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セルフエスティーム

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最近の私は、どうも自分で自分のことを尊敬できない、セルフエスティームがとても低い状態が続いています。自分のことを好きになれないなら、自分から好かれるような自分になっていけばのだ。好きになれないというのが最終結論なわけない。そこから何を導くか?何も導かないなんてのは自己否定の蟻地獄からぬけられない。明日から見違えるような人生の始まりだ。

孤立化と闘う

人権の確立と組織防衛とが今日も火花を散らせた。

私は自分が完全だなどとはもちろん思っていない。

だが私の考え方は組織のあり方を妙に逆なでするらしい。

そこで、相手は常に私が孤立するように働きかけてくる。私の自己肯定感(セルフエスティーム)を瓦解させる目的を持って‥‥。

そこには、おそらく陰口を言い合い、私の過ちを、ときには針小棒大に、ときには蔑みと冷笑とを伴って、確認し合う作業が日常となっている。


そうだ。

私の孤立化とは、私を認めまいとする勢力の確認作業によって深められているのだ。

いわゆるパワハラと業務上の指導との違いがここにある。

業務上の指導であるならば、私の自己肯定感を育む形で行われるのに対し、

パワハラの場合、私の価値観を切り捨てることが目的化していく。

その価値観を守ることは、憲法に定められた私の基本的人権の一つである。

それゆえにか、私が自ら自分の非を認めるよう、表立たないよう細心の注意を払いながら、だが確実に脅迫の意図を持って、働きかけを行う。

あらゆる心理作戦がまず準備され、その方向が誤りでないことを確認しあい、外堀を埋めていくことから始めていく。すなわち、私の同調者ができないように用意周到に準備するのだ。


何気ない日常の会話の中でも、私を孤立化させる話題を選択することは簡単なことだ。

それに対して、私の心理作戦も明確にしていく必要がある。

たとえば、陰口や噂話を倫理的に批判する態度をより鮮明にしていくことだ。


これはパワハラの一種である。

上司が部下の陰口を言うなどとはもってのほかであり、

あるいは、それが疑われるような日常態度そのものが是正の対象とされるべきである。

また、部下が返答に窮するような問答をあえて設定し、そのような非生産的なやりとりを押し付けることで見かけ上の優位に立とうともする。

このような攻撃が日常化した場合、組織化されていない価値観を蹴散らそうとする勢力に対しては、それを分析し、言葉にしてみることから始めなければならない。

あらゆる人権侵害に対する闘いがここからスタートしてゆくのだ。

 

ああ、すっきりした。

 

言葉は私たちに勇気を与える。

 

私は、こういうことで悩んでいた私自身をむしろ誇りに思って良いと思い始めた。

厳しさの中のやさしさ

 私は自分の行いが数多くの過ちを重ねてきたことを認めたうえで、それでもなお自分自身が好きかと自問したら心の中では「好きだ!」とはっきり答えるだろう。いま私は「自問したら」「心の中では」などと慎重な言い回しをしたけれども、たぶん社会は数多くの過ちを重ねてきた人間が自分自身を好きだなどと「公言」しようものなら許そうとしないだろうという予感がしたからだ。このように、私たちはいつの間にか人間の言動に対して、自尊感情さえ認めまいとする手厳しい社会を作り出している。
 
 ところで、日本には「人生はそんなに甘くない」という常套句がある。これは検察官や警察官によって取り調べのときによく使われることが知られている。1215日に東京地裁で開かれた、小沢一郎被告の公判の際も石川知裕衆院議員やその秘書を取り調べた田代検事が参考人として女性秘書を「聴取」した際に、秘書の正当な権利に基づく要求を拒絶するのにこの常套句を使ったというが、この表現には理屈抜きで相手を屈服させようという独善性と自らの不正を覆い隠そうとする欺瞞性とが同居している。にもかかわらず、これが常套句として通用しているということは、それだけ巷に流布しているポピュラーな言い草の中には、より権力をもつ側――官憲から一般民衆に対して、男性から女性に対して、大人から子どもに対して、加差別者から被差別者に対して――を一方的に正当化する表現が、いわゆる差別表現ならずとも存在するのではなかろうか。
 
 いずれにしても、このように理由のはっきりしない厳しさや排他的な厳しさというものは、回りまわって自分に向けられる。間違いを重ねた人間といえども、可能性を持った存在として見詰め合うやさしさがあってもよいと思う。厳しさを強いる者も、強いられる者も生命あるもの、厳しさの行き着く果てが憎しみだけのヒステリックなものだとしたら終わりが見えない。厳しさの中にもやさしさをもつ心が社会に弾力性を持たせる。 
 自尊感情の高い子供にするにはどういう育て方をすればよいか。こういう疑問を持つ保護者が少なくない。私はこれに対して3通りの答え方を用意している。
 
