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司法・冤罪等

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思想としての「人権」

 いったい「裁く」とはどういうことなのだろうか。裁く側と裁かれる側との間には、基本的人権というものの捉え方に大きな差があるような気がしている。
 
 裁く側、たとえば検察官が検面調書を記録する際に、証拠と証拠とを結びつける動機の想定の仕方になんらかの「癖」がありはしないだろうか。その「癖」は裁かれる側にとってどういう意味を持つのだろうか。
 その癖とは、被疑者に関してある事実から次の事実に至る心理の動きを常に悪意に満ちた視点で見続けるという癖だ。職業柄当然と考えているとしたら、構造的な欠陥があると見るべきだろう。いつしかその癖が事実(証拠)をさえ凌駕して我がもの顔で暴れていることが、この間の冤罪事件の多発により明らかとなっているからだ。しかも、裁判所はなんらブレーキとなりえず、「いじめ」を構造的に支える傍観者層よろしく、消極的に関わるのみだった。その背景に判検交流があるのではないか。とすれば矢張り構造的な問題といえる。
 
 副島健一郎氏の「いつか春が」という「佐賀市農協背任事件」をテーマにしたノンフィクション小説がある。これを読むと、検察の取調べが人権無視という段階を通り越して人権教育で明らかになっている理屈をむしろ悪用することで個人を追い詰めている、という疑いを持ってしまう。それは検察組織によって周到に準備された罠であるとも言え、裁かれる側の思想としての人権という視点で見れば単なる人権無視よりも遥かに悪質といえる。犯罪者を見極めるためなら何でもありということなのか。しばしば当たりはずれがあってもなお許されるのだろうか。無罪を立証する証拠を隠してまで、守り抜かねばならないものなんてあるのだろうか。裁く側の面子(メンツ)というよりは、自己保身の道具としてしか見ていない乾ききった感性こそ社会病理というにふさわしい。
 
 たとえば、自尊感情(セルフエスティーム)とかエンパワメントとか言われることが人権意識の確立に欠かせない。すなわち、自己肯定感こそが連帯意識を支えるために必要とされるプリミティブな意識である。また、児童虐待防止法に虐待の定義を物理的な暴力に限らず、わいせつ行為、著しい減食や長時間の放置、否定的態度、著しい暴言や心理的外傷を与える言動なども含まれ、こうした解釈へと道を拓いたものは児童の権利に関する条約、とりわけ19条であろう。
 これらの提起は各方面に光明がさすがごとく希望を持って受け入れられたことは間違いない。しかし、その裏解釈として、自己否定に持っていけばあらゆる希望を失わせることが出来るし、被疑者を長期にわたって放置しておけば思い通りに自白させることが出来るなど、人権に関わる研究の成果を悪用することで、犯罪捜査という隠れ蓑の中で検察組織は最大限の効果をものにしてきたといえる。それは、まるで魂を悪魔に売ったかのようである。いや、これらの手法の多くは韓国併合のときまで遡るかもしれない。どうすれば民族が自信を失い自己否定を始め、また、自らを貶めさせることで植民地支配に要するコストが驚くほど節約できるかということを考えたのではなかろうか。そして、その手法が警察や検察に受け継がれていると私は考える。
 
 人権とは裁かれる側、自らを解放しより高度の自由を求める国民や民衆にとっては、思想であり財産であるが、裁く側にとっては単なる法であり手段に過ぎない。裁かれる側は「人権」にいろいろな願いや祈りをこめて、未来を託しているのに対して、裁く側は文字通り裁くために願いや祈りを手っ取り早く蹴散らすための罠として、憲法という看板を立てておくのだ。いまや憲法は呪いの言葉ですらある。こういう角度から、裁判員制度を見てみることも必要かもしれない。本当は裁かれる側にいるのにあたかも裁く側にいるかのように偽装し、憲法を願いや祈りから遠ざけ、呪いの言葉として再教育していく。私たちは、死刑制度を合憲とした昭和23年3月12日最高裁判所大法廷判決によって憲法が裏解釈され、呪いとなって人々を脅かす実例を知っている。
 かつてハンセン病が「天刑病」とか「業病」などと、恐ろしいまでに偏見や差別の眼差しで見られていた時代があったことを私たちはしっかりと肝に銘じておく必要がある。しかも、当時のマスメディアはハンセン病患者に対して悪意の眼差しを持って記事を書いていた。ある大手新聞などは、国立療養所のフェンスに隙間が出来て、そこから患者たちが自由に外出しているさまを「野放し状態」という表現で報道した。
 
