日本の山車

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◆斐太番匠の道具と本地

 建築の起工式などで、建築に携わる人々が、墨壷(すみつぼ)、指矩(さしがね)、釿(ちょうな)の三具を【釿飾り】として神に供え工事の無事と、竣工を祈願することはよく知られるが、
 斐太ノ工の家々では建築道具一〇種を佛に見立てて、大切に扱ってきた。
 その一〇種とは、

  斧(おの)     火炎不動明王
  釿(ちょうな)    釈迦如来
  鉋(かんな)    文殊菩薩
  曲尺(かねじゃく)  普賢菩薩
  墨壷(すみつぼ)  観世音菩薩
  鋸(のこぎり)    勢至菩薩
  地板(ぢいた)   地蔵菩薩
  鑿(のみ)      大日如来
  がんがり      虚空蔵菩薩
  錐(きり)      阿弥陀如来
  
 これに小物類二十八宿が撰ばれている。 元禄十六年 癸未歳(みずのと ひつじ) 斐太番匠の記録である  
【寥郭堂文庫 所蔵】 

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◆沖縄 浜比嘉島

◆沖縄 浜比嘉島

 浜比嘉島は、沖縄県うるま市、沖縄中部の勝連半島の東、およそ三キロメートルにあり、面積は二・〇九キロ平方メートル、周囲(海岸線長)約六・七キロメートルで、島には、【スガイ山 海抜783.7メートル)】があり美しい海が望まれる。方言で「バマヒジャシマ」とよばれてきた。
 琉球王朝時代には「勝連間切 かつれんまぎり」と称ばれる地域に属していた。その後、勝連(かつれんちょう)を経て、現在はうるま市となっている。島の西部は、浜(はま)、東部は比嘉(ひが)で、島名は、この二つの地区の名称を連称とした複称になっている。交通は、与那城町の平安座島と浜比嘉大橋によって結ばれている。

 「比嘉 ひが」という名称は、地名、姓名として、沖縄ではしばしばみられる名称であるが、
 私見であるが
 鹿児島県の【枚聞神社 ひらききじんじゃ】、大阪府東大阪市の【枚岡神社 ひらおかじんじゃ】、
京都市の「平野神社」、滋賀県の、比叡、日枝、比良などにつながる【日氏】のルーツと考えている。
 古来、「久高島」とともに、神々が住む島と伝えられ、
女神 アマミキョ
男神 シルミキョ
 の二神は、琉球開闢の祖として敬われる。その他神々を祀る岩礁 【アマンジーの洞穴】が、比嘉の東にあり、【アマミチュー洞窟】とよばれるが、「アマミゾ御嶽(うたき)」であったらしい。このほかにも数か所の御嶽がある。
 海から訪れた、女神の、「アマミキョ」は、来訪神で、兼久集落の沖合にある【久場島】を目座して、浜比嘉島に到り、土地神である、男神の「シルミキョ」と夫婦になって、「アマミチュー」に住んだと伝わる。
 洞穴は比嘉地区の南東にあって、「シルミチュー霊場」とよばれている。比嘉地区では旧暦三月三日に、女性が浜に下りて、海に入って身を浄め、神人が豊作祈願を行う神事がある。
 浜地区の東側には、「シヌグ堂 シヌグドゥ」、とよばれる御嶽がある。東の御嶽ともいう。

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◆越後 勝山

◆越後 勝山

 富山県の朝日町と、新潟県の糸魚川市を結ぶ国道8号線の区間は、古来天嶮の地として知られる「北陸道 親知らず 子知らず」は交通の難所である。現在は高速道路・北陸道が通っていて、こちらを通れば難所は回避できるが、国道8号線のほうは、次第に道路改修が進められつつあるものの、曲折の多い危険なトンネルと洞門がつづき、いまも難所に変わりはない。
 この区間にある境川は、富山県と新潟県の県境であり、いわゆる越中國と越後國の國境である。市振(いちふり)はその関所が設けられていたところで、芭蕉の『奥の細道』の、

 今日は 親しらず 子しらず 犬もどり 駒返し など云ふ北国一の難所を越て 疲れはべれば 枕引よせて寝たるに.……

 と紀行文にも記された地で、

  ひとつ家に 遊女もねたり 萩と月

 と詠んだ地として知られ、関所跡がよく整備され保存されていて、おとずれる人も多い。

 親しらず 子しらずにほぼ沿うようにして位置するのが【勝山 標高328メートル】である。
 北アルプスが北に延びて日本海に沈む、地の涯てともいうべき地にあり、その山容は、周囲の山崖に阻まれて全容が見づらいが、よく見える場所では、他の山々とは明らかに異なる整形の二等辺三角形を呈している。
 私見であるが、この山は、『延喜式神名帳』に記載される【青海神社】の奥社にあたる御神体山ではないかと考える。青海神社は、勝山の北麓に鎮座する里宮ではないだろうか。