 ひとつは個性とか長所とか、あるいはかけがえのなさといってみたり、人間としての尊厳といってみたり、とにかく「あなたという存在はそれだけ尊いものなのよ」と言わんがために言葉を重たく重たくしてしまいがちだ。しかし、それでは社会や集団のメカニズムについてはなんら説明になっていない。また、「誰一人として必要でない人などいない」という言葉は、子どもたちにとっては理念と現実との乖離を伴うから理解しにくいし、近寄りがたい。そもそも倫理臭い言葉のもつ押し付けがましさは、論理性のなさをカモフラージュするためのもので、思想の枯渇を招くと思う。むしろ「あなたには、こういう強みがある」といったほうが、ずっと通りがよいし、関心を引くのではないだろうか。
 誰でも何がしかの「強み」を持っているものだ。そして社会や集団がその特質を要求するときこそ、それは「強み」として輝くときなのだ。たとえば、いつもくだらない駄洒落ばかり飛ばしているA君だが、クラスにBさんという転入生があって本人も周囲のものも人見知りをしてまったく会話が成立しなかったとしよう。そんなとき、A君の駄洒落がお互いの緊張をほぐすのにすごく効果的だったりする。あるいは、クラスでも目立たないCさんはごく自然に対話のできる達人だったり、集団のシチュエーションが多彩である分、各人の「強み」はいろいろな形で要求されうる。このようなことを集団として学習していくうちに、いろんな人の持ついろんな「強み」に感謝するとともに、自分の「強み」をたとえ自覚していなくてもそういう集団に属していること自体、セルフエスティームは高くなっていくと思う。つまり、セルフエスティームが高くなるには「集団」または「人間関係」という要素が不可欠であって、そのためにおのずとその舞台は教室や家庭などになってくるのではないかということ。
 
 二つ目はレジリエンス・トレーニングとの区別をはっきりさせることだ。ポジティヴ心理学に実践的トレーニング法としてレジリエンス・トレーニングといわれるものがある。これは、困難さに打ち勝つトレーニングである。私自身はこのトレーニングについて学習したこともなかったのだが、人権というものを一生懸命考えた末に思いついたオリジナルトレーニングがあった。今から20余年まえ、長男が保育園に通っていたときのことである。仕事帰りに保育園によってみると、クラスでも乱暴もので通っているSちゃんという児童が長男のお尻を叩いていたのだ。長男の様子をしばらく観察していた私は、Sちゃんに叩かれてもなすすべもなくただ愛想笑いを繰り返していただけであることを知った。
 日常的な光景だと判断した私は、なんとか長男自身にこの状況を突破させて、彼が生きていく上での財産にしてやりたいと思った。自分の人権を守り、周囲も納得がいく方法はないものかと考えるうちに、あるトレーニング方法を思いついた。鉄は熱いうちに打てとはよくいったものだ。その夜、私は長男を椅子に座らせ、大声で「やめろーっ!」と怒鳴りつける練習をさせた。長男は当初なかなか大声が出せなかった。しかも「やめろ」ということができず「やめて」だった。自分の人権を侵害する相手に懇願していても始まらないと考えた私は決然として、「やめてじゃない、やめろだ。」「声が小さい、腹のそこから怒鳴ってみろ」と言って、次第に太い声を出すようになった息子に合格点を出した。次の朝、「よおし、やるぞ。」と気合十分で家を出た息子に、正直言って一抹の不安はあったがそれが親心というものであろう。昨夜はこの「親心」が前向きに作用していたのだ。
 夕刻、迎えに行ってみると、長男は階段のところでひとり泣いていた。「ちくしょう、ちくしょう」とつぶやきながら。Sちゃんと喧嘩して負けたのだなと直感した私は、「よくやった、よくやった」と長男を抱きしめながら、感動でいっぱいになっていた。以後、Sちゃんと長男とは大の仲良しになっていった。
 今となってみれば、自分の人生ならともかく、子育てに一か八かの賭けをしたようで冷や汗の出る思いだが、それでもあの晩、まったくためらいがなかったことに驚く。現在ではむしろ、私の思いに同意してくれた妻に感謝している。ひとくちに人権と言っても、法整備としての人権、教育としての人権、思想・良心としての人権などいろいろであるけれども、児童の権利に関する条約がなかったら私のぼんくらアタマで実行できたかどうか疑問である。なぜなら、権利の主体である息子自身に解決させよう、我々は親としてその支援をしていこうという発想そのものが、あの条約で学んだものにほかならなかったからだ。
 しかし、これなどは「セルフエスティーム(自尊感情)=ありのままの自分を肯定する感情」が大事という文脈で最初から行くと、何の行動もしないでおくことがよいのかという珍解釈を招き逆の結果となっていたかも知れず、とてもややこしいことになってくる。大阪教育大学の森 実 氏も「自尊感情が高けりゃ全てよいというわけではない」と警鐘を鳴らしていたが、私も同感で「自尊感情」という翻訳が独り歩きをしているような不安がある。
 
