副館長の徒然日記

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10人の侍

今日、敦スポの10人の侍が
第51回全国選抜少年剣道錬成大会出場のため
水戸に旅立っていきました。
今年度最後の試合です。
本当は一緒に行きたかったのですが、チームの事情もあり残留。
敦賀の地で活躍を祈ってます。
 
敦賀と水戸は姉妹都市であり、私が小学校のころからこの大会に出場することが
できるようになりました。(敦賀と水戸の関係は後段参照)
 
由緒ある水戸東武館様で稽古をさせて頂き、梅の香り漂う旅館でみんなで宿泊、
大きな大会に出場したのを鮮明に覚えており、このころから、敦スポは稽古の
前に、水戸東武館の教えである
「勉強します」「剣道します」「良い行いをします」の三誓願を唱和しています。
 
みんながんばれ
 
 
敦賀市と水戸市・・・
水戸藩の家老武田伊賀守正生の率いる烈士等の一行は、未曾有の国難に対処するために、
苦難を忍び妨害を排除しながら、大子(茨城県)を出発し48日目の元治元年(1864)12月11日、
漸く敦賀市新保に到着した。
ところが、これを待ち受けていたものは、上京を防止しようとする幕府の大軍13,000名で、
葉原から敦賀にかけて縦深陣を構築し布陣していた。
長途の強行軍と、途中での戦いに疲れ果てた烈士たちは、
ここで青天の霹靂にも比すべき情報を入手した。
それは烈士たちが上京するにあたって、頼りにしていた一橋慶喜が、
討手の大軍の総指揮官だったことである。
このため烈士たちは軍議を重ねた後、一旦降服し他日再挙をはかることとした。
この降服を受けた加賀藩の総帥永原甚七郎は、烈士たちの国を思う心に深く感動し、
一同を敦賀の本妙寺、本勝寺、長遠寺の三箇所に収容し、天下の志士、
武士の鑑として手厚くもてなしたのである。
間もなく慶喜は京都に引き揚げ、かわって幕府から烈士の処置の全権を取付けてきた
田沼玄蕃守意尊が派遣されてきた。
この人物は水戸で武田耕雲斎と対立し、激しい敵意を燃やしていたのである。
悲劇はここから始まった。
このときばかりと元治2年(1865)1月29日から烈士たちを船町(現在の蓬莱町)の
ニシン倉16棟を獄舎として押しこめ、意識的に劣悪な条件のもとにおき、
拷問同様の扱いをしたのである。
2月1日から、形ばかりの裁判で審理らしいこともせず、一方的な報復的即決裁判が行われ、
わずか6日間で次のような判決を下した。
死罪353人、遠島137人、水戸藩渡し130人、追放187人、永厳寺預け11人、合計818人。
800人を超える審理が終わった後、2月4日、15日、16日、19日、23日の5日間に渡って
353人の斬首を行った。
こうして、日本の前途を憂いつつ来迎寺原頭に無念の涙を呑んで露と消えたが、
烈士たちの遺志は回天の大業「明治維新」を実現する原動力となり、
近代日本を誕生させた。
いま烈士たちは、周囲「約4.3」四方、高さ「約4メートル」の塚に手厚く葬られ、
限りない日本の発展を静かに見守っている。
今、敦賀の地に葬られている烈士は、武田耕雲斎以下411名(途上の戦死者、病死者を含む)である。

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