シベリア抑留の悲劇

こんな日本人がいたことを書き上げてゆきます。

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昭和二十二年九月十八日
「いよいよ乗船だ!やっと帰れる。
今度は本当に祖国に帰れる!夢ではない。

まぎれもない、その船は、第一大拓丸、八〇〇〇トン級の大型船でした。

第一大拓丸は、もともとは、昭和二〇年五月に三井造船が貨物船として建造した船でした。全長一三〇メートル、幅十八メートル、深さ十一メートル、八〇〇〇トン級の大きさでした。この船は建造後、主に日本海を航行していました。戦争でほとんどの客船が沈められ、当時の日本には航行できる船は数えるほどしかありませんでした。そんな中で貨物船、第一大拓丸が無事でした。緊急に貨物船を乗客できるように改造して、第一大拓丸を引き揚げ船として使用されていました。
 
朝食をとっていたときに、
「広場に集まってくれ!これから帰国だ!乗船だ!広場に整列してくれ!」という集合命令がありました。いよいよ乗船です。 
収容中は、敗戦後、日本がどうなっているか、わかりませんでした。日本が戦争に負けたので、「日の丸」自体なくなっているとばかり思っていました。国旗は、アメリカ国旗、星条旗に変わっているんだろうと。

 第一大拓丸の黒い船体に掲揚された日本の国旗「日の丸」を何度も見ました。

また船体に大きく描かれた「日の丸」を何度も見ました。

日本は、まだ「あったんだ」という、うれしさでいっぱいでした。「日の丸」を見た瞬間、いろんなことが走馬灯のように思いだされました。零下四〇度を下回る過酷な作業。半数以上の日本人が亡くなった生き地獄。死の淵の寸前までいった、この命。正直、よくここまで頑張って帰ってきたと思いました。
 しかし、まだ確実に帰国できるとは安心できないものがありました。ソ連は、最後の最後になって帰国できないようにする可能性があると思っていました。「トーキョーダモイ」といいながら日本人をだましてソ連奥地まで収容したことが、どうもひっかかっていました。船に乗るまで、いや船がナホトカを離れるまで安心できない、気持ちでした。
 乗船前に、乗船する三〇〇〇名の点呼、身体検査、名前の確認を行いました。この確認作業があり一〇時ごろにやっと乗船することができました。


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