よっしー本店

ブログ名を再度変更しました。

人権一般

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

長いものに巻かれても

 なぜか最近へこむことが多い。55歳にもなっていて、人生に自信が持てるどころか、まるで逆で、漠然とした不安感に包まれてしまう。パーキンソン病のせいもあるだろう。しかし、それよりも大きな要因として、15年も前に体験したパワー・ハラスメントの後遺症がときどき私を根拠のはっきりしない不安へ導くのだ。二度と体験したくない世界だし、パワハラの根絶に自分が役に立ちたいとも思うのだが、気がついてみると私自身が人を過剰に攻撃していたりする。いったい私は何をやっているのだ。私の人権意識はかように脆いものなのか。
 
 人間とは弱いものだということが齢を重ねるにつれ、ますます身にしみてくる。私はこのブログでたびたび検察やマスメディアを批判しているけれども、それぞれの個人は弱いものだと思う。つまり、私がそういう立場にあったならば、きっと改革などできずに、長いものに巻かれてしまうだろう。しかし、これだけはいえる。長いものに巻かれはするが、心の整理がつかずに苦しむだろう、ということだ。
 
 今の検察やマスメディア、あるいは政治家の中にも苦しんでいる人たちが少なからずいるだろう。野党時代には精彩があった菅直人氏も例外ではなかろう。そういう個人もサイクルの中にいれば自然と歯車を回しているのだ。問題は誰がどうということではない。歯車そのものを解体することにある。
 
 私の場合、こういうとき妻や子どもたちの存在そのものが癒しになっているし、ときにはささやかだが勇気をもらったりもする。これは家族員それぞれに最低限の人権意識と思いやりがあったためだと感謝している。みんな、それぞれ家族があり、癒し癒されているのだろう。本来、敵も味方もないはずなのに。

人権は個人を護る

 しばらくの間、自分自身に迷いがあったため、ブログの書き込みを中断しておりました。まだ、完全に迷いが払拭できたわけではありませんが、‥‥というよりも、迷いの中にいればこそ見えてくる道理もあると思いまして、また書き込みをはじめたいと思います。
 迷いの中心は、人権、人権といいながら、自分本位の尺度で考えているのではないかとの自分自身に対する疑いです。このような文章を書くこと自体、自分に対する弁護が目的化してしまい、客観的な姿勢で書くということは期待できそうにありませんが、そんなこと当たり前だといってしまえばすむことかも。
 
 人権とは何に対するどういう権利かということは個人差があって一概には言えませんが、人権の定義を探すよりも人権侵害として公に認められた事例で縁取りしていった方がイメージが明らかになると思います。
 平成13年度に出された人権擁護推進審議会答申では、おおきく差別、虐待、公権力による人権侵害、マスメディアによる人権侵害やその他のメディアを利用した人権侵害、そのほかの財産権の侵害等という類型化をしており、かなりかぶった部分もありますし、対策の提案には司法制度改革審議会にゆだねた部分など相当限界が見られますが、国の設置した機関がおこなった例示それ自体としては結構枠組みが広いのかなと思います。これに死刑制度に関するものや武器の製造等に関するものなどを加えれば国際基準に近いところまでいくのではないでしょうか。
 
ところで、人権を守ろうと私がいう前提には、個人というものは弱いからという前提があります。それは国家対個人、集団対個人あるいは個人対個人の場においても言えることで、私たちが自分の身を守るのに必要なことをすべてゼロから訴訟の場で争うことは不可能でありますし、人間が長い歴史に中で確認しあったことをルール化して文化として積み上げていくことが必要だと思います。
 
しかしながら、人権というテーマが多数決の論理の例外として文化的に認知されていくためには、逆説的ではありますが、できるだけ多くの人たちにとって共通のテーマとなる必要があります。その意味で、「人権侵害」が「差別問題」としてのみ捉えられることには限界があったような気がします。そこで提起されたのは、差別問題を他人事とするのではなく自分の問題として捉えるという想像力の育成でした。けれども、乱暴な言い方をするなら、自分の問題として捉えるか否かも「良心の自由」として防御されざるを得ないという壁に突き当たったのです。そこで行政は、「思いやり」という倫理的規準に方向性を見出していったのですが、今の世の中、行政がいくら「思いやりの心を」と訴えたところで、そういう「上から目線」に応じる人がどれだけいるでしょうか。そこはやはり、市民に自分のこととして捉える想像力を期待するのでなく、自分のこととして認識するための情報提供へと行政自身の変革が必要であったのです。その意味で、国連の動きは国内の動きよりもずっと先をいっており、「人権教育の国連十年」のアクションが与えた影響は小さくなかったといえます。
 
