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差別問題

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 私がまだ小学生だった頃、獅子てんや瀬戸わんやという二人組がよくテレビで漫才をやっていました。テンポよく繰り出されるギャグに当時の私は大いに笑わせられていましたが、ある日友人との間でそのことを話題にすると、その友人に「人の身体のことを笑いの種にしている漫才のどこが面白いんだ」と、吐き捨てるように言われてびっくりしたことがありました。
 
今から45年くらい前のことです。確かに、彼らの漫才は「ハゲ」で「チビ」の相方をコキおろすといった内容がほとんどでしたが、当時は彼らに限らずお笑いのネタとはそのようなものでした。今から思えば、とても人権感覚の鋭い友達であったと思います。
 
いや、45年も遡らなくても20年前頃のビートたけしや明石家さんま。彼らの若い頃の芸風も女性の顔かたちのことをネタに笑いをとっていたわけですから、笑えない人たちは確実にいて、笑いの排他的な性格はあまり変わらずにいました。それから20年くらいが過ぎてみて、現在感じることは、さんまさんも変わったなあということです。
 
今は笑いの中にも人への思いやりが込められていて、すごく洗練されていると感じます。かつては社会的な弱者を一方的に笑いのネタにしていたのが、今ではそういう人々もいっしょに笑える内容に変わりつつあります。さんまさんに限らず、多くの「お笑い」芸人のみなさんが、人権意識を持ってネタづくりに励んでおられるということ。それがお茶の間にも伝わってくるようになりました。
 
もちろん、時代遅れの差別的な芸風の方もまだいらっしゃいますが、障がいや病気を持った人たち、いじめや虐待にあっている人たち、性的少数者、国籍の異なる人たち、引きこもりや不登校が理由で苦しんでいる人たちなど、いろんな方が視聴者の仲間として迎え入れられるような、みんながみんな心から笑え、生きていく勇気が持てるような、そんな元気の出る「お笑い」を目指してくださることを切に願います。
 水銀の使用や輸出入などを規制する新条約の内容を固める政府間交渉委員会第5回会合が1月13日、スイスのジュネーブで始まりました。一方、研究者や一般市民が「水俣病」をめぐる課題を報告し、意見を交わす水俣病事件研究交流集会も12日、水俣市公民館で開催され、ジュネーブにおける外交交渉もテーマとなっており、条約名を「水俣条約」としたい政府方針への反対意見が相次いだそうです。

 私はジュネーブでこのような会議が開かれているなどということ自体、今朝のテレビニュースで初めて知った次第ですが、そのような私でも「日本政府は条約名を『水俣条約』としたい考え」とのニュースに、地元の反発はないのだろうかと反射的に思ったほどです。

 そもそも、名誉なことであれば自治体の名称を使うことに意義はないのですが、たとえばこれを「日本条約」とか「九州条約」とかに置き換えてみれば、地元水俣市の苦悩が少しはわかると思います。「日本=水俣病」「九州=水俣病」でないのと同じように「水俣=水俣病」ではないのです。今回の議論を機に、「水俣病」という名称をも変更すべきかもしれません。

 現在「復興」が進む水俣市においてもっとも恐れているのは、風説被害であろうと思われます。特に、水俣問題では裁判への影響を考慮しすぎたためか企業側と行政の対応が大幅に遅れました。その結果、地元では「水俣病」患者に対する差別や住民同士の分裂を招き、しかも裁判の結果は国や県、そして企業に非常に厳しいものでした。

 地元にも国側にも自殺者が出ました。忌まわしい歴史は教訓として整理しながら未来と国際社会に向けて発信すると同時に、実生活の上では希望に満ちたまちおこし、まちづくりが求められてくるでしょう。そういうなかで、地元と国や県との信頼回復が模索されていたに違いありません。

 もっとも、理想的なことを言うならば、日本国民に人権という普遍的な文化が根付いておりさえすれば条約の命名に一喜一憂することでもないのかもしれません。しかし、現実問題として風説の被害が絶えない日本という国にまだまだ人権文化と呼べるものは少ないといわねばなりません。
 そして、水俣市民の意見を聴き政策に反映させるという、当然ともいえる政策決定の筋道がどの程度、大切にされていたのでしょうか。

 沖縄、福島、水俣‥‥どこか似ていると感じるのは私だけでしょうか。

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 「同和、同和と言うから差別はなくならん」‥‥いわゆる「寝た子を起こすな」論です。これに対して、太政官布告(いわゆる解放令1871年)以降、同和対策審議会答申(1965年)までの約100年間、行政は目立った活動をしてこなかった、すなわち寝た子を起こさずにいたわけでありましたたが、それによって差別がなくなったわけではもちろんありません。部落差別は親から子へ、そして孫へと世代間で継承されてきたのです。ましてかつての興信所や探偵社にとっては差別があるから仕事(身元調査)が入るというという側面が有り、みんなが同和問題を話題にしなかったら差別がなくなるという発想がいかに現実離れした無責任な発想であるかがわかります。

