権者の責任」とおっしゃるのでしょうか。結果だけ負わされる人々のことを「主権者」というのでしょうか。
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裁判員制度は裁判員として参加する人に関しても、また刑事被告人としてこの制度に巻き込まれる人に関しても、憲法が保障した基本的人権を損なう危険が大きいため、基本的に私は反対なのでありますが、2009年5月21日に施行されて3年目の見直し期にはいっていることと、では反対の立場とはこの裁判員法を廃止することがベストの選択なのかどうか、先入観をできるだけ排除して改めてこの機会に考え直してみようと思いました。というのも、現時点で憲法に抵触すると私は考えておりますが、現行の司法が憲法を逸脱し、特に基本的人権はすでに何ら実体を伴わないものとなっているときに、憲法を拠り所とする闘いだけではいかにも心もとない、未来への展望が全く見えないと感じるにいたりました。
司法とは何か、職業裁判官とは何か、そして冤罪はどうして起こるのか、さらに死刑制度をどう捉えるべきかというさまざまな疑問に、この制度を通じて、一般の市民が多様な目で判断し、現行制度の矛盾点に斬り込んでいく機会が転がり込んできたことも事実です。いかに制度全体が公権力のおもわくに満ちたものであるとはいえ、この制度自体がやりかたひとつで傲慢なる反動国家が不用意に出してきた渾身のブロウに対して、力なき者たちによる力なきパンチが絶妙のカウンターとなって炸裂する可能性もあるといえます。
憲法を守るという立場から、憲法違反に目を光らせておくという態度は重要です。しかし、いったん憲法の人権ラインが反動国家によってなし崩しにされた場合は、護送船団方式による憲法擁護は急速に力を失ってしまうのです。思えば、私自身が国民のもつ可能性をいつの間にか軽視しておりました。
能書きの長くなりすぎるところが私の欠点です。
具体的に見ていきますと裁判員法の第1条がまず問題です。
第一条 この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。
「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」の部分は、まるで司法当局にはなんら間違いはないのだが、国民の無理解のために信頼関係を損ないかねないので、国民に対する教育の意味で実施するという意味に聞こえる文脈です。実際、日弁連のことはよくわかりませんが、検察と裁判所はまさにそのように考えているようです。
私は、この法律全般にそういう考え方が、色濃く反映されているなかで、国民の権利をまもるためだといわれても嘘っぽく聞こえてしまうのは当然です。いまは制度の定着に懸命な裁判所が国民に歩みよった運用をしてはいますが、この法律の危険性が尋常でないことは間違いありません。私は、この裁判員法という器を活かしながら、冤罪をふせぐためには検察に対する裁判所の独立性を確保することも肝心だという視点も含めて、次のように改めるべきだと考えています。
第一条(改定案) この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の権利に関する理解を増進させるとともに司法上の手続について監視し以て誤判を防ぐことが、その信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。 (赤字で書かれた部分が改正点です)
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まずは11月16日の判決文からの引用です。
裁判員制度は,裁判員が個別の事件ごとに国民の中から無作為に選任され,裁判官のような身分を有しないという点においては,陪審制に類似するが,他方,裁判官と共に事実認定,法令の適用及び量刑判断を行うという点においては,参審制とも共通するところが少なくなく,我が国独特の国民の司法参加の制度であるということができる。それだけに,この制度が陪審制や参審制の利点を生かし,優れた制度として社会に定着するためには,その運営に関与する全ての者による不断の努力が求められるものといえよう。裁判員制度が導入されるまで,我が国の刑事裁判は,裁判官を始めとする法曹のみによって担われ,詳細な事実認定などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために,法に関する専門性が必須であることは既に述べたとおりであるが,法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ。刑事裁判のように,国民の日常生活と密接に関連し,国民の理解と支持が不可欠とされる領域においては,この点に対する配慮は特に重要である。裁判員制度は,司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが,それは,国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することによって,相互の理解を深め,それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる。その目的を十全に達成するには相当の期間を必要とすることはいうまでもないが,その過程もまた,国民に根ざした司法を実現する上で,大きな意義を有するものと思われる。このような長期的な視点に立った努力の積み重ねによって,我が国の実情に最も適した国民の司法参加の制度を実現していくことができるものと考えられる。
判決文にふれる前に、もう一度、この法律が出来た当初の社会背景を示す国会の場でのやりとり(2009年4月3日衆議院法務委員会における森法務大臣の川内委員に対する答弁)を確認しておきましょう。この法律に関して、当時立法事実(この法律を必要とするような社会的背景)はなかったということです。したがって、国論を二分するような危険を冒してまで、今となっては、続ける必要があるのか、ということです。それと、私たち国民は冤罪等により基本的人権が侵される危険があることも併せて考えていく必要があり、「迅速さ」「分かりやすさ」のほかに、これまで以上の「正確さ」を刑事裁判に求めていかなくてはなりません。