 「イエスの方舟」事件では、サンデー毎日を除く各紙が千石氏の行動を予断をもって報道し、被害者という被害者は存在しなかったにもかかわらず、社会倫理に反するという独善的価値観と偏見にもとづく報道という2重の誤りを犯していた。一方、警察は暴力行為などの容疑で逮捕令状をとり、千石氏を追った。結果的に千石氏は不起訴となったが、このときサンデー毎日の記者の中に鳥越俊太郎氏がいたことが知られている。
 
 もしも、これらの予断の中で裁判が行われ、裁判官が証拠に基づかずに自分の推認で判旨を固めていったとしたらどうだろう。ハンセン病に関する特効薬の存在や細菌による感染力の弱い感染症であるという事実や病状に発疹や結節という1次的なものと末梢神経障害に伴う骨髄えんなどの併発による2次的なものとがあることなどの専門家の証言が多数証拠採用された場合とされなかった場合とでは、判決は180度異なってくることが容易に想像される。
 
 「イエスの方舟」事件でも、仮にサンデー毎日の記事や記者の証言が有力な反証となっていたにもかかわらずそれを裁判官がことさら無視し、検察が証明し得ず不起訴となったことを「推認」によって補完していったとしたらどうだろう。
 
 証拠に基づいて判断するというのは裁判の基本ではないか。もし、裁判員裁判で裁判員が推認によって結論を出していったとしたら、それもありなのであろうか。こんな無茶苦茶な司法がまかり通る日本という国は、何のために法律を作り、何のために選挙を行い、何のために税金を払っているのだろうか。
 証拠に基づかない判決をおこなったり、検察や日弁連とのなあなあ関係が露呈したり、不確かな動機で極刑を申し渡したり、公判の進め方が尋常でなかったり、本人訴訟を蔑ろにしていたり、という具合に国民の納得がいかない判決がこれ以上続いたとして、ことの重大さに国民が気づいたとしたら、どういうことが起こりうるだろうか。
 
 司法不信が極限までいったとき、日本においては集団で行動を起こすということに不慣れなために、たとえばデモ隊が裁判所の周りを取り囲むというような民主的な抗議行動に向かわず、裁判官の宿舎に狙いを定めたテロ行為に走るというような危険が高いといえないだろうか。
 
 これは日本において、人権という概念が軽く見られてきたために、「正義」という概念が「人権」という概念のなかにしっかりと根付いてこなかった代償であるかもしれない。日本人の恐ろしいところはここである。武士社会におけるハラキリ文化、特攻隊において自爆することを現在においても美化しようとする文化があり、それは日本の自殺者の心理とも無関係ではなさそうだ。
 
 つまり、年間の自殺者数が世界8位であり、他国が75歳以上の高齢者の自殺比率が高いのに対して日本の場合は55歳以上64歳以下の比率が高く、「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。」と指摘する専門家もいる(WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士)なかで年間3万人を超す自殺者の存在は何を暗示するのだろうか。
 
 これらは日本人の人権意識が希薄であることの証なのだ。権力者は、今も昔も日本人のこの特徴、すなわち「生きる権利」よりも「生き恥をさらすな」ということのほうが重要視されている特徴を最大限に利用してきたし、このイデオロギー装置を温存しておくために、「人権」という概念を決して本気では広めようとしなかった。逆に男らしさや女らしさの観念ををメディアを通じて正当化もするし、国家による差別やハラスメントの実態を無視し、冤罪と死刑制度とを温存しようともしてきた。
 