いま、行政の人権侵害の認識は前述した平成13年の審議会答申においてさえ冤罪やマスメディアの在り方に言及しています。セクシャルハラスメントはもちろんのこと、職場での嫌がらせ(パワーハラスメント)や精神的な嫌がらせ(モラルハラスメント)も人権侵害の事例として大きくクローズアップされてきました。パワハラでは、厚生労働省が労災の認定基準に平成21年度に新たに加えられたことが労働組合の取り組みに繋がるなどしており、モラルハラスメントについては、これまで「いじめ」や「嫌がらせ」という表現で外面的な捉え方でしかなかった研究が内面的な分析が整うことによって新たな段階を迎えようとしています。人権という概念が国内においてもいよいよ国民全体のものになりつつあります。
 私は理想的なことばかり書いていますが、自分の日常生活がそのとおりいっているわけでは勿論ありません。ですが、理想に近づきやすくする工夫はできるだけ惜しまずにやっていきたいと心がけています。
 今の社会にかけている「思いやり」。思いやりのある人、ない人で線を引くと極端に言えば神様、仏様のような人物か、冷淡極まりない鬼のような人物のどちらかしかいなくなります。人間というのはそんなに簡単に色分けできるものではないと思いますよ。誰だって、何歳になっても、上手くいくときもあれば、失敗してしまうときもあります。思いやりって誰でも潜在的には持っていると思います。思いやりある行為に助けられた経験を持っている以上は、だれでもそれがいかにありがたいものであるか学習済みのはずです。
 大事なことは、思いやりがあるかどうかを見極めることではなくて、思いやりをいかに引き出すかということ。引き出す方法に照準を合わせたほうが、余程建設的です。シラケてみせるんじゃなくて、歓迎する心。呆れてみせるんじゃなくて、支援する心。
 同じことは、人権意識でも同じです。ある人に人権意識が欠けているといってしまえば、ご当人の問題として匙を投げているに等しい。呆れるのは簡単なことですが、何も生み出しはしません。そればかりか、「私はあの人と違うんだよ」ということが言いたいがために回りくどく演出しているにすぎないような気さえしてまいります。
 ある人の欠点が気になって仕方がないときってありますよね。「あの人は嫌い」と思うと、お互いストレスがたまります。そこで、人間ごとに色分けするのでなく、時間で線を引くとどうでしょう。「今のあの人は嫌い」とか「昨日の彼は良くなかった」という具合に考えることで、人間関係がいわゆるクロス・エンドにならないですむわけです。人間は変わるもの、可能性を認め合うことで、自分の気持ちも暗くならないですむのではないかな。
 誰しも自分の殻を破って行動するのは難しいことだと思います。そんなとき周囲の人たちが、批評したり評価したりするような態度だったら、ヤル気をなくしてしまいますよ。社会全体が何か批評的態度、評価する側に身をおいた態度になりがちな今日、そうではなく勇気を引き出しあい、育ちあう関係こそ尊いような気がいたします。
 
                                           〈よっしー館 2007年12月16日 (日)より〉
 かつて、人気アニメ番組「ちびまるこちゃん」で、確かこういうのがありました。○○が、何かの弾みで言った言葉に尾ひれがついて、大騒ぎとなり、○○が嘘つきだと皆から責められる羽目になります。そこで、主人公のまるこが○○をかばって、「みんな○○をひどい人間みたいに言うけど、誰でも小さなウソをついたり、自慢話が高じてオーバーに言ったりしたことって、なかった?正直言うと私はある。だから、私も同罪だ。」と言って、泣きじゃくります。すると、ひとりが「俺もある」、またひとりが「私だってある」という具合に、次々に告白していき、ついにはそこに居合わせた全員が同じ罪を背負いながら○○だけを悪人呼ばわりしていたことに気がつきます。
新約聖書の中にも似たような場面がありますが、人間を生身の存在として捉えていくことで、「連帯」をとりもどすという「ちびまるこちゃん」のこの場面は、圧巻でした。
 
