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人権一般

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 最近、血液型のことでひとりで勝手に盛り上がっています。血液型性格判断に対する私の態度は、当初はどちらかといえばハマってました、ホントいうと‥‥。今ではむしろ否定的立場。もっとも、私は学者ではないので、それが全くの出鱈目であるなどと証明する力はありません。それどころか、ABO式血液型は単に赤血球だけの話ではなくて、全身の組織、細胞や分泌液にまで型物質が分布するものであるから性格形成にも当然大きな影響力を持つなどと言われると、へぇ、そんなもんでっかーと、うっかり納得してしまいそうになります。しかし、本当かウソかという以前に、いずれにせよ例外なしということは考えられない以上、最終的に自分の目で人物評価するしかないということです。

 アドラー心理学では、「性格」という概念をほとんど採用しません。その代わり「ライフスタイル」という言葉を一般に使われているよりもずっと広い概念として使っています。性格といってしまったときに可能性を否定したような言葉の響きを感じませんか? いちど性格判断に頼っている自分自身を逆に「成熟度」判断してみましょう。もし、あなたがこのような性格判断にどっぷりと浸かっているとしたなら、あえて私は次のような判定をいたします。まず第一に、先入観や偏見なしで、すなわち自分の感性にモノをいわせて相手を見るのではなくて、予め権威のありそうなフィルターを通して見ようとする生活姿勢は、まだ主体性が充分に確立していないことを示しています。

 第二に人間には可能性がいっぱいあるにもかかわらず、さきほども申し上げたように「性格」という言葉自体が「三つ児の魂」よろしく不変のものと考えられがちですが、人間性は変わります。変わることを信じきれたら、すなわち変わった後の自分のイメージが具体的でありさえすれば、人間性を変えることが可能です。それなのにアナタは「性格」という膠着した概念にこだわっています。これはアナタが自分自身の成長に関して消極的であることを示しています。

 第三に、アナタと出会う人がアナタと出会ったことで成長したりなんらかのアクションをおこすかもしれません。しかし、当のアナタ自身はそういうところまで考えが及びません。これは、自尊感情の低さを表しています。自尊感情が低いと幸福感を獲得できにくいと思います。自分を変えることはアナタが思い込んでいるよりもずっとたやすいことです。一念奮起、突破してみてください。

 以上がアナタの「成熟度」判断でした。毒にも薬にもならん性格判断より、ずっと具体的でオモロイですやろ?

 性格判断だけでも充分独善的なのに、そのアタマに血液型という一見科学的な、要はシロウトに反証がむずかしいだけの、それでいて日常的であるという要素がくっつくと、画一的な価値基準として定着してしまいます。しかもその内側には人間の商品化と排斥の論理が潜んでいると私は見ているんですが、いかがでしょうか。

 2003.3.12.よっしー館「血液型性格診断は他人のフンドシ」より(http://www.geocities.jp/yossie_70/yj_3.html )より

 裁判員制度に関して、ネット界では漸く批判が常識化してきたと感じている。少なくとも、2年前はこうではなかった。ある人々は「市民の司法参加」はいいことに決まっているという先入観によって、またある人々は私たちの主張に対して「何にでも反対する『わがまま』な人たち」という敵愾心にも似た偏見によって、そしてある人々は「そんな細かなことにケチをつけなくても」という楽観的な予断によって、私たちの前に暗雲のように立ちはだかった。しかし、幸か不幸か、この問題は基本的に国民一般を犠牲にする内容であったため、多くの人は自分の問題として捉え、熱心に尋ねてくださる方も少なくなかった。

 一方、私はといえば当初は勿論今でもそうであるが、憲法を専門に誰かに学んだわけでもなく、ただ13条が大好きでひそかに自分の信条にしているというだけのただのオッサンであったわけで、最初は反対論者の存在すら知らず、ひょっとして裁判員法が憲法違反だなどと戯けたことをほざいている輩は全国で自分だけなのではあるまいか、などと取り越し苦労といえばそれまでであるが、それはもう不安だらけであったのを思い出す。

