|
昭和二〇年九月二十二日
満州黒河を後にして渡し舟の人となり、約一〇〇〇名の兵士が不安と希望の思いでソ連領ブラゴエチンスクの部落に上陸しました。初めて見るソ連の村でした。休む時間もなく、ソ連兵の「ダワイ、ダワイ(早く、早く)」という声がとんできました。
そこで再び汽車に乗せられ、シベリア鉄道を北か南か、ガタガタと汽車が走りだしました。
最初、ソ連兵の話では、満鉄の南鉄道が不通のため、北へ迂回してウラジオストクから新潟港へ上陸させるという話でした。
しかし、この話は、まったくのデタラメであったことがあとになってわかり、このときから私のシベリアでの残酷な日々の始まりだったのです。
我々を移送する列車は、一両に五、六〇人の日本人を積み込みました。約二〇両の車両に日本人は乗せられました。乗せられた車両各車の隅にトイレが設けられて、そこに押し込まれました。
移動中は、風呂にもはいれず、途中のアムール川で水浴びをした程度でした。
食事は、食事の時間に通る駅に予め連絡されていたみたいでした。食事の時間に近くなると、この時間に近くを通る、駅に食事が用意されていました。ここで、食事を列車に乗せたら、ゆっくり食べる時間もなく、すぐに発車しました。
そこから列車は夜通し走りっぱなしでした。食事の積み込み以外は止まらず、一日中、夜通し走りっぱなしでした。
貨車には小さな窓が天井近くにあるのみでした。やがて一週間も走っただろうか。小さな窓から外を見ると広い海のようなほとりにでたことがわかりました。
気の早い連中は、日本海が見える。ウラジオストクに着いた。と思ったようでした。しかし、この地は寒さを感じました。汽車は、東に走らず西のほうに走っているんではないか?より北方へきたのではないか?といろいろと話がとびかいました。気の早いものは、日本に帰れると思い、荷物をまとめ下車の支度をしていました。汽車は、この広い海のほとりを二日間も走り続けていました。
この広い海は、皆が予想していた、日本海ではありませんでした。日本がすっぽり埋まるほどの湖、バイカル湖だったのです。学校の授業で、ソ連の大きな湖と教えられた湖が、目の前にあったのでした。
このとき、はじめて皆、ソ連に騙されたことに気づきました、だんだん寒くなってくるのと同じく、皆、落ち込んで声を発するものは、一人もいませんでした。
|