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裁判員制度

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 裁判員の自由権や自己決定権に関して考えます。なお、憲法の複数の条文に関連する記事も、ここに収めます。
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 まず、判決文が「国民の司法参加」が憲法に違反しないと主張している点について。よく読みますと、「国民の司法参加」とは、裁判員制度のことについて述べているような気がしてまいりますが、「国民の司法参加」そのものは裁判員制度以外にも多様なシステムが考えられ、一概に憲法違反であるとは言えないと私も思います。ですから、最高裁は「国民の司法参加」という、その主張がぼやける表現を用いずに、「裁判員制度」または「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」もしくは「裁判員法」という表現を用いるべきであったと思います。
 
 第二に、「刑事裁判を行うに当たっては,(これらの)諸原則が厳格に遵守されなければならず,それには高度の法的専門性が要求される」「裁判官は刑事裁判の基本的な担い手とされているものと認められ」「裁判員は,裁判官と共に合議体を構成し,事実の認定,法令の適用及び刑の量定について合議することとされ,法令の解釈に係る判断及び訴訟手続に関する判断等は裁判官に委ねられている(6条)」としている一方で、「裁判官と裁判員の評議は,裁判官と裁判員が対等の権限を有することを前提にその合議によるものとされ(6条1項,66条1項)」るなど,制度のちぐはぐが露呈しています。これは、裁判員として参加するものの人権と被告人として裁かれる者の人権とが、制度を新設したことで両立できない矛盾を抱え込んでしまったことが原因と思います。それは裁判員法第51条(「裁判官、検察官及び弁護人は、裁判員の負担が過重なものとならないようにしつつ、裁判員がその職責を十分にはたすことができるよう、審理を迅速で分かりやすいものとすることに努めなければならない。」)が裁判員の負担に考慮するあまり、被告人の防御権をおかしかねない内容になっていることに端的に現れています。私たちは「国民の司法参加」に裁く側として強制させられますが、村木事件や足利事件で特捜検察に対してばかりでなく、司法全体に対する信頼感がなくなろうとしています。裁かれる側からの「国民の司法参加」こそ緊急の課題であり、最高裁の判決文で引用してあった「陪審員制度」はそういう遠隔を持った制度であると理解しておりました。
 
 それにも関連して、第三には制度には裁判員として「参加」する者には厳しく罰則で縛っておきながら、評議において対等であるはずの裁判官が努力義務や配慮義務にとどめてある点など大きくバランスを欠いているうえに、運用にゆだねているところが多く、それをもって裁判員の負担に長期にわたってあるいは制度的に十分耐えられるものなのか、疑わしいという印象があります。少なくとも、このような努力義務や配慮義務がちりばめられていたにせよ、だからといって「公平な『裁判所』における法と証拠に基づく適正な裁判が行われること(憲法31条,32条,37条1項)」が「制度的に十分保障されている」と断じていることに論理の飛躍を感じます。
 
 第四に、判決文には「裁判員裁判対象事件を取り扱う裁判体は,身分保障の下,独立して職権を行使することが保障された裁判官と,公平性,中立性を確保できるよう配慮された手続の下に選任された裁判員とによって構成されるものとされている。」とあります。前述したとおり、建前では「裁判員は独立してその職権を行う」(第8条)になっておりますが、法律の専門家集団とも言える裁判所等がコントロール機能を持つことが考えられます。もし、そういうところに落ち着くとすれば、そもそも裁判員制度というのは必要だったのかきわめて怪しいことになってきます。国民を裁判員として強制的に出頭させることで、膨大な労力と予算を費やしたことになり、厳しく断罪されねばなりません。
 
 そのほか、検察審査会で疑念が浮上してきたくじ引きソフトは裁判員制度にも使えるといわれていますが、最高裁のこのような体質も合わせて考えていくべきだろうと思います。
 法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動してこられた河野真樹氏のブログ「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」に「国民が了解できていない『合憲』判断」という記事が載っていました。裁判員制度については、このところ反対派の意見も尻すぼみと言う印象をもっていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。
 