 そのような中でヒートアップしていく自分を抑えきれず、社民党の福島党首をはじめ個人批判に傾斜した時期があったことを反省している。思えば、この問題に関しては、あくまでも相対的には、社民党と国民新党がもっとも信頼できる政党ではあった。そして、福島党首の姿勢もそれなりの誠意を見せたものであったに違いない。

 話があらぬ方へいってしまったが、裁判員制度については比較的ブログ記事に載せやすいテーマであったし、今後は国家的妨害でもない限り批判的意見は増え続けるだろう。これは、マスメディアの誘導に屈しないインターネットの良識が効を成しつつある側面である。


 しかし、かねがね私が気にしている部落問題や在日の問題は、進歩的な意見が飛び交うネット界においてすら著しく冷遇されている。いや、それどころかはっきり差別や排斥のターゲットとしている意見やサイトの何と多いことであろうか。これらの問題については、私ですら記事にしにくい。裁判員制度どころではないのだ。差別肯定論者や冷笑的な人々の圧倒的多数の前に躊躇する自分がいる。

 思えば、私も糾弾闘争に批判的であった時期があった。しかし、糾弾闘争が単なる不利益回復などではなく誇りとセルフエスティーム(「自尊感情」と訳されることが多い)の回復を射程に入れての闘争なのだと理解するに及んで、とても批判する気になれなくなった。誇りの回復、これが解放でなくて何であろう。在日が民族を取り戻そうとする視点も、「いじめ」にあった児童の自己正当性の再確認という視点も、DVによって奪われた誇りの回復も同じなのだ。つまり、ずたずたになっている自分自身をさらに自分で否定し続けるという「倫理」感そのものを突破しなければ道は拓けないという事実認識が全ての始まりであり、それは好むと好まざるとにかかわらず「闘争」を準備したものでなくてはならないという事実であった。大抵の者はそれに要する精神的エネルギーの膨大さを前にしたとき、一度は怯まざるを得ない。そして、誇りを奪う行為は、自白の強要とも重なるという視点――足利事件において、DNA鑑定という被疑者が抗弁できない事実(実際は事実とも異なっていたのだが)を突きつけて、菅家さんから誇りを根こそぎ奪い取り、ついにありもしない筋書きの前に頭をたれざるを得ない状況に追い込んだ、かの検察官と同じ過ちを私たちは犯していないだろうか――に立てば、菅家さんが求めているのもおそらく同じ解放なのだ。

 全国水平社創立大会の折の宣言文に「差別」という言葉は一度も出てこない。最も多く登場する言葉は「人間」である。彼らが望んだのは部落民の解放だけではなかった。人間が解放されること、私が「自由」という言葉を使うときのイメージとぴったり重なり合う。日本人が解放すなわち自由を勝ち取る日まで、粘り強くひとりひとりと出会い、助け合い、連帯していきたい。




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 裁判員制度に関してネットの世界では、1年前よりも否定的な見解が増えているという印象を私は持っていますがいかがでしょうか。いろんな人たちの努力で、この制度の矛盾と危険性が明らかにされ、理解する人が増えてきたように思います。しかし、やはりネット以外の世界では、具体的に我が身に火の粉が降りかからない限り、反対を表明するところまではなかなかいかないようです。オール与党化の上にマスメディアがこぞって推進的スタンスに身をおいていますから、なかなか反対とまで論点を整理することには情報源がとぼしく、現時点では「どちらかと言えば反対」どまりでありましょう。

 しかし、インターネット人口は増え続けるでしょうし、推進のスタンスの人が反対に転じることはありえても、ひとたびこの矛盾を理解した人たちが反対から推進へと立場を逆方向に変えるとは考えにくく、とくに冤罪問題がネット界でこれだけ関心を引く以上は、裁判員制度や公判前整理手続きに対して憲法問題と絡めて批判している人は、確実に増えてきていると思います。

