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裁判員制度

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 裁判員の自由権や自己決定権に関して考えます。なお、憲法の複数の条文に関連する記事も、ここに収めます。
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 まずは、郷原信郎氏のツイートから引用。
 「民主党が企業・団体献金の受領を再開したことが『マニュフェスと逆行』と批判されているが、私はそもそも企業・団体献金を全面禁止することに反対だ。現在のように政治資金規正法違反に対する罰則の運用が検察に委ねられている状況下で全面禁止にした場合、検察が『企業献金を個人献金に偽装した』などと言って政治に介入する危険にさらされる。それが西松建設事件のような事態を招く。企業・団体献金の廃止より、政治資金規正法の法執行制度の整備が先決だ。また、そもそも企業・団体献金の弊害は企業の営業活動と献金とが結びつくからだ。私は、企業側が株主総会での承認等のガバナンス面でも適正化を図った上で行う企業献金は禁止すべきではない、という意見だ。」
 
 全く、この人の頭の良さというか、発言の切れ味にはまことに恐れ入る。脱帽ものだ。
 確かに、禁止事項を増やせば増やすほど、検察の出番が多くなり、検察の実質上の権限は拡大するばかりだ。だいたい、弊害がひとつでもあったなら禁止する法律を作ろうという発想が大雑把極まりない。そのような発想で作られた法律には欠陥が多かったり、憲法の趣旨にあわなかったりする。検察審査会法の改正などまさにそれだし、裁判員法も立法事実が存在しない中でつくられたためにとんでもない内容になっている。可視化法案も「可視化」という具体例にばかり捉われて、法律の目的をあいまいにしたり、ほかに被疑者の基本的人権を守るための方策がしっかりと位置づけられていないと、とんでもない運用が可能になるようでは困る。
 
 さて、最高裁の判例では、「憲法第3 章に定める国民の権利及び義務の各条項は,性質上可能
なかぎり,内国の法人にも適用される」(八幡製鉄所事件:最判昭45.6.24)
とされており、企業の政治献金のよい面も見ていかねばならない。大企業と中小企業、地場企業と中央や外国の資本という対立軸もある。独占禁止法を強化した方がよいと考える企業もあれば、逆の立場の企業もあるだろう。それらについて意思表示していくことが悪いとばかりはいえない。郷原氏が指摘するとおり、「企業側が株主総会での承認等のガバナンス面でも適正化を図った上で行う企業献金は禁止すべきではない」と私も思う。
 保坂展人氏が裁判員法施行3年後の見直しに備えてそろそろ総括を始めないといけない、と提案していますが、全くそのとおりだと思います。そして、検察審査会をめぐる問題点を絡めて見れば、今回の「司法制度改革」のキーワードが見えてきます。それは、「直接的市民参加」ないしは「感覚的市民参加」というべき問題であります。
 裁判員制度と検察審査会制度との共通点を挙げると、次のとおりとなります。

 
1.くじ引きで選ばれたいわば司法の素人が参加する制度であること。
 何故素人といえるかというと、一部の専門家が排除されていることや研修制度が整っていないことから、国民の平均的な層より以上に法の理解が浅いと考えられます。勿論、例外というのはいつでもあります。

 
2.くじ引きで選ばれたといっても、辞退が許される層や参加できない層がある以上、ランダムな国民意見の反映とはならないこと。
 たとえば、懲役刑や禁固刑に処せられた者が除外されていることから、冤罪経験者の意見が通りにくくなることや、衆議院議員選挙権を持つ者から選ばれるところから日本国籍を持たない人の立場が十分に理解・反映されにくい点などがあります。

 
3.参加するもののプライバシー保護のために密室性があり、結局他の国民が監視できないこと。
 これが非常に問題だと思います。市民参加というと行政における市民参加とごっちゃにしてしまいそうになりますが、たとえばある地域団体の意見を行政に反映させるために団体の代表を審議会の委員に任命する行為と、無実かもしれない人を裁いたり起訴に追い込んだりという行為とを同列で論議してよいはずがありません。
 まして、個人のプライバシーが密室性を帯びなければ守れないようなシステムは当初から取り入れるべきではなかったはずで、法律を作ってしまってから個人のプライバシーが守れないなどと主張するのは最初から密室性を期待していたことに頬かむりするもので、白々しい限りです。

 
4.参加者は個人の基本的人権と対峙せねばならないこと。基本的人権を無視するということがありえること。一方、参加者に期待されているのは、「市民感覚」という名の「感覚」でること。‥‥等々。
 「市民感覚」の方が「基本的人権」よりも上位にきかねないというのが、このたびの「司法制度改革」の特徴です。憲法違反であることはいうまでもありません。
 
 「司法への市民参加」が「密室性」を帯びた「一部」の人たちによる判断であるとしたら、しかも「感覚」に物を言わせることが主に期待されているのだとしたら、そういう市民参加とはまるでアリバイづくりのためだけにショーアップされた世界であって、しかも罰則をもって義務付けるという、全く呆れたことを司法制度改革審議会はやってくれたわけです。日本国憲法の第12条には、こう書いてあります。
 