 そもそも同和問題を解決しないで、忘れ去ればよいではないかという発想には、たとえ深刻な社会問題であるとは言え、その問題を直視せずに逃避することによって幕引きを図ろうという姿勢であって、自分の視界に入ってこなければ良いという姿勢でもあり、「臭いものには蓋」という、社会に対して責任を持とうとしない姿勢につながっており、そればかりかナチスの「ホロコースト」や「ハンセン病患者に対する隔離政策」にまで繋がっていく危険極まりない発想であるのです。

 もし「いじめ」問題のことを誰も話題にしなくなったら、いじめはなくなるでしょうか。もし、セクハラのことをどこも報道しなくなったらセクハラはなくなるでしょうか。直接事件に関係しない人の目の前からはなくなるかもしれません。でもそれは解決したわけではもちろんなく、単に水面下に潜っているだけで、多くの人が無関心になっただけです。

 差別や虐待を受けていることを公の場で明らかにすることはとても勇気のいる行為です。彼らの多くは自分を肯定することがむずかしく人間としての誇りがずたずたに傷ついているからです。
 今では、「部落差別」にしろ「セクハラ」にしろ「児童虐待」にしろごく普通に使っているコトバですが、ここに至るまではいろんな人たちの犠牲があり、いろんな人たちの勇気があり、いろんな人たちの支援があって、はじめて社会問題として陽の目を見たという経緯があります。そんな関係者の努力の結晶を省みることなく、「寝た子を起こすな」論‥‥私には両者のギャップが切なくてたまりません。
ハンセン病元患者の上野政行さんの話を聴いた帰りのことだ。
黒門の交差点のところで私はKさんに声をかけられ、昼飯に誘われた。
Kさんと私とは20年近い付き合いで、
私は彼の影響で部落解放運動や在日コリアンの民族差別と闘う運動と出会った。
その日の上野さんの講演会に誘ってくれたのもKさんだった。
 
ふたりの話は自然とハンセン病に向かった。
Kさんは戦後、1953年のらい予防法(戦前の癩予防法同様、強制隔離政策を継承しており、所長に患者に対する懲戒検束権を認めたほか、すでに治癒する病気となっていたにもかかわらず患者の退所規定がないなど多くの問題をはらんでいた)の制定にもっとも影響力があったとされる国立療養所長島愛生園初代所長の光田健輔氏のことを昭和の極悪人と評した。
「確かにそうかも知れんが、たった3人の医師の意見で決まるなんて。もう少し、(法律の制定に関して)何とかならんかったとかなあ。」
「そりゃ、医者が判断したら、(それを突き崩すのは)なかなか難しいと思うよ。」
「しかし、プロミンはすでに国内においても威力を発揮していたわけやろ?」
「国会で参考人招致された人の意見は、それが(国立療養所の所長でありハンセン病の医師という)専門家であったならば、なおさら重視されるやろうね、それは今でも一緒と思うよ。」
(専門家といったって同じ人間。真実を語ることに不利益が伴えば出鱈目を言うこともある。現にその当時だって、京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登という医師は、ハンセン病は感染症には違いないけれども非常に感染力が弱く、隔離は必要ないという研究成果を発表していたし、国際的な見地からWHOの意見なども尊重すべきだった)と、私は思った。
 私はKさんの意見にかなり不満であった。個人的な資質に振り回されるようなシステムは絶対におかしいと思うし、また光田健輔という個人を酷評して済む話ではない。問題は、どうすれば同じ過ちを繰り返さないかということであって、義憤の情は二の次だ。
 
 しかし、Kさんの言うことも一方では事実である。同じような状況があったならば、国会はまた同じ過ちを犯しそうな気がするのだ。現に裁判員法があった。憲法違反の疑いの強い裁判員法を日弁連の意向に沿う形で、無所属の2名が反対したのみで、民主党、公明党、社民党、共産党を含む各党とも国民の利益を後回しにして法案を通したではないか。あのとき、私は三権の何かとても重要な部分が欠落してしまったと感じた。党利党略に対して国民はもっと拒否反応を示すべきだと思う。

上野政行さんの印象

 今日は、午前中、福岡県ハンセン病に学ぶ会主催の上野政行さんの公開講演会を聞きにいきました。上野さんは、国立療養所鹿屋敬愛園に16歳で入所し、現在に至っています。現在、89歳。入所者自治会元会長。真宗同愛会元会長。歌人です。今日のお話は、ハンセン病患者の日本における受難と闘いの歴史に、上野さん自身の体験を織り込んだ、とても貴重な120分でした。
 
特に私が感動したお話を二、三紹介します。16歳で入所にいたったときのお話は、胸部にできた瘢痕をめぐって学校で医師の検査があり、知覚麻痺があることが判明し、以来学校で差別されるようになったこと、それでもお父さんは常にやさしく入所後もでっかい西瓜を持って面会に来てくれたことなど。
 
らい予防法は廃止されたけれどもハンセン病問題が終わったわけではなく、のちも国立療養所が社会から孤立しているままでは元患者たちの不安が解消されないため、療養所を地域に開放していくという上野さんの夢についてのお話。
 
さらに故山中五郎氏を師と仰ぐ上野さんの短歌九首が読み上げられ、それぞれ背景について解説されたお話など。
 
拝聴しているうちに、この上野政行さんという方の人間的な高みに圧倒される私でした。

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