 私が今回ぜひ押さえておきたいのは、何ごとも理解していくためには、時間を要するという点です。前にも書きましたが、性急な多数決はすべきではありません。ネット界ではまだまだ、死刑制度廃止に反対する意見、部落解放運動や在日外国人に対する無理解が根強く、だからと言ってインターネットを規制しようという考えには反対です。むしろ、ここを踏ん張りどころとして地道に解放に向けた意見交換を「道場」と名の付く以上は、積極的にしていきたいと思っています‥‥力不足ではありますが。

 同じ人間でありながら他の人間を先入観だけで排斥することのくだらなさ。まるで自分はこんなに了見が狭いのですよと言っているようなものであるし、このような差別の正当化は、私の人生はいつもこれくらいの壁すら突破できないできたのですよ、ただ圧倒的にこんな了見の狭い人間の方が多いから私達の方が正しいのですよ、ということの表現でしかないのであります。

 マスメディアのえげつなさは、人間のプリミティブなえげつなさそのものであって、それを組織として凌駕できずにいるのは、少数意見がことごとく無視され、個性が尊重されない社風が幅を利かせているに違いません。日本のメディアがやっていることは、えげつない組織がえげつない視聴者とのキャッチボールを繰り返すことで、それが常識であり、良識であると勘違いしていくことで、外からの空気が入ってこない閉塞状況は、最高裁と同じであります。

 世界人権宣言の第一条にこうあります。

  ――――――

 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

  ――――――

 私がこの文章に感心するのは、「平等」という言葉の使い方であります。「尊厳と権利とについて平等である」の中に表現される平等とは、権利のひとつとして理解されているのではなく、人間を理解する際の大前提として捉えていることであります。「人間であればひとりの例外もなく尊厳の対象であり、権利の対象である」という意味であろうと思います。そして、全ての人間が、「生まれながらにして」自由であることの意味をかみしめたい思いであります。これを実現するために、人間のあらゆる知恵をもって臨みたいところでありますが、日本に生まれ育った人たちでありながら、「生まれながらにして自由でない」人たちがいます。

 例えば、定住外国人の中には日本国籍がないために、さまざまな権利の枠外におかれている人たちがいます。人間の自由と平等を獲得していく歴史を見たときに、参政権が大きなバネになることはいうまでもありません。それは、自らの問題を振り返り、社会をよくするアクションに参加する権利であります。これが認められないとなると、一方的にほかの人たちが決めたルールに従わなければならなくなります。さて、生まれながらにして国籍の壁を体験することのないわたしたちは、このことにもっと敏感でなければならないと私は思います。

 また、テレビで「世にも不思議なコワ〜イ話」をやっています。私の考えは極端であるかもしれません。しかし、この手のハナシはそれがどういう効果をもたらしているかというところから逆算して考えると面白い仮説が成り立つのです。「祟り」とか「亡霊」に限らず、たとえば動機のよく分からない殺人事件とか、北朝鮮の脅威とか他民族の脅威という形で、得体の知れないものに関しての情報はいったい誰が必要としているのかというものの見方に徹することには、私なりの動機があります。それは一時期、柳田國男の民俗学という学問分野に関心を持った成果でありますが、得体の知れないものなど存在しないという確信に由来しています。

 仏壇を例にとってみましょう。大正生まれの母親に「母さんが子どもの頃、仏壇というものはあったの?」と聞いてみたことがあります。仏間という部屋はあったけれども、仏壇はなかったんだそうです。だから、仏壇というシロモノが普及していったのは、たかだかここ数十年の歴史でしかないのです。仏間というものの歴史がどの程度のものか知りませんが、柳田流に考えると衣食住に関するその時代時代の様式と密接に関係していたであろうことは明らかですから、所詮はスパンの問題でしかないのです。
 たとえば必要以上にデッカイ仏壇は邪魔になるだけではないのかという、素朴な疑問が私にはあります。しかし、でっかさが信仰心の証であるという考えがいつのまにか一種の縁起として罷り通っています。だからこそ、邪魔にこそなれでっかい仏壇が商品としての価値を持ったわけです。