さて、判決文には論理的な展開が必要と思われる箇所で、あっさりとした修辞により論理を飛躍させている部分があり、全体としては論理展開に無理があると思います。
たとえば、事実認定と法に関する専門性について、最高裁は、法に関しては高度の専門性が必要であるが、事実認定に関しては専門性を必要としないという立場でした。そうすると、「法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ」とは、事実認定のことを言っているのか、法に関する専門性をいっているのか、非常に分かりにくい文であります。もし、事実認定のことを言っているのだとすると、被告(裁かれる側としての国民)の防御権は侵害されないのかという疑問が残りますし、「時に国民の理解を困難にし」ているものを裁判員に判断をゆだねていることになります。一方、法に関する専門性であるとすれば「感覚から乖離したものになっている」のは法に関する専門性になるわけですから、裁判員の権限として法に関する専門性が求められてきます。
そこで問題になるのが、「法に関する」というのを法解釈と法の適用とに区別して、専門性を有するのが法解釈であって、法の適用には専門性が必要でない、という解釈が可能かどうかという点です。これに関しては、裁判員法第1条にある法の趣旨、「国民のなかから選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」ことが、どの程度のものを想定しているのかということと微妙に関連してきます。法解釈についての専門性を身に着けていないならば、法の誤用などをチェックする機能が裁判員制度に新たには設けられていないことになるのではないでしょうか。結局、被告(裁かれる側としての国民)の防御権が裁判の迅速性および分かりやすさと引き換えにされているならば、国民が裁判員として参加することの意義として残るは量刑の問題だけということになるような気がします。
したがって、裁判員の多くが熱心かつ誠実に取り組んでいる現実があるにせよ、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」として、「裁かれる国民」にとって期待できるはずの司法に対するチェック機能がシステムの上でなおざりにされているとしたら、国民にとってメリットはきわめて低く、一方、景気の回復に、また冤罪事件の多発に国民が不安感を増している中で、裁判所にとっても量刑判断の重苦しさを一般の国民とで「分かち合う」ことに、いったいどれだけの意味があるのでしょうか。
文中、朱書きの部分は1月4日21時に加筆したものです。
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昨年の11月16日に最高裁が下した裁判員法の「合憲」判決。「国民の司法参加」にはいろいろなバリエーションがありうるから、一概に憲法違反であるとは言えません。ただし、こと、裁判員制度は国民に新たな義務を課しており憲法第13条の国民の自由を侵害しているために、憲法に違反していると考えています。裁く側には「国民の司法参加」を認め、裁かれる側の「国民の司法監視」たとえば取調室の全面可視化などは一向に進まず、また数々の再審請求も難しいなど、裁判所の独善性が進行しています。
また、裁判員制度は、第18条の「その意に反する苦役」に該当する場合があると考えております。この点に関して、判決文には次のように記されています。
裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示し
ていると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,29条2項)。 これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる「苦役」に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。 まず、「裁判員の職務等が参政権と同様の権限である」という論理展開について。最初に違和感を覚えたのは「権限」という言葉の用い方についてです。大辞泉で「権限」という用語を引くと、次のように書かれています。「1 国家や公共団体が、法令の規定に基づいて職権を行うことのできる範囲。2 代理人や法人の機関が、法律または契約に基づいてなしうる権能の範囲。3 個人がその立場でもつ権利・権力の範囲。」とあり、「権利」そのものとは異なる概念です。さらに、憲法上では、国民の持つ「権利」(rights)と国家や公の機関の持つ「権限」(authority)を使い分けております。「参政権」については憲法第15条1項に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と謳っているとおり、「権利」(rights)であることは明らかです。しかし、裁判員の職務等は国家の統治機構の一端をなすものですから「権限」であります。つまり、この「裁判員の職務等が参政権と同様の権限である」という表現は、大変たちの悪い二枚舌的表現です。
次に、裁判員法第16条の「辞退事由」、同条八号に触れた部分について一言。辞退事由が設けてあるということは、本人の自由意志で辞退できないことを意味しており、その辞退できない者について、「意に反する苦役」かどうか判定しないことには、全く意味を成しません。また、同条八号に掲げてある事例は、むしろこれほど辞退が認められる幅が狭いことの証であって、これで事足りると判断している最高裁の「市民感覚」は驚くべきものがあります。いちばん裁判員を必要としているのは最高裁ではないでしょうか。それに加えて、日当を出していることに言及している部分は、言わずもがなのことまで判決の一部になっていることが驚きでした。いずれにしても、苦役と感じるかどうかは、それぞれの国民が個別に感じるものでありますから、それを裁判所が一律に判定しようとすることこそ、十把ひとからげにどんぶり勘定で対応しているもので、ここでもまた憲法第13条の「個人の尊重」が軽視されているといわざるを得ません。
次回に続く。 |