 しかし、私が感じているのは、この間、東日本大震災や東京電力、九州電力の原発対応の問題、「村木裁判」に「陸山会裁判」「小沢裁判」などの冤罪と検察審査会をめぐる疑念、TPP問題等々‥‥日本を襲った未曾有の災害といっきょに噴出した疑惑の数々により、ニュースソースとして順送りにされてきたことからくる一時的な徒労感に過ぎず、合憲との判決が最高裁から出されたからといっても、憲法との兼ね合いにおける疑義は依然として広範囲に渡り、事実、憲法との矛盾については、その一部しか否定されていません。とりわけ、裁判員の良心の自由をはじめとする基本的人権に関する問題には、18条の苦役からの自由に触れた程度です――この点については先で触れたいと思います――し、国会内部で詳細な議論が交わされなかった点については、検察審査会法の「改正」と同じ事情ですから、全く問題が片付いていないのであります。ただ問題は国会内の空気が以前と違って冷ややかなだけで、国民にとっては未だ納得がいかないまま呑まされている印象が強く残る問題です。
 
 さて、最高裁の主張は憲法に裁判員のことが書いていないことは事実であるが、だからといって直ちに憲法違反とはいえないという趣旨であります。これに対する私の反論としては、憲法第13条で国民の自由権は立法その他の国政の上で最大の尊重を要すると謳っており、国民に厳しく負担を強いる――いっぽうで「参加」という耳障りのよい言葉を使いながら、他方、重い罰金刑をちらつかせて強制的に労働にかり出している――ことが本法律の本質である以上、いかに格調高く表現しようとも、自由権の侵害にほかなりません。ここの部分を看破するかどうかで解釈が180度変わってまいります。「公共の福祉に反しない限り」の部分については、外務省が国連の自由権規約委員会に宛てた公文書に「そもそも他人の人権との衝突の可能性のない人権については、『公共の福祉』による制限の余地はないと考えられている」「『公共の福祉』の概念の下、国家権力により恣意的に人権が制約されることはあり得ない」などと国際的に宣言したかたちとなっているうえに、この法律が生まれた背景に明確な立法事実があったかも非常に疑わしいことは法務委員会の席上でも確認されたこと(2009年4月3日衆議院法務委員会における森法務大臣の川内委員に対する答弁)であってみれば、「公共の福祉」を拡大解釈しようともこれに該当しないと言わねばなりません。
 
 また、最高裁は、河野氏が指摘するとおり、権利と義務とのすり替えを平気でやっています。もちろん、権利であって義務でもあることは第27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」をあげるまでもなくありうることですが、もちろん単なるうたい文句などではなく、勤労の権利が職業安定所等における労働者支援の根拠となっていると考えられるのに対して、勤労の義務は生活保護の適用要件として稼働能力の活用が義務づけられるという具合に具体化が図られます。
 
 裁判員法も罰金が想定されている以上、百歩譲って権利の部分があったにせよ、義務としても機能していることは明らかでありますから、18条の苦役からの自由もそれぞれの個人に応じて個別に判断が問われることとなります。その矛盾を指摘したのが、以下の部分です。以下、河野真樹氏のブログより、引用。


 「しかし、裁判員法1条は、制度導入の趣旨について、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており、これは、この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり、これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」

 非常に重要なことを言っています。前段は国民が職業裁判官とともに刑事裁判に関与することで、司法への理解増進につながる、これは国民主権の理念に合致しているという制度趣旨の肯定論。後段は裁判員になることは、参政権同様の国民の権限だという裁判員権利論です。

 実は、これは判決理由に書き込まれるまでもなく、これまでつとに制度推進派の方々が主張してきた代表的な制度肯定論です。制度が司法の理解につながるという効用をあたかも民主的制度として描くとともに、参加への義務化をいう主張に対して必ずいわれる、これは国民の権利だという主張です。

 ある意味、恐ろしいことですが、さも当然のようにいわれるこれらの論法は、多くの国民の了解事項とは言い難いものです。司法に対する国民の理解を増進するということは、もちろん国民が求めたわけではありませんが、仮にお上が規定したことであっても、それについて、今、理解を増進するための方法が、強制的に国民を法廷に呼び出して裁判に直接参加させる方法しかない、と思う国民はどれほどいるのでしょうか。

 さらに、いうことにことかいて、これを強制によって義務化されているのではなく、国民の権限、しかも、参政権と同様という認識がどこにあるでしょうか。いうまでもありませんが、参政権を罰金付きで強制するという話もありません。もちろん、この参加を人民が勝ち取ったものという意識も歴史もこの国にはありません。

