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裁判員制度

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 裁判員の自由権や自己決定権に関して考えます。なお、憲法の複数の条文に関連する記事も、ここに収めます。
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 私は憲法解釈上「権利」の対極にある概念は「義務」ではなく国家の「権限」ではないだろうかと考えていますが、それでは「自由」という概念をどのように捉えているかについて――あくまでも「定義」ということではなく「例示」としてですが――勝手に吠えさせていただきます。

 結論から言えば「権利を行使する自由」ということです。分かりきったことのようですが、ここは大事なところだと思います。「絵に描いた餅」という言葉がありますが、いくら権利があると謳ってあっても、その手続が分かりにくかったり社会的にその権利を認めまいとする風潮があったりしたら権利の行使は事実上難しくなってきます。したがって、国民に「権利を行使する自由」を保障することによって、それができない場合は国家に何らかの落ち度があるか、社会通念の方が間違っているか、まあすごく乱暴な言い方をすればそういうことだと思います。

 いずれにせよ、そういう場に立ち会ったとき、ふつう国家に落ち度があるとか、社会の方が間違っているという具合には考えないものです。あるいは、自分が正しいとは思いながらも、周囲との摩擦に費やす精神的負担やエネルギーのことを考えるとそういう主張を通すということはなかなかできません。それを敢えて行うためには、まず、自分の立場に対する冷静な分析と社会を変えていくという勇気と誇り、そして闘争を続けるための根気とが最低限必要になると思います。

 芥川龍之介の「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」の中に「自由は山巓《さんてん》の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。」という一節がありますが、私のイメージする自由とは、このように厳しい条件を突破していくために自分を鼓舞する言葉と考えています。

 もっとも、「自由」という言葉は、人によってイメージしているものが多様であります。なかにはわがままと区別しない人もいるし、逆に「自由」を求めて行動する人を一様に「わがままな人」とみなす人がいたりして、「自由」という言葉をめぐっては相当混乱しています。憲法12条では、国民の不断の努力で実効あるものにしていくことを求めるとともに、他方で自分の人権だけを主張することの誤りを糾しているものと思います。


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 裁判員法の成立、施行はいろんな意味で憲法違反であるということを私は主張してきましたし、これからも主張し続けていくつもりですが、それが私たちの日常生活にどういう変化を及ぼすかということについて、考えていきたいと思います。

 憲法では「権利」の反対語は、直接的には国家の「権限」であります。そして、それは国民に対する一律の「義務」として作用することももちろんありますが、どのようなときにどのような方法でどのような人々に対して権限の行使が行われるかが国家の判断に委ねられるという場合も出てきます。そして、それが政策的、恣意的に行われることも十分に考えられます。しかし一方で、国家の権限として機能し始めた以上はそれを国民の手で食い止めるということがたいへん難しくなってきます。国民の権利とはそういうものであります。

 たとえば、ごく最近、衆議院の法務委員会で論議された「児童ポルノ禁止法」案。児童ポルノの禁止は「児童の権利に関する条約」(子どもの権利条約)第19条の趣旨からして早急な立法上の措置が必要であります。しかしながら、今回、国会で審議された宮沢りえ写真集「サンタフェ」を所持していたら同法違反に問われるという論議は別の問題を当然引き起こしていきます。すなわち、ある人が「サンタフェ」を持っているらしいという情報があっただけで警察による家宅捜査が可能になるということになります。

 警察による家宅捜査というのは捜査のために真に必要な場合もありましょうが、反権力的な活動家や警察にとって面白くない人などを地域から切り離すための「見せしめ」に行われることも少なくありませんし、それが冤罪に結びついていくこともありうることです。政府与党のブレーンには、あらゆる人道的な法案に対してこのようなすり替えを巧妙におこなって別の意味で国家権力の統制力を強めようとする専門家(的)集団がいるものと思われます。

 小泉構造改革以降、政府とマスメディアとが手を結んで「何でもあり」的に無理が通って道理が引っ込むことが国を挙げて堂々と罷り通るようになってきました。特に、麻生政権になってからはひどく、麻生総理が未だに政権に居座っていること自体も問題でありますし、「かんぽの宿」問題で数々の問題点を衆議院総務委員会などで指摘されながらも自公連立政権とマスメディアとの固い「結束」によって日本郵政の西川社長が続投する(できる?!)という出来事や、政治資金規正法の曲解による東京地検の小沢事務所攻撃(その後の「障害者郵便悪用事件」や鳩山代表に対する故人からの献金に関する追求など波状的に繰り返される民主党に対する揺さぶり・圧力を可能にしています)など、国家による法令軽視(これまでは少なくとも倫理がどうかという問題はあっても、法を破るところまでは行かなかったような気がします)がこのところ相次いでおり、この状態は裁判員法の前例ができるとますます強まっていくことが予想されます。

