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長い夏休中、水泳指導で真っ黒になった田沼先生は、汚れきった愛車を初めて洗車した。貯めておいた四ヶ月分の給料と夏のボーナスを頭金にして、念願のスカイラインを手に入れてから一ヶ月がたっていた。
熱い日ざしの中、水の冷たさも気持ちがよく、車が輝いていくのを見て、「ようやく夏休みだ」と言いながら、口笛を口ずさむほど上機嫌の田沼先生だった。きれいに水滴をふきとった後、二階の部屋にもどり、区水泳大会の速報を見ていたときだった。
一階にいる母親から、「お客さんよ」と声がかかった。
土曜日の午後だったので「だれかな」と言いながら、階段をおりていくと、聞き慣れた何人もの声が玄関の向こうから聞こえてきた。
ドアを開けると、「こんにちは」と神尾の明るい顔がそこにあった。
神尾の横にいた井能が「家庭訪問にきっちゃった」と照れていた。
突然のことだったので、呆気にとられていた田沼先生は、それでも「よく来たね。あがって」と言った。
スリッパを持った母親が、二人の後ろには内川や小西など数人がいるのを確かめて「そのままでいいかしら」とスリッパを片づけた。
どやどやと二階まであがりながら、聞こえてきた声に田沼先生は思わず笑ってしまった。
「あんないい車に乗っているわりには、家はでかくないな。」
「優しそうなお母さんで、よかった。」
「この絵のことだ、先生が話していたよね。」
会話にはなっていない。それぞれが思いついたことをかってに話しているだけだった。
田沼先生の勉強部屋に入ると、質問でも感想とも言えない話を子どもたちは続けた。
「タバコくさいな。先生やめたほうがいいよ、体に悪いから。」
「この机でテストの○つけをしているんだ。」
「これ、昨日の水泳大会の結果でしょ」と言いながら、井能が開いた。
「俺の名前が違っている。『上尾』じゃないって言うの」と、神尾が自分の記録をじっと見た。
教室で接しているのとわけが違って、自分の部屋で子どもたちといるのは、田沼先生にとってぎこちなさを感じていた。それでも、ようやく言葉をみつけて話し始めた。
「よく家が、わかったね。駅から遠いので迷わなかった。」
神尾が地図を見せながら、井能を指さして答えた。
「井能が地図で調べてあったから、あんがい簡単だったよ。」
「前から、井能君が『先生の家に行ってみようよ』と言ってたものね。」
と、今日の内川は言葉数が少ない。
神尾だけが、学校にいるときと同じ調子だった。
「水泳大会も終わって、先生もほっとしているだろうからってな、井能。」
どうやら井能が言い出して、神尾がみんなを誘ったようだった。気づかいを忘れていないと言いたかったのだろう。大人ぶっているところが、いかにも五年生らしい。
ジュースやお菓子をもって部屋に入ってきた母親が、テーブルに置きながら言った。
「何にもないですけど、召し上がって。オレンジジュースでよかったかしら。」
「すみません。突然来ちゃって」と、井能が学校では言わないようなことをしおらしく言った。
「いただきます」と神尾が飲み始めた。みんなも、お菓子に手をつけ始めた。
田沼先生は、七月の職員会議で休み中に子どもを校外に連れ出さないようにと言われていたことを思い出していた。もしも、事故が起きたら、責任を問われるからと言う説明だった。
(連れ出したわけではないし。呼んだわけでもない子どもたちが、家に来ただけだからいいよな。)
そんなことを考えながら、わざわざ訪ねてきた子どもたちのことが、嬉しくてしかたがなかった。
お腹を満たした小西が、机のわきの本棚を見て、
「えらいな、先生。まだ小学生のときの本を持っているんだ。」
と五年生の教科書を取り出した。
神尾は、めざとく表紙を指さしながら言った。
「違う、違う。五ー一って書いてあるじゃん。これは、先生用の教科書でしょ。」
塾通いで、へきへきしているだろう小西が聞いた。
「家で勉強するんだ。先生も、子どものころ勉強したの。」
「覚えてないの、先生のカンニングペーパーのこと。神尾君たちが、みんなに見せたじゃない。」
ふだんの内川にもどっていた。
「小学生のときに勉強したかな、覚えていないよ。今は、勉強しているか寝ているかのどっちかかな。」
学校の近くに住んでいた村田が「先生、帰るとき、いつも大きなカバンだものね」と言いながら、それを持ち上げた。
その中にあった『水泳指導のコツ』をみつけた井能が、めくり始めた。
「こんなのがあるんだ。」
と言いながら、飛びこむタイミングや泳げない子のアドバイスのページを読み始めた。
子どもたちにとって、先生の私生活を垣間見ることは、よほど楽しいのだろう。これといった用事もなく、家を訪ねてくるのは、それが目的なのかもしれない。それまでも、先生の家を訪ねる機会はあっても、近寄りがたい雰囲気があったに違いない。お兄さん感覚の田沼先生にそれだけ親しみを感じ始めていたのだろう。
たわいもない会話が続いた。田沼先生が学校でいるときと同じハーフパンツやポロシャツを着ていることや、教卓の上が乱雑なわりに部屋がきれいに片づいていることなどであった。
話すこともなくなったのか、神尾が突拍子もないことを話し始めた。
「先生、学校に行く用事はないの。もし、あったらあの車で行くんでしょ。」
「土、日ぐらいは休ませてくれよ。あ、そうだ。週案は書かなきゃいけないな。」
明後日から、二学期だということを思い出した田沼先生だった。
「まあ、明日でもいいか」と続けると、神尾のイタズラな目が、みんなを見回して
「にぶいな、先生。今、学校へ行ってくれたら、みんな車で帰れるのに。」
と、同意を求めた。
すぐに、「賛成です」と井能もいつもどおりの茶目っ気さをとりもどした。
田沼先生も、しかたがないなという顔した。
「わかったよ。でも七人も乗れるのかな。子ども三人で大人二人分だろ。あれ、七人は大丈夫かな。」
さすがに、算数が得意な村田が、計算をした。
「五人乗りでしょ。だったら、一人オーバーだよ。子ども六人で大人四人分だもの。」
「大丈夫。井能が小さいから、隠れていれば、見つからないよ。」
と、神尾が隠すように井能の上にのしかかった。
(歩いて帰させて、もしものことがあってはいけないものな。)
そんな言い訳を考えながら、前の座席に二人、後ろの座席に五人を座らせた。田沼先生も運転席に座り、シートベルトをしめたときに、見送りに出た母親が言った。
「子どもたちだからと言って、シートベルトをしなきゃいけないんでしょ。」
内川が「どうやってするの、数がたらない」とシートベルトをしめるまねをした。
「道交法違反になるから、やめとこう」と言う田沼先生に、「あーあ」と声をそろえるように、子どもたちが不満をもらした。
「しょうがない、みんなおりて」と田沼先生に言われて、出てきた子どもたちの人数を見て、母親が「よく乗ったわね、こんなに」と笑った。
しぶしぶ車のまわりに立つ子どもたちに、「駅まで送っていくよ」と言う田沼先生だった。
「今度、車を買うときは、三列のにして。」
と、神尾の図々しさに母親と田沼先生は顔を見あわせてしまった。
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