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昨日、大阪は日本三大祭のひとつ、天神祭がありました。 天神祭といえば花火。 今年も花火を1発、天満宮に奉納しました。 天神祭の日は僕の誕生日でもあるので、1年を無事に過ごせたことへのお礼と、次の1年も平穏に過ごせることを願って奉納するようになりました。 協賛金は例年1発5,000円なんですが、今年に限って5,500円。うち500円が東日本大震災の復興資金として被災地へ届けられます。ここでもまた東北の支援ができました。 花火を奉納すると、記念品として花火玉のレプリカ(協賛金の金額によって大きさが違います)がいただけます。 いただいたのは三号玉。ソフトボールくらいの大きさです。 この三号玉が打ち上げられると、上空では半径70mの大きさに開くそうです。すげぇ。 奉納も今年で3年目なので、わが家にはこのレプリカが3つあります。 昨日の会社帰り、電車から天神祭の花火が上がるのが見えました。
もしかしたらあれが僕が奉納した玉だったのかも? |
天神様巡り
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本殿にお参りする前に目が止まったのが、左右の瑞垣。長年の風雨にさらされてところどころ折れたり欠けたりしていますが、見事な松竹梅の彫り物がほどこされた瑞垣です。作られた当時は彩色もされていて、日光東照宮みたいだったのではないでしょうか。 それでは本殿にお参りしましょう。 こちらも瑞垣同様、彩色もはがれて傷みが激しいですが、ところどころに彫刻がほどこされた見事な社殿です。左右には木造の獅子・狛犬も据えられています。 そして裏に回ると「獅子の子落とし」 この社殿がいつ建てられたのかはわかりません。が、醍醐といえば太閤秀吉に所縁のある場所、桃山文化の花開いた地でもあります。もしかしたら桃山時代の建築(あるいはその頃の彫刻を再利用して建てられた?)なのかもしれないです。 この長尾天満宮は天暦3年(949)に創立、文政4年(1821)に再建されたそうです。 参道の長い石段を上りきったところ、木々の間に醍醐寺の金堂が見えるところに「菅公衣裳塚」と呼ばれる塚があります。 菅公此の地(醍醐)に遊覧の折、聖宝尊師に曰く「吾薨する後、墓を此処に築くべし」と。其の後、延喜三年(九〇三)二月二十五日太宰府に於いて薨せられし後、使者を遣わし菅公の衣裳や遺物等を持ち帰り。 醍醐寺第一代座主観賢僧正は先師の約束を違えず墓を此の地に築かれた。 今、此の墓の上には宝篋印塔が置かれ、俗に衣裳塚という。 傍らの碑に「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」の歌が刻まれている。と由来書にはあります。 天暦3年(949)といえば醍醐寺の伽藍が整う頃(五重塔完成が同年のこと)です。道真公が生前墳墓の地に望んでいた、また菅公の衣服と遺物が太宰府から持ち帰られ埋められたという所縁の深い土地に天満宮を造営して怨霊をなだめ、寺の繁栄を願ったのでしょうか。 また、こんな創建由来も見つかりました。 現在の醍醐寺の金堂はもともと紀州の満願寺の本堂であり、豊臣秀吉が醍醐天皇の遺徳を讃えるために紀州から移築を命じたところ、その工事中に事故が続き、当時これは道真の霊の仕業であると考えられたことから、秀吉は高台に道真の怨みを鎮めるために天満宮を創建した。もしこれも事実なら、長尾天満宮の本殿にたくさんの彫刻がほどこされていることも納得できます。 |
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(もう1ヶ月以上も前になりますが)兵庫県高砂市の曽根天満宮を参拝しました。 菅原道真公が大宰府に向かう途中に立ち寄ったり泊まったりした地に天満宮が建てられた、というケースは数多くありますが、この曽根天満宮もそのひとつ。延喜元年(901)、道真公は大宰府に向かう途中、現在の曽根天満宮に近い伊保の港に船を泊め、日笠山という山に登って播磨灘の景色を楽しまれた、といいます。そして 我に罪なくば栄えよ と祈念して小松を植えられたといいます。のちに道真公の四男・淳茂公がこの地に社を建ててお祀りしたのが、曽根天満宮のはじまりだそうです。 参道を突き当たると、重厚な構えの門が建っています。この門、興味深い点がいろいろとありまして、そのことはまた改めて投稿したいと思います。 門をくぐると正面に拝殿がありますが、参拝の前に右手にある『古霊松』と書かれた額が掲げられた建物へ。 道真公が植えられた小松はその後立派に成長し「曽根の松」と呼ばれる名松となりました。しかし天正6年(1578)の豊臣秀吉による播州征伐の兵火で天満宮が焼失して以降衰弱し、江戸時代の寛政年間に枯れてしまいました。 その初代の松の幹が保存されているのがこの霊松殿です。金網越しに暗い建物内を覗くと、注連縄が張られた太い松の幹が見えます。 道真公ゆかりの「曽根の松」は初代が枯死した後も、実生の子孫が大切に育てられてきたのですが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまい、現在では5代目の「曽根の松」が霊松殿の裏手で育てられています。 それでは参拝。 こちらの拝殿、左右非対称です。「神様と相対するのは畏れ多い」という理由から中心線をずらして建物を配置する、ということは神社ではよくあること(実際、この曽根天満宮でも門と拝殿のラインは微妙にずれています)ですが、こちらもそういう理由なんでしょうか。 なかなか興味深い天満宮でした。 |
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その後、昌泰4年(901)に菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母・覚寿尼を訪ねて行く途中、四天王寺に参拝した後、この安居神社で休息(安居)したといいます。道真の死後、天慶5年(942)に村人たちが道真の霊を祀ったことにより天満宮となったそうです。道真はこれから赴く太宰府の方向をこのあたりから眺めたのでしょう。社殿が西向きに建てられているのは、そういう理由からなのでしょうか? ところで、道真が休息(安居)したから安居神社になったのなら、それまでは何神社だったのか・・・。 ちなみに、ここは大阪名物「おこし」の発祥の地でもあるそうです。 道真がここで休息していたとき、村人がもち米を蒸して乾かした「おこし米」を差し上げたのが、その起源だそうです。道真はそのお礼に菅原家の紋である「梅鉢」を与えたそうで、それ以来、大阪名物の「粟おこし」の商標には梅鉢の紋が使われているといいます。 またこの神社は、大坂夏の陣で徳川方に討たれた真田幸村の最期の地としても知られています。境内には「真田幸村戦死跡之碑」が建てられていて、花やお酒が供えてありました。横にある幸村の銅像は最近つくられたようです。 で、この石段を下っていくときに目についたのがこれ。 この神社特有の鳥居の形なのか?と思いながら正面にまわってみて、その理由がわかりました。 「安居神社」ってわざわざ別に建てんでも、ここに彫るとこあるやん。 それに、ここのほうがよう目についてええんちゃうか。 なんていう大阪人の合理主義でこんな鳥居になったんでしょうか。
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