 この国民が了解できていない、少なくとも了解できているとは断定できないこの事実を前提として、だから「苦役ではない」という主張は、いかに法律的な文章として体裁を整えていようとも、前記引用した判決の理由の中に随所に登場する、肝心の「国民」とは、全く隔絶した見方というほかありません。(以上、引用終わり)

 最高裁が基本的人権についてこのような見解で一致するということは、たいへん危険なことであります。
 昨日、2011年11月16日に裁判員制度についての最高裁判所の初めての判断が出された。裁判長は裁判員制度を設計した竹崎 博允(たけざきひろのぶ)最高裁長官ご自身で、裁判官(古田佑紀、那須弘平、田原睦夫、宮川光治、櫻井龍子、竹内行夫、金築誠志、須藤正彦、千葉勝美、横田尤孝、白木 勇、岡部喜代子、大谷剛彦、寺田逸郎各氏)からは、たったひとりの個人的見解も出なかったという、恐るべき完璧さを誇示した判決である。ご存知のように、竹崎最高裁長官は、陪審制度研究のため命をうけ特別研究員としてアメリカへ派遣され、裁判員制度設計の功が認められて最高裁判事を経ずに長官に就任した。自ら設計し、その功があって最高裁長官に抜擢されたとあれば、抜擢してくれた人たちの手前もあって、完璧さを演出しつつ合憲判断をするというシナリオこそが(産経新聞の表現を借りれば)「通過儀礼」だったのではなかろうか。
 
 しかし、恐ろしい時代になったものだ。立法事実もないのにアメリカの年次改革要望書に端を発した司法制度改革、そういう背景の下で帳尻あわせの裁判員制度を設計した男が自らの「作品」を合憲であると裁く。市民参加自体は大いに結構、そんなことを反対しているわけではないのだ。司法への市民参加は、直接市民が人を裁く以外に方法があるではないか。たとえば他人の基本的人権に直接対峙する刑事裁判でなくてはならない理由は何なのだ。
 
 たかだか法廷にモニターが登場したぐらいで裁判員制度のおかげだと世論誘導する。それが今まで出来なかったのは、司法界が単に閉鎖的であっただけで、それをことさら裁判員制度とくっつけて考えるのは我田引水が過ぎる。
 
 裁判員制度が犯した大罪はいくつかある。まず、米国の要求に端を発して、日本国民の自由権を侵害する形で決着させたこと。第2に、憲法第13条が完璧に無視されていること。そのことについて見解を述べた裁判官が一人も存在しないこと。裁判員制度の導入については、数々のインチキが行われたこと。国民に知らせぬままに進行していたこと。国会議員が与野党問わず弁護士集団の利益を守るために国民を2の次にして動いたこと。結局、裁判員制度の導入と冤罪事件の撲滅とはなんら関係がなかったこと、その証拠に裁判員法の第一条に謳われているごとく、国民の司法への理解(?)が一方的に進められるだけで、司法界の住人はまるっきり司法の民主化に熱心でないこと、等々。
 
 今回の判決が恐ろしいのは、たった一人の個人的見解も裁判官たちから発せられなかったこと。そして、裁判員法が条文中では「出頭」という言葉で表現しているのに、法律の名称には「参加」という表現に言い換えるなど、見え透いた二枚舌立法であることが国会でも指摘されていないが、今回の判決文でも
下記の部分などに論理の飛躍を見てしまうことだ。


(以下、判決文より引用)
 刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図ることと,憲法の定める人権の保障を全うしつつ,証拠に基づいて事実を明らかにし,個人の権利と社会の秩序を確保するという刑事裁判の使命を果たすこととは,決して相容れないものではなく,このことは,陪審制又は参審制を有する欧米諸国の経験に照らしても,基本的に了解し得るところである。
 そうすると,国民の司法参加と適正な刑事裁判を実現するための諸原則とは,十分調和させることが可能であり,憲法上国民の司法参加がおよそ禁じられていると解すべき理由はなく,国民の司法参加に係る制度の合憲性は,具体的に設けられた制度が,適正な刑事裁判を実現するための諸原則に抵触するか否かによって決せられるべきものである。換言すれば,憲法は,一般的には国民の司法参加を許容しており,これを採用する場合には,上記の諸原則が確保されている限り,陪審制とするか参審制とするかを含め,その内容を立法政策に委ねていると解されるのである。(引用終わり)