 三つ目は児童虐待防止法を逆説的に読むことで、セルフエスティームを高める方法が推察できる。虐待に会った児童のセルフエスティームが低くなることはよく知られている。であれば、その逆のことをすれば高くなる‥‥とはいえないまでも、低下するのを抑えることはできると考えた。
 児童虐待防止法によると、虐待の形態が4種類記されている。
 一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
 二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
 三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
 四 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
 これらを逆読みすると、セルフエスティームを高めるには、
一 体罰によって指導することが厳禁なのはいうまでもないが、恐怖心をあおって教育しようとしないことなど。
二 わいせつ行為を求めるということは、相手を権利の主体とみなしていないことにほかならないから、相手が児童であっても権利の主体として尊重することなど。
三 食事を必ずさせること。保護者として児童を常に受け入れ、長時間放置しないこと。食事の準備や買い物、掃除など、家事の一部を手伝わせることなどあってもよいと思われる。
四 著しく拒絶的な態度を取らないということは、感情的にならず、つねに信頼されるパートナーとしての役割に徹すること。また、DVも子どもの心身に有害な影響を与えるためにそれ自体児童虐待に当たるという法の趣旨からすれば、保護者同士の良好な信頼関係が必要なことはいうまでもない。
 
 要するに、児童の権利に関する条約の趣旨をよく理解して、行動すればおのずとエンパワーされるし、セルフエスティームも高くなるということである。そして、子どもにとって自尊感情とは常に当人によって意識されるものとは限らないが、保護者をはじめとする周囲の者は子どもにとって自尊感情が高まるような環境で生活することは子どもの権利のひとつであって、闇雲にまたは直接に子どもに対する「助言や指導」に用いて効果が上がる筋合いのものではないということを整理しておいたほうがよさそうだ。
 ここ1〜2年、歳だなあと思うことがあります。
 まず、自分なりに規範を設けていたつもりなのに、案外いい加減になっている、というよりも、妙に他人に厳しかったり、自分に甘かったり。その結果、自分の行動に自信が持てなくなるし、漠然とした精神不安を感じることも多くなったりします。
 第二に健康でなくなっているということ。持病があると、それも結構マイナーな病気だったりすると、人に理解されにくく、常に失態を演じないよう人一倍気を使います。逆に仕事では集中力を欠いてしまい、能率が上がりません。
 記憶力と視力とが急激に落ちてゆきます。特に人の名前や言葉を忘れていきます。上司や同僚の名前を忘れることなど日常茶飯事。
 しかし、歳をとったおかげで逆によくなったこともあります。その最たるものが「開き直り」です。明日、なにか心配事があったとしても、気持ちを明後日に持っていけば大丈夫だったりします。何事にも、終わりがありますから。
 それと、体験や読書によって知恵がついていることです。私たちを不安に陥れるものの中にも、実害のあるものと単なる演出効果だけのものとがあります。若いころは演出に翻弄されていましたが、歳をとるにつれ、そんなカラクリもみえてくるようになります。また、「転ばぬ先の杖」といっても程度の問題で、杖ばかり多くて身動きできなくなってしまっては洒落にもなりませんので、あまり先読みしすぎるのも自ら不安を呼び込んでいるも同然だということに気がつくようになります。
 さらに、夫婦間の人間関係というかコミュニケーションがうまくいくようになってきます。思いやりのキャッチボールとでもいうのでしょうか。男女共同参画社会を家庭から実践してみれば、夫婦ともに生き生きしてきます。人権とはこのように人間同士が生きやすくなるためのもので、人権を義務感や倫理観だけで捉えるのはおかしいような気がしています。
 結局、今の私は間違ったことをすることのほうが多くて、その分凹むことも多いけれども、こうして振り返ってみると、私なりに泣いたり笑ったりしている自分がいとおしくなってきます。ん? さてはセルフエスティーム(自尊感情、自己肯定感)というのは こんなことか。つまり、短いスパンでは自己嫌悪に陥ったりへこんだりすることがあっても、長いスパンで見てみれば、自分に対する信頼があって、自分を肯定しているということなんですね。

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