よっしー本店

ブログ名を再度変更しました。

天皇・日の丸・君が代

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

 すでに府条例によって起立斉唱が義務づけられているにもかかわらずあらためて市立学校の教員に起立斉唱を強いるという橋下大阪市長の姿勢には、このことを利用して公明党・自民党に踏み絵を踏ませる狙いがあると思われます。
 
 私自身は君が代や日の丸に特段の愛着もなければ抵抗感もなかったのですが、ここまで徹底してやられると抵抗感が湧いてきます。君が代が国歌であろうとなかろうと、個人の相異なる価値観や良心を認め合う社会づくりをしようというのが、現在の都市構想の基本だと考えていた私には、人の多様性を認めようとしない橋下市長の政治姿勢は好きではありません。市民に考える余裕を与えずハイテンポでことを推し進めるやり方には、民主主義となじまないものを感じます。
 
 もともと国旗や国歌は、個人の名前が他人から認めてもらうためにあるのと同じように、国際的に認知してもらう必要から慣例化しているものだと思います。また、個人の名前はその人のアイデンティティーになっていたり、民族の誇りになっていたりします。ですから、できるだけ多くの人が同意できるものを選択すべきであり、そういう意味では新しい国家や国旗を作ろうという運動が大きく盛り上がったわけでもない以上、日の丸や君が代の認知度は他を圧倒していると思えます。
 
 これを法律で定めたというのも、外交の必要からというのであれば致し方ないと思います。しかし、あくまで外交の必要上であるという立場を堅持し、そこを逸脱するものであってはならないと思います。つまり、たかだか外交の必要から定められたものであって、それがために学校行事の際にそれを強制するとかいうような個人の良心の自由を侵してまで徹底する必要はないというのが、私の考えです。
 
 言い換えれば、国歌や国旗は定めております、しかし現在の国歌や国旗を快く思わない国民もおります、それはそれでよいのです、日本は自由と平等を尊重する国だからです‥‥と胸を張っていえばいいんじゃないでしょうか。ほかの国がどうかという意見もありましょうが、そういう横並びの感覚は捨てて、自国民を大切にし、かつ他国に脅威を与えない国是であれば、胸を張ってよろしいかと思います。

卒業式を観察する

 卒業式のシーズンです。ある中学校の卒業式を例に立ち止まって考えてみましょう。

  ――――――

 「一同、起立!」司会の教務主任の先生の号令が響きます。
   一同とは参加者全員、すなわち卒業生、在校生はもとより、
   校長を含む教職員、保護者全員、来賓全員です。
   もちろん、教務主任の先生が皆さんに命令しているわけではありません。
   彼は誰かの代弁していると考えられるから、皆さん従っているわけです。
   はたして誰の代弁をしているのでしょうか?
   誰の命令と考えるのが適当なのでしょうか?

   命令など誰もしていない、おのずからそうしているのだ?
   そういう考え方もあるでしょう。
   しかし、全国的に似たような行事が行われていることに、
   誰も仕掛け人がいないということはありえません。

   少なくとも文部科学省や現在の自民党政権がそういう方向を適当と考え、
   各地の教育委員会に「国旗及び国家に関する法律」や学習指導要領が浸透し、
   結果としてかような行事の定着が図られてきたことは周知の事実です。

   ただ、参加した皆さんにとって抵抗があろうがなかろうが、
   また公式行事に混乱を招くまいと配慮しようがしまいが、
   災害時でも非常訓練でもないときに号令に従ってみんなが動くというのは、
   私には異様な光景ではあります。
   公の場でのマナーを徹底するという受け止め方もありましょう。
   それにしても号令ひとつで動くということに違和感を感じます。


 「礼!」何に向かって礼をするのかというと、国旗すなわち日の丸です。
   では、教務主任は国を代表する内閣総理大臣の代弁をしているのでしょうか?
   あるいは戦前戦中のように天皇陛下の代弁をしているのでしょうか?
   そのように考えている方々もいるかもしれません。
   しかし、漠然とそういう装いをしているだけで、
   実はそのどちらでもないと私は思います。
   命令しているものの実体はないのかもしれません。
   しかし、仕掛け人たちはいるわけです。   

    
   儀式に過ぎないといえば確かにそうです。
   しかし、その後も挨拶で壇上に上がる方々、みなさん日の丸に一礼します。
   そして、これらの儀式は毎年毎年各地域において繰り返されます。
   先生方や保護者はもとより来賓として地域の代表者が参加し、
   ひとりの例外もなく日の丸に一礼を繰り返す、
   厳粛な雰囲気の中でこのようなことが繰り返されると、
   冠婚葬祭のときの「礼儀」よろしく社会的な強制力を伴ってきます。
   そして慣習化するうちに、生活の中に組み込まれ、
   人々はそれを今さら否定することが億劫になってきます。
   そうして波風を立たせる人を奇人変人として白眼視し、
   我儘と考えるようになります。
   こうなるとこれらの慣習は「装置」として機能し始めます。
   マスメディアがそれを無批判に報道します。
   その装置の目的はものごとを深く考えずに行動してくれる人間たち、
   マスメディアに流した情報を疑いもせず、
   打てば響く太鼓のように多くを語らずとも迅速に反応し、
   完全にコントロールされた予測可能な人々を社会の多数派にすることです。