 まず、「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図る」と当然のことのように表現してあるが、ここでいう「民主的基盤」とは「刑事裁判に国民が参加すれば実質的に民主的強化が図られる」と読むのか、もっと単純に「刑事裁判に国民が参加することによって外形的に民主主義の骨格の強化を図る」と読むのか明らかでないが、どちらにせよそのような事実や実態がありうるのか、何の証拠もない。欧米諸国の例のみを引用しているが、それならば欧米諸国が陪審制または参審制で成功しているという事実と、さらにそれに比べて日本の司法が部分的にでも劣っていたという事実とを両方あげる必要がある。本判決文には「裁判員制度が導入されるまで,我が国の刑事裁判は,裁判官を始めとする法曹のみによって担われ,詳細な事実認定などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために,法に関する専門性が必須であることは既に述べたとおりであるが,法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ。」云々の仮定の話だけでは、立法事実があった証拠にはならない。まして「国民に一定の負担が生ずることは否定できない」ことは最高裁自身認めているとおりである。
 
 また、「憲法上国民の司法参加がおよそ禁じられていると解すべき理由はなく」の部分であるが、(2)の部分で「刑事裁判を行うに当たっては,これらの諸原則が厳格に遵守されなければならず,それには高度の法的専門性が要求される。憲法は,これらの諸原則を規定し,かつ,三権分立の原則の下に,『第6章 司法』において,裁判官の職権行使の独立と身分保障について周到な規定を設けている。こうした点を総合考慮すると,憲法は,刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定していると考えられる。」の逆説として書かれたものと思われるが、さらに読み進むと「換言すれば,憲法は,一般的には国民の司法参加を許容しており,これを採用する場合には,上記の諸原則が確保されている限り,陪審制とするか参審制とするかを含め,その内容を立法政策に委ねていると解される」となる。「刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定している」と「一般的には国民の司法参加を許容しており」とが同義であるといえるであろうか。

(以下、判決文より引用)
 裁判員としての職務に従事し,又は裁判員候補者として裁判所に出頭すること(以下,併せて「裁判員の職務等」という。)により,国民に一定の負担が生ずることは否定できない。しかし,裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,29条2項)。これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる「苦役」に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。 (引用終わり)

 上記にあるとおり憲法第18条の「意に沿わない苦役」について述べた部分ではいろいろと配慮してあり苦役とはいえない趣旨のことが書かれているが、「苦役」か否かを感じるのは裁判員本人であり、それに対して配慮するのは当然のことであって、配慮しているから苦役ではないという趣旨には、論理の逆転ともいうべき大きな矛盾があり、さらに「裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである」とした部分には、13条の自由権や19条の良心の自由の侵害についての言及がされないままにいきなりかような結論をもって断じており、「出頭」を「参加」と言いくるめたと同じ欺瞞を感じる。
 裁判員制度は、司法への市民参加としてくじ引きにより「選ばれた」市民が直接刑事裁判を行い、死刑を含む量刑判断をも行うという制度です。「選ばれた」とかぎ括弧つきで書いたのは、国民が選んだのでもなければ、裁判員になることを立候補した人たちでもなく、ただ“くじびき”で司法当局が選んで強制的に「参加」させられている実態をふつうに“選ばれた”と表現するには、抵抗があるからです。また、「参加」にもかぎ括弧を付けていますが、これは法律名が「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」であるにもかかわらず、条文上は「出頭」という言葉になっており、違反者には罰則が課せられるという、市民参加のイメージとはあまりにかけ離れた“参加”だからであります。 
 率直に言わせてもらうなら、「市民の中から選ばれた」と法務省や最高裁が言うのにはウソがあると思います。それは、裁判所がくじ引きであろうが何であろうがとにかく「勝手に選んだ」のであって、それをもって「市民参加」というのなら、戦時中の充員召集も市民参加ということになります。
 
 しかし、単に選ばれ方だけが問題なのではありません。そのようにして裁判所によって選ばれた一部の市民の決定が強制力を持つことの方が問題だと思います。すなわち、有罪か無罪かの判定とは別に、裁判員は量刑まで行います。そして、それは死刑まで含まれます。その際、裁判員が個人的に被告人を無罪と判断したとしても多数決で有罪と決まれば量刑の判定に加わらねばならないからです。
 