 「生き恥をさらすな」という美意識は、ややもすると権力者にとっても制御不能に陥り、ヘモグロビンと結びつく一酸化炭素のようにテロリズムにからめとられる。これまでは、司法を全面的にではないにせよ信頼を置いてきたから裁判官を個人的に狙うという「禁じ手」をあえて犯さなかった。しかし、裁判官といえど通勤をしないわけにはいかない。13年連続で年間3万人を超す自殺者数の暗示するものは、そういう危険領域への距離に換算されないか。
 
 人権とは権利において自分を大切にし、自由において他者と連帯することである。日本人は自分を大切にするという仕方を知らないから、他者との連帯も不得手なのだ。日本人の人権意識とはこの程度なのだ。そして国民が連帯することを拒み、かような危険な性向を密かに育んできたのは、まさに司法を含む権力者たちであった。
 
 日本の社会がこのような危険な状況にならないように、国の諸機関は本気になって人権意識を高めるアクションを起こす必要があり、もはや一刻の猶予も許されない。それには、まず内部、すなわち裁判所と法務省からだ。
裁判官弾劾法
第二条 (弾劾による罷免の事由)  弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。
 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
 その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。
 
 今回のようなケースに弾劾裁判が使えるかどうかという疑問はある。第2条の1号にいう「職務上の義務に著しく違反」とは、おそらく公判の日に出廷しないとかいうような場合を言うのであろう。また2号の「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」とは、たとえば裁判官がセクハラを行ったりした場合を指すと受け取られ、それに基づいた運用がなされているような気がする。
 
 さて憲法64条2項により立法にゆだねられた弾劾とはそのようなことに限られるようだ。確かに裁判官に身分保障について格段の配慮がなされているのは理解できるが、憲法が国家権力の暴走から国民を守るために存在するという基本原理からすれば、裁判官の身分保障も国民を守るためであり、今回のように職務に違反はなくても判旨それ自体に故意または重大な過失による論理矛盾が顕著な場合など仕事内容が基本的なところで国民の期待に遠く及ばないとしたとき、そういうことがありえないという前提で設けられた裁判官の身分保障の諸規定は著しくバランスを欠くことになり、しかも主権者たる国民が一方的に裁かれるだけというシステムは却って国民から対抗手段を奪ってしまい、そのこと自体が基本的人権の侵害に通じるとは言えないだろうか。これは由々しきことである。憲法では、被疑者や被告人の権利擁護のために細かい条文が用意されているにもかかわらず、そのような規定が軽んじられているのは、憲法の理念が手続法の中で十分に生かされていないためではあるまいか。
 
 現状では裁判官弾劾法による罷免(国会で行われる)かまたは裁判官分限法による懲戒(指揮・監督権を持つ裁判所が行う。戒告又は一万円以下の過料)のいずれかしか認められていないのだ。要するに、、現行では、弾劾裁判とは裁判官の無責任さや犯罪性を想定したものであって、一般の刑事訴訟になじまないことから、その点のみを補填する役割しか与えられていないことになる。
 
 であるなら、今回登石郁朗判事の罷免を求めてこのような署名運動を行うのは無駄なことなのか?否である。こういうアクションを通じて、抗議の意思を形にしていくことに意義があると思う。私たちの手元には抗議のための道具がわざわざ与えられていないだけなのだ。だからといって指をくわえてみているだけしか出来ないのか、ということだ。道具がなければそのあたりにあるもので間に合わせるしかないじゃないか。そういう意味で、岡田氏の今回の取り組みはすばらしいと思う。もちろん、署名した。抗議の意思を表さないと、国民が受け入れたなどと勝手に解釈されてはたまったものではない。それに、過去に指紋押捺制度に抗議する80年代以降の拒否運動から憲法裁判へと広がりを見せた例もある。今回、1ヶ月という短い期間でどれだけの広がりを見せるか、注目していきたい。
 お知らせです。「登石郁朗判事の弾劾裁判を要求」ということでネットで署名を求めるアクションが9月29日付でスタートしています。呼びかけ文は次のとおり。
 「陸山会裁判で物的証拠がないにも関わらず、状況証拠のみにより石川知裕衆議院議員ほか小沢一郎氏秘書3名を有罪とした登石郁朗裁判長の判決は、推定無罪の原則を無視し裁判所の公正性に対する信頼を著しく失墜せしめるものであり、法治国家としての日本の根底を崩しかねないと言わざるを得ません。
 このほか、法政大学裁判においても必要以上に被告人の退廷を命じるなど公明さを欠く事例が過去にも指摘されており、登石氏の判事としての資質には多いに疑問があると言わざるを得ません。
 ゆえに、裁判官の罷免をも可能とする裁判官弾劾法に基づき、登石氏の弾劾裁判を実施すべく国会にこれを要求するものであります。」
 