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 
 私たちは、ここでいう「不断の努力」をしていなかったのではないか、だからこんな違憲立法をやすやすと許してしまったとはいえないでしょうか。
これまで、行政の行う人権啓発は「差別をなくす」ためであった。差別を許している社会は当然否定されるべきであるというところから出発していたような気がする。したがって、その活動はあくまでも倫理的な説得を主としていた。――差別の現実はこんなに厳しい。あなたも、この現実を知れば、愕然とするはずだ。怒りが湧いてくるはずだ。もし、あなたがそれでも冷淡でいられるとしたら、その冷淡さがあなたに向かって牙をむき、いずれあなた自身を苦しめるだろう。――少なくとも私自身はそのような文脈で部落解放というものを捉えていた。
 
 しかし、今や人権侵害は差別の問題とは限らない。子どもの権利の概念がすでに「差別」からの解放という枠組みだけでは治まらない気がしているし、虐待、ハラスメント、冤罪、死刑制度、メディアスクラム、個人情報、‥‥等々、これら全ての人権課題を「差別」の概念で括るのには無理があると私は思うようになった。差別の現実を知っている人にも、知らない人にも、「人権侵害」という用語の共通する領域は、暴力であったり、財産権の侵害であったり、奴隷的な拘束であったり、不当な逮捕や監禁であったり、脅迫行為であったり、貧困であったり、生命の危険であったり、中傷や名誉毀損であったり、情報からの孤立であったりするわけで、こういうところから丁寧に組み立てなおさなければ、国民全体の問題にはなりにくい。
 
 言い換えるならば、自分は別に人からどう思われようとかまわないという人々に対して、倫理的なアプローチが効を奏するとは考えにくいのだ。では、ほかにどういうアプローチの仕方があるかといえば、人権を尊重することによって、自分の生活もよくなるという保障であり実感である。たとえば、セクハラやDVで苦しんでいる人は数多い。しかし、少しずつではあるが改善されてきており、それを実感した人たちは少なくないと考えられる。ほかにもパワーハラスメントの問題なども、実に身近だが深刻な人権問題である。厚生労働省が、「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」を昨年4月に改正して新たに「職場によるひどい嫌がらせ、いじめ」等が心理的負荷の強度Ⅲという最高に強いランクで付け加えられたことは、岩手県に始まって全国的に拡がるパワーハラスメント禁止を盛り込んだ自治体のコンプライアンス化と相俟って、人権に対する理解が全国的な高まりを見せていることは注目に値する。そのほか、バリアフリーやユニバーサルデザインにより、地味だけれども確実に生活しやすくなってきている。
 
 そして、冤罪の問題や死刑制度、メディアスクラムの問題なども、人権尊重を社会全体のコンプライアンス化を推進するという流れのなかで実現をはかっていくことが大切ではないかと思う。特に、検察を「公益の代表者」(検察庁法第4条)として権限を集中させている検察庁法や今回運用の仕方を誤っていると思われる検察審査会法(第2条2号)も改正が急がれる。
 裁判員制度が施行されて1年以上が経過し、メディアは司法が分かりやすくなったと相変わらず歓迎ムードですが、昨年4月3日の衆議院法務委員会において森元法相が民主党の川内議員の質問に答えたとおり、裁判員法に立法事実はなかった、つまり、立法化されねばならないような社会的背景は存在しなかったというわけです。ですから、仮に司法が分かりやすくなったにせよ、背景は社会的なものではなく政治的なものでした。つまり、アメリカ資本が日本に乗り出すためのアメリカ側の要求に応えることが目的だったわけで、「かんぽの宿」の叩き売り計画ともリンクする話になってくるのですが、そのあたりのことはこれまでたくさん書かれてきましたので、司法の民主化という切り口で見つめなおすと、どのようなことになっているかを考えてみたいと思います。
 
 まずは、私たちが刑事裁判に関わるかもしれない、その関わり方について考えてみると、犯罪を犯さないという前提にたっていたにせよ、実に多様であります。裁判員として関わる場合(A)、当事者等の支援のためにあるいは報道のために傍聴人として関わる場合(B)、さらに当事者として、犯罪被害者として関わる場合(C)、そして冤罪被害者として関わる場合(D)などがあります。
 
