社会起業家を目指して

九州震災の被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。

中東

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1985年から1988年までのイラクでの体験活動を紹介
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ナジャフに限らず現地での通信事情は劣悪で、バグダッドのセンターとのコミュニケーションも容易ではなかった。しかしながら地方の病院に1人だけで長期滞在していることは、精神衛生上も良くないため、1ヶ月に一度はバグダッドに全員集結した。

定例会議というよりも、各サイト間での情報交換、特にメンテナンスに影響するような技術的な情報交換が行われたが、通常は各サイトに車両を準備するほどの予算的な余裕がないため、定期便が3〜4日に1度ほどの割合で、書面によるコミュニケーションを図っていた。地方のサイトで周辺が土漠に囲まれている状況では、1ヶ月に1度のバグダッドでの集会は唯一の楽しみであった。

地方に比較すれば当然だが、バグダッドは随分都会に思えた。特に韓国の業者による建築工事が盛んで、結構高層ビルが建ち並んでいるような場所では、地方との格差を感じた。でも道行く車はやはりオンボロなものも多かった。道が渋滞することはほとんどなかったが、ここでもカルチャーショックが待ちかまえていた。

わずかな信号待ちの間に、数台前方の車両の窓から上半身を乗り出しているような人がいたため、何かあったのかと思ってこちらも車の窓ガラスから少しからだを乗り出したのだが、前方で身を乗り出している人が乗っている車は何と車の屋根がつぶれており、上半身を窓から乗り出しながら運転していたのだ。

ここでも肉眼で直接見ていながら、なかなか状況が理解できなかった。これもやはりカルチャーショックだろうかと思っているうちに前方の車は意気揚々と離れていった。

続く

ナジャフのタクシーのドアのヒモでカルチャーショックを受けていたが、それだけではすまなかった。
「何が起こったんだ。」とショックを受け、頭の中を整理するために下をうつむいていたが、
ふと、やけに車内に風が吹き荒れていることに気がついた。

「窓が開いているんだな」と思って、右手のドアの窓を見たら、ちゃんとガラス窓は閉まっている。
「ああ、左側か」と思って左側のドアを見てみたら、なんとそこもちゃんとしまっている。
でも風はどんどん入ってきて顔に強く吹き付けてくる。

「何が起こっているんだ」と思いながら2度も3度も左右の窓ガラスを見たが、確かにしまっている。
しばらくしてやっと気がついた。
なんと正面のフロントガラスが入っていない。
風がじゃんじゃん入ってくるわけだ。

ドアのヒモだけでもショックだったのに、フロントガラスがないなんて、予想のしようもなかったため、
「いったい自分は何をしていて、何を見ていたんだ」と頭が混乱してしまった。
肉眼で見ていても、自分の理解を超えていたために、理解することができなかったのだと、
後で正気に戻ってからやっと気がついた。

続く

イラク回想録-タクシー

開発途上国はカルチャーショックの固まりのようなものだ。いつ何が起きてもおかしくない。イラクでの最初のカルチャーショックはタクシーだった。

何しろ生活圏は病院とプレハブのキャンプのみでつまらないので、町へ出かけるためにタクシーに乗った。
まずはドアを開けて乗り込み、後部座席に腰を下ろしてドアをしめたつもりが、なんとドアが跳ね返ってまた開いてしまった。
「あれっ」と思いつつすぐにまた閉めたのに、また跳ね返って開いてしまった。
「何で」と思ってドアを内側から見てみると、なぜかヒモがぶら下がっている。
「まさかっ」と思いつつ窓枠の方を見てみると、ネジが一本立てられていた。
運転手に早くしてくれと言われながら、ドアをゆっくりとしめてヒモを窓枠のネジに巻いて車が走り出した。

肉眼で見ていても、今何が起こっていたのかよく理解できない。放心状態に近い状態でもう一度見てみるが、やはりドアにヒモ、窓枠にネジがつきたてられている。しばらくショックでどうして良いのか分からない。これもカルチャーショックと言えるのかどうか分からない。後になって大笑いしてしまった。

続く

ナジャフの病院は、Saddam hospital in Najaf という名称で、つまりナジャフのサダム病院というわけだ。
イラク全土に建設された13カ所の病院は全てサダム病院という名称になっていた。様々な場所においてフセイン元大統領の肖像画が掲げられていた。

通信事情は最悪で、電話をかける場合は、何十回もダイヤルを回して、やっと繋がるかどうかといった程度で、緊急の連絡などできる状態ではなかったが、中東ののんびりした生活リズムが幸いして、実際に緊急に連絡が必要になったことはまれであった。

ビルメンテの会社の日本人は通常1〜3名程度で、医療機器に関しては自分1人という状態での生活であった。このため日中の時間で仕事中は自分1人のみで、あとはカウンターパートの現地技術者が1〜2名いた。病院の中というのは、通常患者が見ることのできる医療機器はごく一部で、臨床検査室や薬局、手術室等には膨大な数の装置が設置されているため、技術的な観点から言えば、これらの全ての機材をたった1名の技術者によってメンテナンスをしていくことは、かなり無茶な話だが、現実はそういう状態であった。

医療機器のメンテナンスという仕事は自分にとっても初めてだったので、時間の許す限り、様々な資料に目をとおしたが、資料そのものの絶対量も少なく、技術情報は極めて貧弱なものであった。日本国内においても医療機器についての文献は非常に少ないのが現状で、それをイラクの現場でメンテナンスしていくのは、容易なことではなかった。

続く

イラク全土13カ所に建設された病院のうち、私が赴任したのはナジャフという町の病院だった。ナジャフはバグダッドから160kmほど南下したところに位置する町で、宗教上も聖地とされていた。スンニ派の拠点とされている。聖書に記されたアダムとイブの話の、イブの墓があるとの話だが、イラク人の話なので全くあてにならない。

病院は400床の総合病院で、7階建ての立派な建物だが、周囲は見渡す限り360℃が土漠で囲まれており、なんのために7階建てにする必要があるのかと疑問に思うところだった。少し町はずれにあり、周辺はきれいさっぱり何もない場所だった。

宿泊地は病院の敷地のすぐ隣で、歩いて数十秒というところだ。建設工事中に設置されたプレハブのキャンプだったが、リビングは共有でテレビやビデオ、雑誌類などが残っていてくつろぐことができるような部屋だった。寝室は個室になっており、簡易な作りではあったが最低限必要なものはそろっていた。

建物は日本の会社によってメンテナンスが行われており、エレベーターや空調などについてもちゃんと稼働しており、特に違和感はなかった。仕事場は外来の診察室何室かあるうちの1室を借りており、小さい部屋ではあったが、診察台や机、椅子等、必要最小限のものはそろっていた。前任の人がいたおかげで、ある程度の引き継ぎもあり、技術資料に関してはだいぶ不足していたが、何とかなるだろうという程度のものは準備されていた。

続く

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