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人権一般

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1.人権教育と人権啓発
 平成12年12月に施行された「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」では、人権教育及び人権啓発の概念について、同法第2条で以下のように定義付けている。
『人権教育とは、人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動』
『人権啓発とは、国民のあいだに人権尊重の理念を普及させ、及びそれに対する国民の理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動(人権教育を除く)』
ほとんど意味不明の定義だと思う。
 そこで、自己流の解釈を勝手に施すことにした。こうなる。
『人権啓発とは、国家に対する義務規定である。』
『人権教育とは、国民の権利として位置づけられる概念である。』
どう違うかといえば、国家に人権尊重のお仕事を委ねるのは、行政の責任の一部をなし、しかるべき予算を計上させて、社会問題の解決を図る一方で、国家権力が暴力装置として働く傾向を併せ持つことから、民間人に独自の研究や学習を行える環境を保証しようというもので、人権教育には当然ながら、冤罪問題や死刑制度に関する学習をも支援の対象とするものである。わかりやすくはなったでしょ。この概念に基づいて、法律を組み立て直してほしいと思います。

2、自由と平等
(1)自由な経済活動、すなわち自由競争が行き過ぎると経済的格差が生じ、不平等な社会となりかねないとする考え方によれば、自由と平等とは相矛盾する概念となる。
(2)差別の対象となってきた人々、セクハラやドメスティック・バイオレンスに苦しめられてきた人々、LGBTのために社会から不当なバッシングを受けてきた人々にとって、ひとりの人間として認められることが自由であり、社会的に平等を勝ち取ったと言える。ここでは、自由を勝ち取るとはすなわち平等を勝ち取るのとほとんど等価値である。
「自由」という言葉はこのように非常に範囲が広いが、最高裁は前者の意味で使用することが多く、個人個人の願いは届きにくいのが実情だ。
 人権啓発なんて、いつまでやるつもりなの?「いじめ」問題にしろ、何も変わんないじゃない‥‥という指摘があります。積極的に関わりを持とうとしないでいるとそう思えるかもしれませんが、人権問題解決に向けた様々な取り組みが生まれてきているのも事実です。たとえば子どもの権利条約第19条には「虐待」を禁止する国内法の整備が謳われています。「子供の権利条約」の新しいところは、物理的な暴力にとどまらず、精神的な攻撃やわいせつ行為さらには育児放棄や怠慢についても言及してあるところです。当然、児童虐待防止法にもそのことが触れてありますし、同じような広がりが高齢者虐待や障がい者虐待についても言及されることになります。

 法的な整備以外にも、たとえば1985年に森田ゆりさんによって日本に伝えられたCAP(子どもへの暴力防止プログラム)は、すでに国内で130以上の組織へと発展しておりますし、そのほかのアクションとしてはたとえばホームレスの自立を支援する「ビッグイシュー」の活動が日本にも起こっていますし、知的障がい者の自立を支援するNPOも少なくありません。

 行政内部にも熱心な指導者は少なからずおられますが、行政の守備範囲を超えて行動せぬまでも、一個人としてはもう一歩外側にまで目を向けて欲しい思いが私にはあります。たとえば人権問題に関して国連の動きにまで目を向けている人のなんと少ないことか。時事問題でも、冤罪事件などは人権問題の最たるものですし、人権という概念が「人間である」ということだけを条件に成立するならば、そのことと矛盾する「死刑制度」をどう捉えるべきかなどと考えねばならない課題は山ほどあります。

 そういう人権課題の中には行政として手を出しにくいものもあるかもしれません。しかし、少なくとも関心を持っておく必要があると考えます。人権という普遍的文化を構築していくためには、国内法の有る無しで業務に該当するかなどという狭い了見ではなく、せめて国連並みの感覚は持っておく必要があると考えます。
 定年退職まで残すところ3年半となりました。今年の12月で57歳になります。最近、読んでいる本に松本サリン事件被害者の河野義行さんの「今を生きるしあわせ」という著書があって、同書のなかで河野氏が、「死は生の先にあるのではなく、生のすぐ隣にあるのだ」という内容のことを述べておられましたが、死についての確かなイメージを持っておられることに、尊敬の念を抱いています。

