昨日、2011年11月16日に裁判員制度についての最高裁判所の初めての判断が出された。裁判長は裁判員制度を設計した竹崎 博允(たけざきひろのぶ)最高裁長官ご自身で、裁判官(古田佑紀、那須弘平、田原睦夫、宮川光治、櫻井龍子、竹内行夫、金築誠志、須藤正彦、千葉勝美、横田尤孝、白木 勇、岡部喜代子、大谷剛彦、寺田逸郎各氏)からは、たったひとりの個人的見解も出なかったという、恐るべき完璧さを誇示した判決である。ご存知のように、竹崎最高裁長官は、陪審制度研究のため命をうけ特別研究員としてアメリカへ派遣され、裁判員制度設計の功が認められて最高裁判事を経ずに長官に就任した。自ら設計し、その功があって最高裁長官に抜擢されたとあれば、抜擢してくれた人たちの手前もあって、完璧さを演出しつつ合憲判断をするというシナリオこそが(産経新聞の表現を借りれば)「通過儀礼」だったのではなかろうか。
しかし、恐ろしい時代になったものだ。立法事実もないのにアメリカの年次改革要望書に端を発した司法制度改革、そういう背景の下で帳尻あわせの裁判員制度を設計した男が自らの「作品」を合憲であると裁く。市民参加自体は大いに結構、そんなことを反対しているわけではないのだ。司法への市民参加は、直接市民が人を裁く以外に方法があるではないか。たとえば他人の基本的人権に直接対峙する刑事裁判でなくてはならない理由は何なのだ。
たかだか法廷にモニターが登場したぐらいで裁判員制度のおかげだと世論誘導する。それが今まで出来なかったのは、司法界が単に閉鎖的であっただけで、それをことさら裁判員制度とくっつけて考えるのは我田引水が過ぎる。
裁判員制度が犯した大罪はいくつかある。まず、米国の要求に端を発して、日本国民の自由権を侵害する形で決着させたこと。第2に、憲法第13条が完璧に無視されていること。そのことについて見解を述べた裁判官が一人も存在しないこと。裁判員制度の導入については、数々のインチキが行われたこと。国民に知らせぬままに進行していたこと。国会議員が与野党問わず弁護士集団の利益を守るために国民を2の次にして動いたこと。結局、裁判員制度の導入と冤罪事件の撲滅とはなんら関係がなかったこと、その証拠に裁判員法の第一条に謳われているごとく、国民の司法への理解(?)が一方的に進められるだけで、司法界の住人はまるっきり司法の民主化に熱心でないこと、等々。
今回の判決が恐ろしいのは、たった一人の個人的見解も裁判官たちから発せられなかったこと。そして、裁判員法が条文中では「出頭」という言葉で表現しているのに、法律の名称には「参加」という表現に言い換えるなど、見え透いた二枚舌立法であることが国会でも指摘されていないが、今回の判決文でも
下記の部分などに論理の飛躍を見てしまうことだ。
(以下、判決文より引用)
刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図ることと,憲法の定める人権の保障を全うしつつ,証拠に基づいて事実を明らかにし,個人の権利と社会の秩序を確保するという刑事裁判の使命を果たすこととは,決して相容れないものではなく,このことは,陪審制又は参審制を有する欧米諸国の経験に照らしても,基本的に了解し得るところである。
そうすると,国民の司法参加と適正な刑事裁判を実現するための諸原則とは,十分調和させることが可能であり,憲法上国民の司法参加がおよそ禁じられていると解すべき理由はなく,国民の司法参加に係る制度の合憲性は,具体的に設けられた制度が,適正な刑事裁判を実現するための諸原則に抵触するか否かによって決せられるべきものである。換言すれば,憲法は,一般的には国民の司法参加を許容しており,これを採用する場合には,上記の諸原則が確保されている限り,陪審制とするか参審制とするかを含め,その内容を立法政策に委ねていると解されるのである。(引用終わり)
まず、「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図る」と当然のことのように表現してあるが、ここでいう「民主的基盤」とは「刑事裁判に国民が参加すれば実質的に民主的強化が図られる」と読むのか、もっと単純に「刑事裁判に国民が参加することによって外形的に民主主義の骨格の強化を図る」と読むのか明らかでないが、どちらにせよそのような事実や実態がありうるのか、何の証拠もない。欧米諸国の例のみを引用しているが、それならば欧米諸国が陪審制または参審制で成功しているという事実と、さらにそれに比べて日本の司法が部分的にでも劣っていたという事実とを両方あげる必要がある。本判決文には「裁判員制度が導入されるまで,我が国の刑事裁判は,裁判官を始めとする法曹のみによって担われ,詳細な事実認定などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために,法に関する専門性が必須であることは既に述べたとおりであるが,法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ。」云々の仮定の話だけでは、立法事実があった証拠にはならない。まして「国民に一定の負担が生ずることは否定できない」ことは最高裁自身認めているとおりである。
また、「憲法上国民の司法参加がおよそ禁じられていると解すべき理由はなく」の部分であるが、(2)の部分で「刑事裁判を行うに当たっては,これらの諸原則が厳格に遵守されなければならず,それには高度の法的専門性が要求される。憲法は,これらの諸原則を規定し,かつ,三権分立の原則の下に,『第6章 司法』において,裁判官の職権行使の独立と身分保障について周到な規定を設けている。こうした点を総合考慮すると,憲法は,刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定していると考えられる。」の逆説として書かれたものと思われるが、さらに読み進むと「換言すれば,憲法は,一般的には国民の司法参加を許容しており,これを採用する場合には,上記の諸原則が確保されている限り,陪審制とするか参審制とするかを含め,その内容を立法政策に委ねていると解される」となる。「刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定している」と「一般的には国民の司法参加を許容しており」とが同義であるといえるであろうか。
(以下、判決文より引用)
裁判員としての職務に従事し,又は裁判員候補者として裁判所に出頭すること(以下,併せて「裁判員の職務等」という。)により,国民に一定の負担が生ずることは否定できない。しかし,裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,29条2項)。これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる「苦役」に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。 (引用終わり)
上記にあるとおり憲法第18条の「意に沿わない苦役」について述べた部分ではいろいろと配慮してあり苦役とはいえない趣旨のことが書かれているが、「苦役」か否かを感じるのは裁判員本人であり、それに対して配慮するのは当然のことであって、配慮しているから苦役ではないという趣旨には、論理の逆転ともいうべき大きな矛盾があり、さらに「裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである」とした部分には、13条の自由権や19条の良心の自由の侵害についての言及がされないままにいきなりかような結論をもって断じており、「出頭」を「参加」と言いくるめたと同じ欺瞞を感じる。
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