|
二月に入り、寒い日が続いた。インフルエンザの流行も一段落したが、風邪で休む子が毎日三、四人い
た。
朝、空気の入れかえをするために、教室の窓を開けていると、井能が声をかけてきた。「先生は、チョ
コもらえるの。」
突然の質問に、田沼先生は「どうかな」とあいまいな答えをした後、話を続けた。
「井能君は、もらいたい人がいるの。」
「うん、まあね」と井能も、あいまいだった。
「もらえるといいね」と深入りはしなかった。
一月の職員会議で、児童指導担当の池田先生からの提案があったからだ。
学校には食べ物をもちこまないという決まりがあるので、バレンタインデーの日にチョコレートをあげ
ることを禁止するという話だった。
そこまで、話し合わなくてもよいのにと思った田沼先生だったが、一年目なので昨年どんな問題が起き
たかわかっていない教師が発言すべきではないと考え直し黙っていた。わざわざ禁止であることを前もっ
て言うほどのこともないと思っていたから、井能の質問にあいまいな答えをしたのだ。
高学年になると、だれがだれを好きだとという話題はつきない。男の子にとって、好きな女の子からチ
ョコレートをもらえるかどうかは、この時期の最大の関心事なのだろう。
田沼先生も、五年生のときに、チョコレートをもらった経験があった。名前さえも、はっきり覚えてい
る。隣のクラスの田崎陽子から、下校のときに待っていて手渡されたことがあった。何も言われず目の前
にさしだされ、「ありがとう」と言った。部屋で、ていねいに包装紙を開き、小さなチョコレートを食べ
た。次の日から、廊下で会うことがとても照れくさかった思い出だった。
二月十三日の昼休み、教室のひだまりで、内川たち女の子が四人で集まってヒソヒソ話をしていた。教
卓の片づけをしている田沼先生に聞こえてくるのは、「ヤダー」「ヘエー」などのあいづちばかりだっ
た。
日にちが日にちだけに田沼先生は気にして耳をすましていると、「手作りチョコ」という言葉や「神尾
君」と話す声が聞こえてきた。女の子たちの話題に口をはさみたかったが金田先生から高学年女子の心理
の難しさを聞いていたので、思いとどまった。
学習発表会以来、女子の間で神尾の株があがっていた。本来なら神尾を助けた井能のほうが人気者にな
っても不思議ではなかったのに。
ところが、女心は難しい。内川によると、「水泳大会から、井能君はまじめになっちゃって」とおもし
ろみがなくなっているらしい。それに比べ、「神尾君はいつも明るいのに学習発表会のときだけは違っ
て」と女心をくすぐったようだ。
神尾は、そんなことにむとんちゃくだった。そうじのときに、
「先生、ないしょだけど。知っている、俺にチョコレートをくれると言う子が多いのを。今日、チョコレ
ートをつくるらしいんだ。」
どうやら、おせっかいな女の子が神尾に話したらしい。
「ヘエー」と田沼先生は言葉を濁したが、神尾が難題をふっかけてきた。
「隣のクラスでは、バレンタインデー禁止と言われたらしいんだ。チョコを学校に持ってきてはいけない
と金田先生が言ったんだって。でも、学校の外で、もらうのはいいんだよね。」
「学校の外だったら、だれもとめることはできないものな。」
と田沼先生は遠回しに、学校内では禁止だと伝えた。
五・六校時目、図工の時間だった。子どもたちに声をかけながら、迷っていた。
(「足並みをそろえてもらわない」と池田先生も言ってたしな。隣も禁止だと話しているんだから、明日
持ってきてはいけないと言わなきゃ。でも、知らん顔しておいてやるか。子どもたちだって、そうそう目
立ったことはしないよな。)
図工が大好きな井能は、夢中になって彫刻刀で彫り進めていた。題材名の「ときめくしゅんかん」にふ
さわしいサッカーのシュートシーンだった。何本もの彫刻刀を変えながら髪の毛の細かいところまで、て
いねいな線を表していた。少し彫っては、木くずをはらい遠目に見ては、陰影を出そうとしていた。
井能の作品を見て、同じグループの内川が感心すること、しきりだった。
「これ、井能君でしょ。髪形で、すぐわかるよね。ねえ、ここはどうやったらいいの。」とたずねる内川
に、井能は笑顔でアドバイスをした。
「とび出す感じにしたいんだろ。なら、彫らないところが大事なんだよ。」
と、画面の顔のところを指さしながら、伝統工芸師のような顔つきで説明した。
内川は自分の顔を鏡に映しながら、「耳の凹凸は、こうすればいい」と聞いた。
「貸してみて」と言いながら、井能は彫るところに鉛筆で印をつけた。
試し刷りを終えた神尾が、うらやましそうに二人の間にわりこんで冷やかした。
「井能はいいよな。図工だったら、何をやっても、うまいから。内川、全部やってもらうのはアウトだ
ぞ。井能も鼻の下を長くしちゃって。」
「ばか言ってら」と、井能は相手にしなかった。
彫ったり刷ったりするのに飽きていた神尾は、井能に反応してもらいたかったようだ。
「まさか、このキーパーは俺じゃないよな。Bチームなら、村田か。」
「だれだって、いいだろ。早くやれよ。」
前だったら、こんなとき内川はひと言、言わずにはいられない性格だった。しかし、井能から教えても
らった耳の部分を夢中になって彫っていた。
六校時の終わりも近づき、田沼先生は決めた。
(何でも禁止にされたら、隠れてやるようになるよな。チョコのやりとりを知らないことにすれば、あと
で言い訳はいくらでもできるし。バレンタインデーのことは言い忘れたことにしよう。)
そう自分に言い聞かせ、帰りの会で明日のことにふれることはしなかった。
|