 河野義行さんはそうした確固とした死生観をお持ちだから、松本サリン事件のときに被害者であるにもかかわらず、容疑者として警察から追求されたり、マスコミ各社から誤った情報を流されたりした時にも、判断を誤らずに家族一丸となって耐え抜くことができたのだと思います。つまり、死生観がしっかりしていれば、大局的に物事が見えてきて、非現実的なお伽噺の世界と現実的な仕事上の話題や政治経済の話などが対等のものとして同じ地平線上に見出すことができると思われるからです。そればかりか、元オーム真理教信者やマスコミ関係者とも趣味の釣りなどを通じて親交を深めるという、信じられないくらいにプラス思考で物事を考え、また自分自身を信頼することが可能となったことでしょう。

 このような方のことを世間一般に使われているような言葉で表現しようとしても、言葉の方に手垢がついて新鮮さを失っているために、うまい具合に表現できないもどかしさを痛感してしまいます。すべてのことが河野義行さんという個人の中で、いろんな喜びや愉快さや好奇心を生産しながら循環し、他人の目には何が始まりでどこが終わりかも見当がつかないという、実に進歩的で自立した新しい生き方をされているように思います。

 また、河野義行さんという方はすぐれた人権感覚の持ち主でもいらっしゃいます。まず、自分自身の考え方や生き方に誇りを持っていて、しかもその自尊感情はたえず時代の変化に即応しながら拡大再生産されているように思えます。それを支えているのは、しっかりした権利意識であろうと考えています。
 さらに自分に与えられた「自由」は、徹底して楽しもうとします。

 人権というと非常に堅苦しいものだと考える方が少なくありません。しかし、人権とはほかならぬ私やあなたのためにあります。現に河野さんのように、人権についてしっかりした考えをお持ちであってなおかつ自分の人生をエンジョイしている方がいます。人権という普遍的文化が構築されることによって、私たちの暮らしは間違いなく豊かになり、自分の生き方を生きることが容易になってきます。

 河野義行さん的な生き方fは、定年後の私自身の参考になるとともに、日本人の新しい生き方のように思えます。

 「国民の生活が第一」(小沢一郎代表)の政策がおおむね民主党の2009年のマニフェストをどの程度踏襲するかはまだ明らかではありませんが、私は小沢色が鮮明になることを期待しています。小沢色の特徴の一つに、国連との協調路線があります。

 

 たとえば、日本は国際人権規約をはじめ、多くの人権関連条約に批准しておりますが、その割に現実には人権があまり保障されていないという側面があります。条約を批准しますと、たいていの場合、条約の各条文に従い国内法を改正する必要が生じてきます。しかし、完全な批准はせずに、肝心なところで一部留保をしているとか、児童の権利に関する条約のように、国連から是正勧告があっても従おうとせず、勧告が3度に及んだ事例があります。

 

 国連規約人権委員会が日本に対して勧告している例として、第一選択議定書の早期批准、国内法では救済されない場合がある個人による通報制度の整備、人権侵害の申し立てを受ける独立機関の設置、「公共の福祉」の厳格な定義などがあります。

 

 現代日本人の特徴として、災いが自分の身に起こるまで「他人事」と認識するため、普段からあまり深刻に考えなかったり、連帯意識が欠如していたりします。それに輪をかけて、マスメディアの論調は善悪の二者択一論で批判・評価を行おうとする体質があるように私には思われます。そのためか、総じて人権に関連した条約や法律のニュースにはあまり関心を示しません。テレビの報道番組を見ていても経済部や社会部の解説者は出てくるけれども、人権に関する分野が議論されること自体少なく、人権や憲法の解説者が出演することも滅多にありません。専門家が内部にいないのではないでしょうか。こうしたことの影響もあってか、日本においては人権に関する意識が希薄であり、軽視する傾向があります。

 

 ところが、たとえば冤罪が日本で起こる背景には、人権関連条約が国内法に十分生かされていないという問題があります。そもそも、国内において、人権がこれ程軽視されている理由はなんでしょうか。逆に言うと、私はなぜ人権という問題をこれ程重視したがるのでしょうか。

 

 国内において、国連の勧告を無視してまでも、人権を軽視する理由は、検察や他の法務省官僚が国会議員にも睨みを利かせることで国会議員よりも優位に立ち続け、暴力的言動を認めさせることで人権思想を骨抜きにし、一方、民主党の分裂と司法制度改革で労働組合(連合)と日弁連とを無力化していき、制度的にも精神的にも日本国民に「ノー」という選択肢を与えず、マスメディアに洗脳されて自分の頭で考えることをしなくなった、どの様な政策でも受け入れる愚直な日本人を生産していく事ではないかと思います。

 

