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源義経は、一一八九年文治五年に藤原泰衡により衣川にて殺されたとされています。その生首は、酒に浸され、平泉から鎌倉まで四十三日もかけて検証のために運ばれたそうです。
ここまでが一般の歴史で定説とされていることです。
まず、着目しなければならないことは、当時の平泉文化は、中尊寺金色堂をはじめとする、黄金の文化、経済力の高さがありました。平泉、藤原氏は、蝦夷や中国、大陸の国々との交易をさかんに行っておりました。正に平泉は、蝦夷や中国の交易の拠点であったそうです。その交易ルートを使い、義経は、蝦夷に入り、中国、モンゴルに入ったのではないかと伝説に言われています。
水戸光圀著「大日本史」には、義経は蝦夷に逃れ、生首は、偽者である。酒に浸され、保存された生首は、この暑い季節に、四十三日(平泉から鎌倉まで約百三十里、一日三里とゆっくりとしたペース)もかけて運ばれれば、生首は、前の原型もとどめないくらい変形し崩れ、義経と鑑定できないほどになっていたのはないかと言われています。
大正時代に小谷部全一郎という人が「ジンギスカンは、源義経也」という書籍を出版しております。それによると次のように記されております。
このジンギスカンは、源義経という説は、様々な形で波紋を呼んでいます。
まず、アイヌ民族の言い伝えで、「昔、ホンカン様は金色の鷲が飛ぶのを見て、その鷲に従い、昔先祖が往来した海を渡って大きな川のあるクルムセ(モンゴル)の国にお行きなされた」。
この当時、平泉に身を隠していた義経は、兄頼朝から逃げるため、藤原秀衡の実弟の貿易商、安東秀栄からクルムセの国に渡ることを勧められました。陸奥から蝦夷に渡ってきた義経は、アイヌに農業を教え、神として称えられたという言い伝えがあります。ここでいうホンカン様は、判官様から変化したものではないかとされ、すなわち義経であることが推測することができるかと思います。この後、大陸に渡り、クルムセの国で天神(テムジン)と名乗ったそうです。
また、シベリア地方ウラジオストク市の北部にハンガン岬というところがあります。地名の由来は定かでなく、地元の人たちは、ただ「昔、ハンガンという人がいたところだからだ」と答えるだけでハンガンが何者であるかも知らないという話があります。
ウラジオストク市の東北約百二十キロ、ハンガン岬から約三十キロ離れたところにスーチャンという名の場所があります。シベリアは一八五八年のネルサンチク条約でロシア領となるまでは、清朝の支配下にあり、スーチャンというのは、中国語です。漢字で「蘇城」と書きます。ここには蘇城と呼ばれる城址があり、これがそのまま地名となったわけです。
この城について地元民の言い伝えでは、
「昔、日本の武将が危機を避けて本国を逃れ、この地に城を築いた。武将がここで『蘇生した』というので、蘇城と命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に攻め入って強大な王国を建てた」
チチハルの西北部、コウコクケイから少しいったところにジンギスカンという駅があります。この駅名は、日本人がつけたものではないそうです。ロシアが東支鉄道を建設したときに、もととあった地名を、その駅名にしたそうです。この地に何故、ジンギスカンという名がついたのか、中国の文献にもありません。ここを踏査した小谷部氏は、ロシアの案内地図で、ジンギスカンの城址があることを知り、訪れることにしたという。ところが実際に行ってみると、現地の住民たちは、ジンギスカンという英雄の名前も知らぬ。では、あれは誰の城址のことを聞くと「クロー」と答えたというのである。ここには、判官源九郎義経がいたのではなかろうか?と推測したくなるものです。
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日本の歴史を精査する中で義経伝説は最大の歴史てきロマンを感じる
2012/5/17(木) 午前 6:20 [ 大和 ]