 誤解のないように言っておきますが、私は仏壇が好きです。仏壇にお供え物をするときや線香を上げるときに得られる一種のふるさと感を大切にしたいと思っていますし、故人との距離を確認する意味でも意義あることだと考えています。ただ、私はそれが実生活を送る上でも有益であればこそであって、「縁起」や「祟り」という観念を完璧に否定しております。したがって、仏壇は無くてもよければあっても小さなものでよいし、要らなくなれば処分すればよいと考えるものです。

 お墓にしたって、物理的には遺骨の上に墓石がのっているだけの存在であります。それが現在も生々しさを保っているのは、遺骨という身体の一部が原形を留めつつ埋葬されるという習慣が影響しているのではないかと考えています。これが骨という物体ではなく灰を埋めるという習慣であったならば様子が一変していたのではないかと‥‥。しかし、遺骨を納骨堂に納めてしまえば後は墓石だけの問題です。墓石もお金で購入した以上、商品に過ぎません。あとは「縁起」や「祟り」信仰を信じるかどうか。その信仰はどこに由来するのかを考えたとき、私らの年代ですと幼い頃に耳にした怪談話やテレビ番組、友人の体験談などのいわゆる「外部情報」が全てでありました、私の場合ですけれども‥‥。

 それでは、霊感の強い人というのは嘘つきなのでしょうか。いいえ、確かにその人にとっては霊が「見え」たり、言葉が「聞こえ」たりするのは本当だと思います。ただ、それが「事実」であるかどうかということは全く別問題であるということです。霊が見えない私にとっては見える人のことが一種の幻覚や共同幻想の所産のように映り、見える人にとって私のことが霊感の弱い人のように思えるのはやむなきことであります。結局、どちらが上から目線に立っているかというだけで、何が事実かということは、確認しようがないことなのです。問題はどう考えた方がその人にとって有益かということだけであります。

 ここで全く話題を変えて、今度は「コワ〜イ話」ではなく「コッケイな話」に。今度は、なぜオナラはおかしいのか、いやオカシイといっても下品だと理解され、失笑の的にされますね。でも、誰でもするわけでしょう? 誰でもするのに、失笑し合い、あるいは我慢しあうというのはなぜなのでしょうか。

 あるいは、スケベのことでも結構です。なぜ、裸に興味を持ったらイケナイのでしょうね。ほとんどの人は興味あるし、逆にイケナイから陰湿化したり暴力化したりするのではないでしょうか。あるいは、ほかのコミュニケーションにも微妙に影響してくるのではないでしょうか。愛とか恋とかの話題を妙に避けたり、性教育が進まなかったり‥‥。

 私には「コワ〜イ話」も「下品でコッケイな行為の話」も「スケベな話」も同根のものに思えるのです。ほかにも必要以上に「礼儀」を重んじる話なども‥‥。これらは、私たちの連帯を阻むものとして、生活と密着する形で敷き詰められているとは思いませんか。私は十代の頃寮生活をしていたのですが、寝食をともにしているとこの辺の垣根が取り払われて同じ人間だということが実感された経験があります。

 いつの時代にこれらが民衆を差別と憎しみ合いとに誘うよう仕掛けられたのかは分かりませんが、私は大昔から権力者というのはすごく頭がよくて、しかも民衆をコントロールする方法というのは代々秘密裏に受け継がれてきたという具合に考えておりまして、その蓄積たるや想像を絶するものがあるのではないかと疑っているのです。荒唐無稽な話と思われるでしょうが‥‥。

参考記事
http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/27955812.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/7142118.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/14678224.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/29993774.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/yossie_70/11480230.html (コメント部分を含めて)



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