 勝山の歴史は、平安期の、「治承 寿永の乱」のとき、木曽義仲が、信濃から上京する際に、その軍勢を阻止するため築城された説話が伝わる。
 戦国時代、越後上越(上越市)の春日山城の【上杉謙信】が、越中との國境のを守るため、【落水城(おちりみずじょう)】を築いて警護にあたらせた。

上杉謙信の子、景勝の代に、越中の「佐々成政(さっさ なりまさ)による北進お阻むため落水城を整備したが、このとき「落」の一字を忌んで、【勝山城】と改名した。天正十三年(一五八五)に、に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、越中に入って佐々成政を滅ぼしたが、このとき上杉景勝に会談を申し入れたが、上杉景勝は、直江兼続とともにこれを受け、勝山城において、羽柴秀吉と石田三成とのあいだで会談した。
『落水盟約』として知られ、のちの上杉家安泰にもつながることになった。

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◆小車大夫と左甚五郎

◆小車大夫と左甚五郎

 【新歌舞伎十八番之内 左小刀】は、明治期に【成田屋 市川家】の市川團十郎から、九代目市川團十郎までのあいだであらたに撰んだ演目をいう。演目からいえば十八であるが、実際には次の三二の藝題があり、これに、八演目が加えられて四〇演目となっている。

三十二演目
虎の巻 とらのまき
蓮生物語 れんしょう ものがたり
地震加藤 じしん かとう
真田張抜筒 さなだの はりぬきづつ
腰越状 こしごえじょう
敷皮問答 しきがわ もんどう
酒井の太鼓 さかいの たいこ
吉備大臣 きび だいじん
重盛諫言 しげもり かんげん
荏柄問答 えがら もんどう
釣狐 つりぎつね
仲光 なかみつ
高時 たかとき
船弁慶 ふなべんけい
山伏摂待 やまぶしせったい
静法楽舞 しずかほうらくまい
伊勢三郎 いせのさぶろう
紅葉狩 もみじがり
凧の為朝 たこのためとも
文覚勧進帳 もんがくかんじんちょう
左小刀 ひだり こがたな
高野物狂 こうやものぐるい
仲國 なかくに
素襖落 すおうおとし
女楠 おんなくすのき
鏡獅子 かがみしし
新七ツ面 しんななつめん
二人袴 ににんはかま
向井将監 むかいしょうげん
吹取妻 ふきとりつま
時平の七笑 しへいの ななわらい
大森彦七 おおもり ひこしち

四〇演目というときは、前記の三二演目に、次八演目が加えられる。
雨の鉢の木 あめの はちのき
片桐別れ かたぎり わかれ
大石城受取 おおいししろうけとり
義貞太刀流し よしさだたちながし
白髪の実盛 しらがのさねもり
敷浪 しきなみ
油坊主 あぶらぼうず
中山問答 なかやまもんどう

 明治期に、演じられた、【新歌舞伎十八番之内 左小刀】では、九代目 市川團十郎が、女形(おやま)人形と、左甚五郎の二役を早替りで演じた。
 現在の藝題は、【銘作左小刀京人形』とよばれ、左甚五郎が彫刻した、傾城 小車大夫の人形が動き出し、左甚五郎とともに踊る、舞踊劇(バレエ)の 【くるみ割り人形】や、【コッペリア】のような人形踊りと、女性踊りの妙技が披露される。

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◆伊豫温泉和気 須賀山 正智院 圓明寺の雲と龍

 【須賀山 正智院 圓明寺】は、伊豫國(愛媛県)松山市和気町にある寺院。四国八十八箇所内の第五十三番 霊場として知られる。開基は、縁起によると、天平勝宝元年、聖武天皇の発願により、和気浜西山海岸に、【海岸山 圓明密寺】として、僧行基が、阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を造顕し、七堂伽藍を備えた大寺として創建したとあり、元和年間(一六一五−二四)に、須賀重久が菩提寺として、現在地に移し、寛永一三年(一六三六)に、京都 御室 覚深法親王の令旨により【仁和寺】の直末として再建された。このとき寺号も改められて現在に至る。

 左甚五郎作のおよそ五メートルにも及ぶ【雲と龍】が本堂の鴨居のうえにあり、行い悪い人がこの見ると目が光るという言い伝えがあって、「左甚五郎という人物は、本当にいたのだろうか?」などと疑問の心で見上げると、龍の目がキラッと輝くという」

【左甚五郎傳】

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