 次に、私が人権という問題をこれ程重要視したがる理由はいくつかありますが、最も大きな理由は、戦争やテロを体験したくないからにほかなりません。つまり、私は人に殺されたくもなければ、人を殺したくもない。特定の人々や民族に征服され、命令され、監視されたくないし、特定の人々や民族を征服し、命令し、監視したくもない。飢えや病気や貧困、略奪、暴力が支配する世界に身をゆだね、疑いと裏切りに満ちた毎日を送りたくもないし、恐怖よりも希望を、憎しみよりも感謝の日々を送りたいからです。

 

 憲法9条ばかりが議論されますが、世界人権宣言にもある通り、「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし」たのであって、基本的人権の各条を守り抜くことによって平和を維持することも考えるべきであると考えます。今の国会議員はそのあたりのガードが甘すぎると思います。

 

 小沢一郎氏は、自分のためというよりも国民のために、検察改革に臨むと思います。個人的には、検察と遣り合うのはこりごりだと感じているかもしれません。辻恵議員と階猛議員には要注意です。小沢一郎氏のもとから離れていった両議員を検察は何らかの方法で利用しようと考えないでしょうか。

 平成12 年12月6日に公布・施行された「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」は日本において人権教育や人権啓発を同和対策終了後も引き続き実施することの根拠となっている法律ですが、私なりに疑問に思う点がいくつかあるので、問題提起していきたいと思います。以下の法律条文の引用において、下線部分は筆者によるもの。
第一条  この法律は、人権の尊重の緊要性に関する認識の高まり、社会的身分、門地、人種、信条又は性別による不当な差別の発生等の人権侵害の現状その他人権の擁護に関する内外の情勢にかんがみ、人権教育及び人権啓発に関する施策の推進について、国、地方公共団体及び国民の責務を明らかにするとともに、必要な措置を定め、もって人権の擁護に資することを目的とする。


 まず、第一条において、下記のとおり、国や自治体と国民とが「責務」という言葉で一律に論じられている点であります。「責務」という言葉は同和対策審議会答申でも使われており、耳新しい表現ではありませんが、国や自治体の義務と国民の権利とを区別せぬまま論じているために権利義務関係があいまいになり、ひいては内容が分かりにくくなっております。


(定義) 
第二条  この法律において、人権教育とは、人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動をいい、人権啓発とは、国民の間に人権尊重の理念を普及させ、及びそれに対する国民の理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動(人権教育を除く。)をいう。


 たとえば、第二条の条文を読んで、何の抵抗もなく人権教育と人権啓発との違いが理解できる人は少ないのではないでしょうか。その原因は、国民の権利という概念があまりにも軽視されているということに尽きるような気がします。
 もともと憲法は、国の最高法規である以上、行政や司法はもちろんのこと、国権の最高機関である立法府に対しても制限を強いることができ、その制限を国や自治体が侵したときいわゆる「違憲」という問題が生ずるということになろうかと思いますが、「違憲」というところまではいかなくても、立法行為は憲法に定めた基本的人権を軽視することなく進めてもらいたいものであります。えてして、国は違憲でさえなければ立法行為は自由とかんがえがちでありますから、国民の基本的人権も「尊重」されることはむしろ少ないようなkがします。
 たとえば、この条文にせよ、人権教育を国民の権利という視点からとらえ、人権啓発を国や自治体の義務としてとらえたら、案外すっきりと理解できるのではないでしょうか。日本においては「教育」というと明治以来推し進められた富国強兵政策に代表されるように国策というものがまずあって、しかる後にそれが結果的に各個人を潤すものとしてイメージされがちですが、国際的にはeducationとは個人の幸福とよりストレートに結びついたものとして理解され、そこから学習権という権利の概念が生まれていったのではないかと思います。日本においては受験や将来のためとして、むしろ大人たちが子どもを追い込むイメージとして「教育」がとらえられているのに対して、諸外国では日常の生活に明日からでも役に立つものとしてEDUCATIONがとらえられている、そういう文化的な違いがあると思います。
 話を元に戻しますと、「人権」という本来各人にとってかけがえのない、自分の幸福と切っても切れない概念が、この法律ではやたら国民に責任と義務とを押し付ける窮屈な概念として位置づけられ、広がりが持てないような気がいたします。
 
 さらに悪いことには、これでは国家による個人への権利侵害、たとえば冤罪とか違法捜査、ひいては死刑制度や戦争などに対して全く無防備な「人権」へとコントロールされる可能性があり、まして裁判員制度や検察審査会、原発などで疑問点があらわになりながらも、そういうことに関して人権問題としてとらえない傾向があるのは残念というよりも恐ろしいことであるし、人権を身近なものとしてとらえる機会をみすみす逸しているといわねばなりません。

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