 被告人といえども警察官や検察官によって自白を強いられただけの冤罪被害者かもしれません。このところ、冤罪事件が続いていますが、それは決してたまたまおきているのではなく、システムに問題があるからおきているといえます。
 私たちは凶悪犯のおこす事件を恐ろしいとおもい、許せないと思います。自分が被害者やその遺族の立場になってみれば、当然のことです。まして、加害者に反省の様子がないとなると、世の中にこういうヤツがいてもいいのか、という思いでいっぱいになります。しかし、それも当人が間違いなく加害者であればの話です。実は、取調官の甘い言葉にだまされて加害者に仕立てられ、何がなんだか分からないまま法廷に出たときの態度が不遜に見えるだけかもしれません。
 
 そこで、物証はあるのか、証人の発言は信頼できるのか、動機に矛盾はないのか、無罪を証明する証拠が隠されていないか、法定弁護人はやる気があるのか、弁護人自体無罪を信用せず量刑を軽くするという方針を立てているのではないか、等々、裁判員が考えねばならないことは沢山あります。
 これらのことが全てすでに明らかという保証でもあれば、まだしも裁判員にとって公正な判断ができるかもしれませんが、冤罪防止に関しても対策は遅々として進んでいません。たとえば、検察のリークした内容をマスコミが鵜呑みにしたまま報道していたり、自白調書を検察官が勝手に作文してそれに署名するように脅したり騙したり、あるいは検察が押収した証拠の中には無罪であることを証明するものがあるにもかかわらずその事実を隠していたりします。こういうことが、日常的に、あるいは合法的に行われていたら冤罪がおきない方が不思議です。
 
 このように制度的な矛盾が明らかな中で、裁判員裁判で死刑求刑の事件が続いています。人の命をかるんじているのは、凶悪な犯罪ばかりではなさそうです。冤罪の根本的な解決も見ないまま、死刑を執行している日本、しかも「市民参加」でそれが行われていこうとする日本に同朋意識の欠如を見ます。
 可視化議連の先の会合で、三井環元大阪高検公安部長が検察の「裏金」問題(実際は「調査活動費」という公金を組織的に着服していたわけであるが)をいちど遡って国民の前で明らかにしないと、検察が小沢氏の取調べをあの時期に強行した理由がはっきりせず、小沢氏はいつまでたっても根拠のない偏見から脱皮できないというようなことを語っていたが、確かにその流れでいくと不可解な検察の行動も説明がつくのである。
 
 裏金問題で窮地に追い込まれていた当時の検察の幹部らが故後藤田正晴氏に泣きついて助けを求め、小泉政権は当時の森山法相と原田検事総長に「事実無根」を記者会見で述べさせ、逆に暴力団とも親交のあった三井氏の行動を一方的に断罪し、懲戒免職、起訴、実刑判決、収監と臭いものに蓋をしていった。しかし、年間6億円に及ぶ着服は10年で60億、20年で120億になる。これは幹部の飲食費に使われていったが、偽の領収書が年間合計して1200枚から2,000枚書かれている勘定だ。それはともかく、これで自民党政権は検察に対して大きな貸しができることになった。これが一連の流れであり、後藤田氏は、これを「けものみち」と表現した。
 
 小沢氏を選挙前に取り調べるという、検察がみずから禁じていた政治家の選挙前の取調べ、それを敢えて強行せざるをえなかったのはなぜか、二階氏が西松建設から6000万円の献金を受けていたほか森元総理など与野党に沢山同社から献金を受けていた人たちがいたにもかかわらず、安泰だったのはなぜか、漆間巌官房副長官〔当時)が自民党は大丈夫というようなことを言ったのはなぜか、全て説明がつくのです。
 
 さて、衆議院議員であった石井紘基氏の殺害事件についても、真相究明に努めてほしいと思う。ここは、この件に関して自らミステリーの渦中にあった保坂展人前衆議院議員を参考人招致して、まだ実行犯が捕まっていない段階で、マスコミに「伊藤白水」の名前が広まっていたという謎を明らかにしていく必要がある。
 
 これら全てについて明らかにしてゆき、今は防戦一方であっても、小沢氏のほうから自民党や公明党に対して逆王手をすることが考えられる。そのときが来たら小沢氏は質問者として、三井氏や保坂氏から証言を得ながら、自らがいかに取るに足りない事件に振り回されているのかとの対比を演出していき、あわせて検察と自民党政権との癒着構造を証明していければ最高なのだが‥‥。

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