ところで、刑法犯の検挙率は驚くほど低く、平成22年2月4日付で警察庁が明らかにした統計によると、平成21年中に警察が認知した刑法犯1,703,044件のうち検挙件数は544,699件で検挙率は33%だそうで、それでも認知件数が減少しているために検挙率は一昨年よりも上がっています。警察が頑なに取り調べの全面的可視化に抵抗しているのも、この検挙率の低さが影響しているのではないかと、思えてなりません。
しかし、もしそうだとするならば、足利事件でなんら教訓を学んでいないことは明らかで、取調べを従来の手法に委ねたままで押し切ろうという姿勢から、冤罪をなくしていこうという意欲は感じられません。これは、私たちにとって、非常に警戒すべきことだと思います。なぜならば、警察が治安維持の機関として私たちを守ってくれる以上に、恐るべき暴力装置に転落していく可能性があるからです。警察の威信にかけて検挙率を上げようとする焦りが、ただでさえ冤罪を量産する危険性を孕んでいると思います。Cの犠牲者よりも、Dの犠牲者が数の上で上回るということも、ないとは限りません。つまり、私たちはたとえば凶悪な事件の犠牲者となる心配はよくしますが、無実の罪で逮捕され、被告として裁判を受けるという想定をあまりしません。これには、はたして根拠があるのでしょうか?              
さて、メディアが「司法がわかりやすくなった」と歓迎しているのは、主にABにとってであって、権利主体としての被告(この場合は=冤罪被害者)にとってではありません。しかも、これは「司法が分かりやすく」というよりは「事件の概要が分かりやすく」です。足利事件では、菅家さんが1審の途中から、犯行否認に転じましたが、1審弁護人梅澤弁護士との間の信頼関係が崩れたと同弁護士が語ったほど、裁判のプロと素人である被告人との認識のギャップは大きく、被告人にとって「司法が分かりやすく」なるのでなければ全く意味を成しません。公判前整理手続きでの「わかりやすさ」と「迅速処理」とが、足利事件における菅家さんのように被告を置いてけぼりにしてしまうのではないかという懸念があります。弁護人ですら被告との信頼関係を築くことができているかどうか分からない中で、第3者に向けた「わかりやすさ」と「迅速処理」とは、被告にとって望ましいものとは思えないのですが‥‥。いつでしたか、もっと熱心に弁護活動を行うようにと裁判員から注文を受けた弁護士もいたとのことですし‥‥。
 解放出版社が出している月刊誌に「部落解放」というのがある。私に「人権」とは何か、「差別」とは何かの基本を教えてくれた書だ。こう書くと、最初から無批判に受け入れていたかのように受け取られるかもしれない。もう30年近くも前のことだが、私は多くの者がそうであったように部落解放同盟の糾弾闘争路線には批判的であった。しかし、何年もかかって私が出した結論は、こういうことだった。おそらく糾弾闘争には万人が理解し承服することはありえないであろう。しかし、少数者の生命と自由と幸福追求の権利を死守するためには、そして子どもたちの「誇り」につながる道を確保するためには、この方法しかありえないのではないかということであった。もちろん、似非同和行為を生む余地があるなどのマイナス面はあった。しかし、あえて言わせてもらうならば、そんなことは瑣末なことであった。そして、現在でこそ「セルフエスティーム」「エンパワーメント」「モラルハラスメント」というような概念が整理され、誇りを奪われることの残酷さへの理解が次第に浸透してきたし、部落差別のみならず、在日外国人やアイヌに対して行われた同化政策、そして児童虐待の防止に関する法律に定義された「虐待」の多様な解釈――さらに、私は幾多の冤罪事件においてありもしないことの自白を何故してしまうのかというあたりまで同じ射程に括ることが可能だと考えている――など、それを説明しうる事例も枚挙に暇がなくなってきたほどだが、当時は似非同和行為が起きるたびに孤立無援の闘いを余儀なくされ、当事者にとっても苦しい選択であったろうと思う。
 
前置きが実に長くなってしまったが、「部落解放」の6月号が目に留まった。裁判員裁判から1年が経過し、あらためて裁判員制度を特集していたからだ。思い起こせば、裁判員制度の導入に際しては部落解放同盟中央本部は「反対の意思を表明しかね」ているようだった。何故、こういう風に書いたかといえば、まず間違いなく彼らは裁判員法が憲法違反であることぐらい承知しているはずであるし、同制度が施行されるより前の論調は「反対」はせぬけれども、大いに疑問符を表明した記事が掲載されていたと記憶している。そこに私は現在の部落解放同盟が置かれている立場が透けて見える気がした。悲鳴が聞こえる気がした。かつては、協力関係にあった社会党の機関紙「社会新報」であっても、差別記事が載れば糾弾していた、あの解放同盟である。痩せても枯れても「解放」の名がつく限りは、組織の維持のためとはいえ大儀を捨てることはよもやあるまいと思っていた。
 
ところが、この6月号に載っていた記事には、もはや悲鳴さえ聞こえてこない、まったく開き直った、解放同盟ならぬ「開放」同盟の姿があった。日弁連の執行部に原稿を書かせることの意味を考えなかったのだろうか。部落解放同盟中央本部に対する怒りと落胆は、民主党への怒りや落胆の比ではない。
 
戦争の最中に福岡連隊を相手に差別糾弾闘争を闘った全九州水平社。パワー・ハラスメントに屈した、弱い私だからこそ、論理の正しさのみで多数派と堂々と渡り合う糾弾闘争の潔さに鳥肌の立つような興奮を覚えたし、軍隊の組織力を向こうにまわして一歩も引かぬ団結力と精神性の高さには、「弱さ」を逆手にとって「強さ」に還元していく解放のエネルギーが実証されていた。
片や中央本部から袂を分かった部落解放同盟全国連は裁判員法の違憲性を指摘している。だが、私はこんな分かりきった欺瞞を許すことなく、部落解放同盟中央本部に闘ってほしかった。本当に残念でならない。

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