私たちは、ひとりの人間のひとつの発言や行いを見て、その人間全体を判断するという愚をおこしがちであります。しかし、わが身を振り返ってみれば明らかなように、誰でも小さなウソのひとつ二つはついたことがある一方で、勇気を振り絞って何かをやってのけたこともまた有るに違いありません。いずれの自分もまた本当の自分なのです。
ところで、人間は臨終にいたるまで成長過程にあるというのが私の持論で、自己の成長を含めた幸福追求の権利はいかなる社会的弱者にもひとしく保障される必要があります。この「ひとしく保障」というのは「同じ程度に」という意味ではなく、「一人の例外もなく」という意味でありますが、日本においては、しばしば後回しにされており、こういう施策の実態こそが「人権」という文化が根付かない最大の原因ではないでしょうか。
 
ハナシをもとにもどします。人間は、集団の中にあって、その集団がバランスよく成立するように、常に誰かによって役割を補足しあっているといいます。つまり、積極的に集団を束ねようとする人間Aがいて、他のメンバーはひたすらその恩恵にあずかるか、もしくはAに批判的のいずれかの態度をとっていたとしましょう。あるときからAがこの集団を外れることになりました。すると、いつのまにか残りのメンバーからBAに代わって集団を束ねるという役割を演じるようになると言われています(出典は不明ですが、体験的にも頷けるものがあります)。こうして、集団に変化が起こるたびに、その構成員も何がしかの変化を遂げます。さらには、集団そのものをいくつか体験するうちに、個人の立ち居地が微妙にあるいは劇的に変化していきます。常々消極的という評価を受け続けていた人物が別の集団ではリーダー的な存在となるかもしれません。
 
人間はこのように変化するなかで、別の人物の変化を見届け、変化と変化とが交錯するなかでコミュニケーションを、すなわち「違い」の中に生き合う旅人同士としての距離を学ぶと同時に、時折見せる表情の中に同じ人間としての鼓動や体温を学ぶのであります。
このコミュニケーションに関する二つの要素は、「連帯」という動きに発展する中で次のような2つのベクトルに言い換えることもできます。
 
長いものに巻かれない自由と、
たとえどういう状況に置かれようとも
人間として愛し愛される権利。

 「性格」という言葉を辞書で引くと「行動のしかたに現れる、その人に固有の感情・意志の傾向」とある。また、「性格異常」や「性格検査」という言葉にも表れているとおり、この言葉には、集団が、社会が、あるいは国家が、個々人を掌握し管理しようという意志が感じられる。アドラー心理学ではこの概念をきっぱりと否定する。

 こういう概念は幻想というより、迷信に近い。ある性格の烙印を押され、さらに性格は変えようがないという無言の圧力の前に可能性を見出せずに苦しむ人々が少なくない。この事実が、社会をいたずらに混乱させている俗信、すなわち迷信であることを物語っている。そして、CHARACTERに対するこの誤った翻訳がもたらした日本語としての欠陥は、修正されるどころか「性格判断」という形でメディアなどからもてはやされることによってさらに頑迷さを増してきている。

 性格という言葉のもたらす排他的な側面を推し進めていくと、日本的な諸問題に突き当たる。男女間の不平等、高齢者や外国人に対する偏見、冤罪を生み出す国民性、人間関係の急激な冷え込みに繋がるとともに、これら将来に希望を見出せないなかにあって教育現場での混乱とも無縁ではない。

 アドラー心理学では「性格」ではなく「ライフスタイル」という言葉を用いる。その人の「ものの考え方」が行動や感覚を逆に支配しているというものだ。ものの考え方を変えてみれば、行動や感覚はあっけないほど簡単に変わる。このことが分かれば、いかに「性格」という概念がいい加減な代物であったかが分かる。

 逆にこのことを悟らない限り、「性格」を変えるのは確かに難しい。その理由は何のことはない、変わりにくいものという意味合いを込めてこのコトバが製造され、前近代的な国家権力ならびにメディアによって、個人が自己を振り返る暇も与えず我々の社会の中にあまねく敷き詰められているからに過ぎない。そして、その対処法は、この「性格」というシロモノを信じないこと、これに限る。そのための「良心の自由」ではないか。


2008.2.3.よっしー館「『性格』というレッテルを跳ね返せ」(http://www.geocities.jp/yossie_70/yj_seikaku.htm )より

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
よっしー本店
よっしー本店
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事