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次の朝、サッカーの早朝練習もないので、田沼先生が教室で子どもたちの作文を読んでいると、神尾が
明るい声を響かせながら、教室に入ってきた。
「今日はバレンタインデー、先生はもらえるかな。」
と、かってにつくったメロディーに合わせて口ずさみながら、黒板の横に貼ってあるカレンダーにバレン
タインデーと書きこんだ。
「ロッカーの中も、片づけて」と調子ぱっずれの歌は続いた。よほど、だれかからもらえる自信があるの
だろう。
教室に入ってくる友だちにも、「おはよう」と声をはずませていた。
井能が神妙な面もちで入ってくると、神尾が「スマイル、スマイル」と、無理に笑顔をつくって見せ
た。
井能は苦笑いしたが、緊張した顔はそのままだった。
「先生、ドッジボールを久しぶりにしようよ。」
と誘う神尾に、井能たちと運動場に田沼先生は出ていった。
直球勝負が自慢の井能の投げるボールは、これまでと違っていた。助走で勢いをつけ、全身をつかって
投げ込むスピードボールは、田沼先生でも体の正面にこないと手を出したくないほどだった。まったくの
手投げだった。ボールをよけるときも、派手なパフォーマンスはなかった。
神尾も、いつもと違っていた。逃げおくれ、間近にいた小西をねらって投げたとき、オーバーアクショ
ンで思いきりあてるかっこうだけし、ちょこんとあてる優しさがあった。縮こまった小西の目は、驚きか
ら笑顔になっていた。
この日は、二人にとって、それほど特別な日だと、田沼先生は感じていた。
チャイムが鳴り、教室に向かった。
職員用靴箱を田沼先生が開けると、そこにいくつもの包み紙やら箱が置かれてあった。急いで、更衣室
に置いてある、洗濯物を入れるビニル袋をからにし、靴箱にもどった。まわりにだれもいないことを確か
めてから、それらを袋にしまい、更衣室に隠しに行った。まさか、自分がチョコレートをこんなにたくさ
んもらうなんて思ってもいなかったので、田村先生はあわててしまった。
教室に行くと、いつになく落ち着きがなかった。田沼先生が今日の予定について話していても、女子た
ちは目と目で何かを伝え合っているようだった。男子たちは、机の中をごそごそと調べたり、ロッカーの
ほうをふりかえったりしていた。特別な日は、神尾や井能だけではなかったようだ。
後ろめたい気持ちで、田沼先生は授業を始めた。担任自らルール違反をしているために、あれこれと考
えて集中できないでいた。
(きっぱり禁止だと言っとけば、よかったかな。わざわざ職員会議で言うだけのことはあるんだ。子ども
同士でチョコのやりとりがあれば、きっと大騒ぎになるんだろうけど、もうしかたがないか。)
男の子たちの落ち着かない一日が終わった。
神尾が「ようやく終わった」と言ったが、すぐには帰らず、教室でグズグスしていた。「今日は、お買
い物に行かないのか」と井能がからかった。
「久しぶりじゃんか、イヤミを言うなんて」と神尾がからんだ。
二人とも、待っていたものをもらえなかったようだ。
田沼先生が「今日は会議があるから、もう帰ろう」とうながした。
「それじゃな」と井能が、教室をとび出していった。
神尾の背中を押しながら、昇降口に向かうと、ポツリポツリと話し始めた。
「おかしいよな。うわさ話では、もらえると聞いていたのに。まあ、帰り道かな。」
「それで、すぐに帰らなかったのか」と田沼が聞くと、神尾はうなずき、話を続けた。
「先生、井能も待っていたのを知っている、ある子から。」
「ある子って」と聞き返すと、神尾はふり向いて真剣な顔になった。
「それは言えないよ、井能に悪いからな。」
田沼先生は靴をはきかえず、神尾を校門で送った後、そっと靴箱を開けてみた。先ほどより多くの袋や
箱があった。更衣室に行く途中、いろんなことが頭にうかんだ。
(まさか、クラスの女の子たちからかな。井能がもらいたかった内川からのチョコだったら、がっかりす
るに違いない。待てよ、ぼくには義理チョコで本命は違うこともあるし。それにしても、神尾はだれから
もらいたかったんだろう。)
学校内で、一つ一つ開けてだれがくれたのか確かめるわけにもいかず、そのまま駐車場にビニル袋を運
んだ。運転席の下やワイパーのところにも、目立たないよう包みが置かれてあった。後ろを見回してか
ら、それらをトランクにしまった。
重点研究会が終わると、金田先生が「田沼先生、ちょっと」と声をかけた。
「言いにくいことなんだけど。一組たちの女子が、チョコレートを持ってきたと、うちのクラスの子たち
が言ってるんだけど。本当かしら、池田先生も気にしているみたいなんで。」 田沼先生が返答に困って
いると、金田先生の顔がこわばった。
「昨日、ちゃんと禁止だと言ったの。」
初任者担当の金田先生の言葉だったので、重たかった。
「言うのを忘れていました。」
それが精一杯だった。まさか自分がもらったとは、口がさけても言えることではなかった。四月初めに
校長先生から「三月の終わりには、よい評価をしてもらうよう、金田先生の指示をよく聞いてがんばって
ほしい」と言われていたからだ。
金田先生は、簡単には許しそうにもなかった。
「学校一丸となって、子どもたちを指導しなきゃ効果はあがらないのよ。」
「はい」と言うのが、やっとだった。
しばらく、児童指導の徹底のために、ルールをしっかり守らせる必要性があるなど、金田先生の話は続
いた。いつも池田先生が話していることだった。それだけに、田沼先生は返す言葉が見つからず、下を向
いて聞いていた。
教室にもどり、週案の反省欄に、「職員会議で話し合われたことをしっかり伝えなければならない」と
書き、大きく息をはいて、週案を本棚にしまおうとした。すると、本棚のはじに、またチョコレートの小
さな包みがあることに気づいた。急いで、ジャージのポケットにしまった。ほかにも置いてないか気にな
り、教室中をさがしたが、それ一つだけだった。
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