 「人権」とは、法務省や自治体が啓発するような差別をなくすという問題だけではありません。不当に逮捕されたり、自由を制限されたりしない権利という、通常私たちが当り前と思い込んでいることは、実は日本国憲法がこれまで護られてきたから実現していたことなのです。そして、多くの例外があるとはいいながらこれまで憲法が効力を発揮してきたのは、数々の違憲訴訟を闘ってきた人々の積み重ねがあったからなのです。さらに、かつては野党のみならず政府自民党の中にも護憲勢力が息づいていました。

 いまや、裁判員法という憲法を無視しまくった法律に異議を唱えた国会議員は1割足らずで、国会の機能低下が緊急の課題です。このままでは、いつ誰が逮捕されてもおかしくない時代がやってきます。実はすでに、国の方は外国人登録証不携帯で定住外国人を自由に拘束しコントロールできたと確信している、すなわち既にテスト済みだと考えているように私は思います。次は日本人一般階層に拡げるつもりではないでしょうか。

 裁判員法は国民一般に義務を課しているのみならず、外国国籍者と障害者の一部をなりたくてもなれない「欠格者」と位置づけるとともに、一定以上の所得が予想される職業者を就職禁止事由という口実で義務から「免除」する差別法的意味合いも併せ持つと私は思っています。

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 冒頭、ちょっと回りくどいハナシから‥‥。世界人権宣言を実効ならしめるために国際人権規約という国連総会で採択された条約があり、社会権規約(A規約)、自由権規約(B規約)、B規約に関する第一選択議定書および第二選択議定書で構成されております。選択議定書というのは権利の侵害があった場合、個人が国連に直接通報できる制度です。日本は一部留保つきでA・B規約は批准しているものの、選択議定書については両方とも批准しておりません。死刑制度廃止を求める第二選択議定書はともかく、一般的な自由権に関する第一選択議定書の早期批准はすでに衆参両議院の付帯決議もあり、特に裁判員法の施行で国民の最終的な権利保障を裁判所が担ってくれるとは到底考えられませんので国連への通報制度は確保していきたいところですが、そんなことが言いたくてこの話を始めたのではありません。これを批准しない理由について法務省の考え方は、「司法の独立」が保てなくなるという呆れた理由であります。

 どこに呆れているかと言うと、いまや司法の独立などという建前は政府自身の手によって完全に反古にされているからであります。

 先日退官した横尾和子氏に現役の最高裁判事2名――いずれも行政官僚からの「天下り」人事による――の略歴を記しましょう。

1.横尾和子:1964〜1994 厚生省
       1994〜1996 社会保険庁長官
       1996〜1998 医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構理事長
1998〜2001 駐アイルランド特命全権大使
2001〜2008 最高裁判事
2.桜井龍子:1970〜2001 労働省(ただし1993〜1995大阪府生活文化部長)
       2001〜2004 内閣府情報公開審査会委員
       2004〜2007 大阪大学大学院法律研究科招聘教授
       2007〜2008 九州大学法学部客員教授
       2008〜   最高裁判事
3.竹内行夫:1967〜2008 外務省(2002年以降、外務事務次官)
       2008〜   最高裁判事

 さて、裁判所法第四十一条には、最高裁判所の裁判官の任命資格が記してあります。これによると、15名の裁判官のうち少なくとも10人は高等裁判所長官か判事を通算して10年以上、あるいは簡易裁判所判事、検察官、弁護士、大学の教授・准教授(ほかに裁判官以外の職員や法務省事務次官、法務事務官、法務教官)などを通算20年以上勤務しているなどの実績があれば認められますが、それ以外の者(5人以内)は単に「識見の高い、法律の素養のある年齢40歳以上の者」という条件があるに過ぎません。

 しかし、ここに行政官僚が天下ってくる構図は、司法の独立をこれほどゆがめているものはないと思います。まして、横尾氏は社会保険庁職員の年金保険料の横領・使い込み等を監督すべき立場にあった人物であるし、竹内氏に至っては、アメリカのイラク攻撃を積極的に支持したのみならず、日本のイラク派兵に反対した当時の駐レバノン特命全権大使天木直人氏を辞任させた人物で、小泉元首相の息のかかった人物として知られています。



―――以下、独り言―――

 裁判員になって罰金払う心配するくらいだったら、最高裁判所の裁判官として、高給優遇しろと言いたいよな。裁判所法では「識見が高くて法律的素養のある40歳以上の者」であれば、誰にでもチャンスはある筈だろ?‥‥理屈の上では。しかし、この落差っていったい何なのだろう。これは職業による「差別」ではないのか?! 最高裁はまた平等原則を率先して無視しようとしているのか? 何のため裁判官やっているんだ、ったく。

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 しばしば「権利」の反対語が「義務」であるという言い方が当然のようにされます。たしかに、私法契約上の債権債務関係においてはそのとおりであって、その場合、原則として民事に対して国家は不介入であり、民事間の争いが生じたときにはじめて第三者的立場としての国家が司法という形で登場するというのが建前でありました。ところが、同じ権利であっても「人権」はかなり様相が異なってきます。個人対個人という側面以上に国家(自治体を含む)対個人という側面が重要になってくるからです。