 この判決については、拙稿「トンデモ裁判をこれ以上繰り返さないために」でも触れておりますが、小沢事務所がどうのこうのという以前に、司法の原則を著しく逸脱しており、まず国民の自由と権利を侵害する前例となる危険性が濃厚であるため、少なくとも国会で十分な論議が必要とされます。
 
 こういうところにも、現在の司法制度改革がいかにいい加減なものであるか、端的に現れていると思います。何がいい加減かといえば、市民の司法参加を義務付けていながら、肝心の法曹3者に改革しようという意識がまったくなく、逆に司法を彼らの思うがままに行おうという傲慢さを以前にも増して感じるからです。
 
 ひところ政治家の悪行が目立ち、国民の政治不信を招いたという構図をマスメディアは報じてきました。しかし、多くの国民はまさか報道に誤りがあるなどとは思っても見ません。投票率の低さもすべて政治に責任があると考える傾向がありましたし、私自身そう考えていました。しかし、私はあるトリックにまんまとはまっていたことに気がついたのです。「政治家が悪行を働いた」のではなく、検察がそういう立件をし、マスメディアが逮捕の模様を伝えたという、それだけが事実であったのです。はたして、数多くの事件が冤罪であることが後になってわかりました。しかし、国会で野党議員に追及される与党議員のイメージや逮捕され警察に連行される自治体の長などの印象が強すぎてその事件そのものが存在しなかったとか誤解であったというところまで国民の意識は及ばず、検察や報道機関に対する批判も大きなうねりにはなりませんでした。
 
 ところが、多くの人たちが「おや?」と思ったことがありました。日米両国間で交わされていた「年次改革要望書」に関する質疑が2004年の衆議院予算委員会で民主党の小泉俊明議員(当時)と竹中平蔵郵政民営化担当相(当時)との間で交わされたときです。「年次改革要望書」というのは、外務省のWEB上で公開されていましたが、アメリカの要求には日本の国益を損なうものまで入っており、それが郵政国会の中で次第に明らかになってくると、日本の主権を事実上侵しているという見方さえできるような内容に、委員会の録画中継をインターネットで見た一部の国民は驚き、小泉政権に対する不信感以上に、そのことを報道しようとしないテレビや新聞に対して疑惑を感じ始めました。
 
 「年次改革要望書」は、日本の司法制度改革にまで及んでおり、裁判員制度にしろ検察審査会にしろ、アメリカからの要求との折り合いをつけるために、あるいは司法制度改革の体裁を保つために、無理やり作った制度だったわけであります。したがって法曹3者の妥協の産物であることに間違いなく、細かいところまで丁寧に詰めて結論が出されたものとは思えず、当然の成り行きとして司法そのものが猛スピードで質の低下を見せています。このままでは、予想もしなかったような腐敗も起こりえるのであります。しかし、すでに米国の意志がいかに強力かを知っている大手メディアは危うきところに近づこうとしません。NHKを含むテレビや新聞メディアがいかに当てにならないかということの証拠に、今回の原発事故の報道が御用学者の意見を前面に出し、独自の調査で危険性を訴えていた民間団体のネット報道を否定し続けてきたことでも明らかであります。
 
 長くなりましたが、結論としては裁判所に自浄能力はすでにないし、マスメディアが世論を喚起するということも考えにくいので、国民の権利行使として少なくとも弾劾裁判を実現する必要があると思います。賛同者の署名と、このアクションについて情報を拡散していただければ幸いです。

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