   一方、子どもたちは「学習」をします。
   身の回りにいるおとなたちが共通して行う行為は、
   世の中の本音として相当の説得力をもって子どもたちを飲み込んでいきます。
   
   仕掛け人の正体は私にも分かりません。
   黒幕というがごとく、彼らは表に出てきません。
   その黒幕たちを護っているのが公安警察だとしたらどうでしょう。
   公安警察は、同じ「公安」とあっても「公安委員会」とは全く別の組織です。
   公安警察が国家を護っているのではなく、
   国家権力の黒幕を護っているのだとしたらどうでしょう。
   公安警察、この秘密のベールに囲まれた集団が恣意的に動かされないように、
   私たちは監視システムをしっかりさせねばなりません。

  ――――――――

   卒業式。
   この生徒たちが旅立つ門出に、贈る言葉のなかに「生きる力」は出てきても、
   日本国憲法や子どもの権利条約が出てこないのはなぜ?
   おとなたちの論理に翻弄されているなどと知る由もなく、
   今年もまだあどけない生徒たちが新しい世界に旅立とうとしています。
   美辞麗句を並べたところで丸腰のまま送り出すことに変わりありません。

  ――――――――

   がんばれ、がんばれ、子どもたち。
   人との出会いを大切にして、
   連帯することを学び、
   いつの日か自分を苦しめ、隣人をも苦しめてきた不幸の正体を看破し、
   メディアや愚かなおとなたちから刷り込まれた幻想を突破して、
   ともに闘い、
   ともに労わりあい、
   世代を超えて尊敬しあおうな、子どもたちよ。

  ――――――――  
    
   
※参 考

 公立学校と国旗国歌について

 職務命令と関連判決

 確定判決

 東京都日野市の市立小学校の入学式で1999年4月に君が代のピアノ伴奏するようもとめる職務命令を拒否した音楽教師が、それを理由とする戒告処分が違法であり取り消すように東京都教育委員会を訴えた裁判の判決が、2007年2月27日に最高裁第3小法廷で下された。それによると、「校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に違反しない」、その職務命令は「特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」とされ、教師側の敗訴が確定した。


 係争中

 東京都教育委員会(都教委)は2003年10月、「卒業式での国旗掲揚及び国歌斉唱に関する職務命令」として、「国旗は壇上向かって左側に掲げる」「式次第に国歌斉唱の題目を入れる」「国歌はピアノ伴奏をし、教職員は起立して国旗に向かって起立し斉唱する」などという項目を作成し、違反した場合は服務上の責任を問われるという、「国旗掲揚・国歌斉唱の義務」を各都立高校に通達した。だが、職務命令に従わない教職員がいたことから、都教委は従わなかった教職員に対し処分を行った。

      https://blog.with2.net/in.php?781249 人気ブログランキング

 日本の教育、とりわけ国家によりなされる教育は「尊敬」という概念が大好きです。しかし、そこで提唱される「尊敬」は「愛」とは一線を画した「尊敬」なのであります。私には尊敬という概念が、年齢を重ねるほどに分からなくなってきています。愛の極致を尊敬と呼ぶならばそれはそれで納得いくのですが、どうも国策として登場する「尊敬」は「愛」の入り込む余地もないほど、厳しさで敷き詰められているような気がします。愛の反対は憎しみではなく無関心であるといわれるほどに愛に対する理解は論理的にも深まりをみせているのに対して、尊敬の反対が不敬であるならばもともと深まりようのない押し付けがましい概念であります。
 一方、全国水平社設立の折の宣言文に登場する「尊敬」は「冒瀆」に対置する表現として用いられ、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と続く文脈のなかでも特に異彩を放っている「人間を尊敬する」という表現こそはまさしく人間愛そのものといえます。
 教育再生会議で一旦浮上した徳育のなかには「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、芸術・文化・スポーツ活動を通じた感動などに十分配慮したものが使用されるようにする」と指摘してありましたが、私の結論を先に言えば今の社会に欠落しているものは偶像化されたものへの尊敬などではなく、日常を共にする者への愛であり、人間であることへの尊敬でしかないということであります。
 ところで、私は天皇や皇室に対する尊敬も思想信条の自由ないしは良心の自由として尊重するものですが、そこに愛があり、人間であることに尊敬を寄せているのでなければ、天皇ご自身にとってありがたいものであるかどうか、はなはだ怪しいところであります。国民との間に距離を置かざるを得ないにしろ、天皇も皇室におられる方々も言うまでもなく生きた人間であります。「尊敬」を受けている代償として基本的人権を損なっているとしたら、その「尊敬」とは「差別」と同義語であります。天皇という存在が現在も国家権力そのものであるという考えに私は与しません。むしろ、国家権力から最も搾取を受け、社会構造的には「栽培」されているに等しい状態にあると思います。天皇は自らの意思で天皇であることを放棄できません。世襲制であることが現憲法に謳ってあるからです。これなどは、幸福追求の権利が完全に否定されており、差別そのものであります。
 故住井すゑ氏は「貴あれば賎あり」と天皇制の本質を部落差別と対極にありながら同根のものとして表現されましたが、制度的にも基本的人権を否定し差別を肯定するものであることは明らかであります。元号が昭和から平成に替わって20年になります。元号そのものを重視しようがしまいが個人の自由でありますが、戦争責任とは切り離した論議が一向に深まらないことが気にはなっているところです。