 基本的に法が法として機能するためには、法を破ったときのペナルティが約束されていることが前提となっており、そのために警察機関に武器の携帯・使用を段階に応じて認めるなど物理的なコントロールを合法的に行えるものとし、法律に実効性をもたせております。これは憲法であっても同様で、憲法が実効性を持つためには、なにがしかの強制力を持った機関の存在はやむをえないものと考えられます。具体的には警察や場合によっては自衛隊がその役割を担っていると考えられますが、問題は強制力が暴力装置となって国民に襲い掛かる危険があるということです。そのため、憲法は暴力装置を内在したものとして国家や自治体を捉え、憲法自身の最高法規性を保ちつつ国民の基本的人権を国家に対して(!)保障するという立場をとっております。

 しかし、国家はあたかも国家対個人という問題が存在しないかのようなポーズをとりがちで、国家が第三者的にしか関わっていないと思わせるような演出をしていきます。たとえば法務省には、特別機関としての検察庁を擁することからも明らかなように取締りの機関としての側面がある一方で、人権擁護の機能を併せ持つ機関であります。これら相反する二つの機能が1省の中に存在することには長所もあるのかもしれませんが、内部でどういう論議が交わされているのか、はたして法務省の人権擁護機能は実効あるものとして存在しているのかどうか、外部には分かりにくく、また法務大臣という一人の人間が果たして矛盾なく司ることが可能であるのか疑問であります。少なくとも、合法的に死刑執行しているという立場からは人権擁護の側面から死刑廃止法案などを準備するということは非常にむずかしいと言わねばなりません。

 ハナシが拡散してしまいましたが、要は憲法上に保障されている基本的人権とは、国家の権限と相反する概念、つまり憲法上「権利」の反対語は国家の「権限」であるといえます。マス・メディアは一足飛びに国民同士の権利と義務だけに論点をしぼって報道しがちでありますが、そういう論調は呑気を通り越して非常に危険であるということです。確かに、人権同士が衝突することもありますが、もともと「公共の福祉」という憲法上の概念は、基本的人権同士を調整するときに限って用いられているというのが通説で、第12条をはじめとして「公共の福祉」が前提とされているというのはあくまでもそういう読み方をしないと意味がないものであります。

 そして、憲法上の自由と権利とが侵されるということは、とりもなおさず警察権力が暴力装置として機能することを意味します。これが裁判員法がきわめて危険な法律であるという理由であり、民主主義が急カーブを描いて反動体制に向かっているのは間違いないと思います。しかも、マス・メディアが一糸乱れず御用体制に走っていた事実や導入に至るまでさまざまな不正が政府や裁判所において行われてきたきたことを考え合わせると、単に一部の改正や運用上の改善で片がつくような問題ではないのであります。

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 (最高裁判所ホームページ「裁判員制度Q&A」より)


● 裁判員制度ではどんな事件の裁判をするのですか。
裁判員制度は,地方裁判所で行われる刑事裁判について導入されます。裁判員裁判の対象事件は,一定の重大な犯罪であり,例えば,殺人罪,強盗致死傷罪,現住建造物等放火罪,身代金目的誘拐罪,危険運転致死罪などがあります(詳しくは,「裁判員制度の紹介」のコーナーを参照してください(刑事裁判の控訴審や民事事件,少年審判等は裁判員制度の対象にはなりません。)。

刑事裁判は,全国で毎日行われており,平成18年には地裁だけで10万件以上の刑事事件の起訴がありました。すべての刑事事件に裁判員制度を導入すると国民のみなさんの負担が大きくなるため,国民のみなさんの意見を採り入れるのにふさわしい,国民の関心の高い重大な犯罪に限って裁判員裁判を行うことになったのです。

   ――――――――

 こ、これが数々の下級審の裁判所を拘束し、立法の違憲性を審査し、数々の再審請求に門戸を閉ざし続ける、最高裁判所の文章であります。このような無茶苦茶なロジックで日本の司法を牛耳っていたと言う事実に、いかに多くの魂が犠牲となり断罪されてきたかを考えると怒りが収まりません。
 この「Q&A」という仕事をたとえどの部局がおこなっているにせよ、裁判所法第12条により、最高裁の司法行政事務は「裁判官会議の議によるものとし最高裁長官が、これを総括」し、その「裁判官会議は、全員の裁判官でこれを組織し、最高裁判所長官が、その議長となる」以上、最高裁長官以下全ての裁判官がその決定に深く関わっているということでありまして、判決のロジックと決して無関係とはいえません。

 これらの行間に詭弁以外のいかなる論理も読み取ることができない以上、近年の上告審判決が憲法判断を極力避け、先ごろ退官した横尾和子元判事のように行政官僚からの天下り組が条約よりも行政実例に重きを置くという輩まで横行し、あるいは故矢口洪一長官のように司法行政畑を中心に歩んできた人物がにらみを利かせるなど、もはや最高裁においては「論理」は遥か後景に退き、生臭い人事優先の、およそ人を裁くに値しない無法地帯であることが暴露されているのかもしれません。裁判員制度は皮肉にも司法への不信感を爆発させる可能性があります。この制度がなかったなら、この私自身、ここまで執着して司法制度を問題視しなかったでしょうから。

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