      https://blog.with2.net/in.php?781249 人気ブログランキング

「昔の人はいいことを言っていた」とよく言われます。本当でしょうか? というと、私が昔の人たちを軽く考えているように聞こえたかもしれませんが、全くその逆です。昔の人たちは、凄かった‥‥そのことをいちばんよく知っているのは国家権力の中枢にいる人たちだとおもいます。

ところで、狩猟生活から農耕生活に移り変わって次第に富が蓄積されるようになった、そして貧富の差が生じた、そんなことが国家権力誕生の由来であるように私ら学校で習いました。しかし、ありきたりで面白くない。長年自分でものを考えるうちに面白い仮説を立てて、ひとり楽しむという不健康な特技が身についてしまいました。国家権力の誕生は、実は中国から伝来した文字を一部の人たちが独占することから始まったのでした(と、私は何の証拠もなく決め付けるのでした!)。

文字を読み書きすることにより、人間は自分が学んだことや覚えたことを記録することが可能になります。そして、文字によって人に伝えることができます。さらには、文字によって自分が体験したことがない世界にまで、踏み込むことができます。こういう新しい能力を手にした人々が、この恩恵をほかの人々には知らせずに何世代かにわたって能力を独占していたとしたら、階級の差が歴然となるのは必至だったのです。しかも、文字は新しい文明とともにやって来たのです。

これらの人たちは「天皇」という存在を創り上げました。天皇制というシステムが実に旨みのあるシステムであるということに早くから気がついたのです。権力者たちは天皇を神格化し、ありとあらゆる演出を施して民衆に畏れを抱かせる一方で、生かさず殺さずまるで植物のように栽培することでコントロールできる存在として完成させたのでした。

ありとあらゆる演出とは、ひとつには「祟(たた)り」の思想です。人々が皆、仲良く平和に暮らしていたなら、すなわちすでにパラダイスであったのなら神が必要とされないのと同様に、不安な要素がなければ天皇もまた有難がられません。祟り信仰で不安をあおることにより、はじめて民衆が心の平安をもとめようとします。

もうひとつは「穢(けが)れ」の思想です。「祟り」だけでは不十分と考えた権力者たちは、けがれの思想をばら撒くことで、言い換えると被差別階層を設けることで、天皇を「清い」存在として対極に位置づけることに成功しました。人々はこの幻想にすっぽり嵌まってしまい、少しでも清さに近づこうとします。しかし、もともと人間に清いも穢れたもあろうはずがないので、努力のしようがありません。

権力者たちがこの矛盾を何とかしようとして考えたのは、お祓いというケッタイな儀式でした。この非生産的な儀式は、それでも人々をコントロールするには十分効果がありました。ある者は祟りを恐れて、そしてある者は穢れを恐れて、お祓いという実に仰々しい演出だけの空虚な儀式に縋るようになったのです。

次に天皇が本当に権力を持ってしまうと大変面倒なことになると考えた権力者たちは、天皇を常にコントロールしておく必要があると考えました。まず、天皇家と親戚関係になることで天皇または天皇候補者を常に監視・教育し、マインドコントロールできるように計らいました。さらに天皇から剣を奪いました。天皇を教育と暴力の両面から操ることで、ここに天皇制は初期段階から高度に発展した形でスタートを切ったのです。

そして天皇を操ると同じ方法で、民衆を支配しました。こうして権力者たちは、文字文明を外国から独占的に吸収することで権力者としての礎を築いたのです。この構図は、一千年以上も変わっていないのです。だから、私は昔の人は凄かったと言ったのです。

え? 「昔の人はいいことを言った」かどうかですか? まだ、そんな呑気なことを‥‥。権力者の方々がばら撒いた情報のひとつにすぎないのでありましょうて。

 関連 http://www.geocities.jp/yossie_70/yj_kokkakenryoku.htm (よっしー館)

      https://blog.with2.net/in.php?781249 人気ブログランキング

全1ページ

[1]


.
よっしー本店
よっしー本店
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事