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八月九日のソ連の宣戦布告で満州にいた多くの日本人は筆舌に尽くしがたい
体験を強いられました。 ソ連が攻めてくることは、この年の四月、ソ連から日ソ不可侵条約の不延長 が通告されたときに予想はできていました。八月九日の宣戦布告し参戦してき たときは、関東軍関係者とその家族はいち早く新京駅発平壌行きの汽車に乗り 非難しましたが、大多数の満州移民は、取り残されソ連による悲惨な仕打ちを 受けたのでした。 満州移民には、義勇開拓団と一般開拓団があります。義勇開拓団は政策上、 ソ連国境の農地開拓と国境の警備の二役を担っていました。 一般開拓団の多くは、ソ満国境から離れた比較的安全な場所にありました。 ソ連の侵攻は一般開拓団がいるところまでのびてきました。 佐渡村開拓団事件という事件がありました。この事件は、ソ連侵攻から避難 した佐渡村開拓団の跡地に逃げてきた長野県の開拓団の悲劇です。 偶然、故障したソ連の飛行機が佐渡村開拓団の畑に不時着をしました。これ
を敵襲来と勘違いした長野県の開拓団の人たちがソ連の飛行機を攻撃してしま
いました。
このことがソ連に伝わり大反撃をくらい、集団自決という惨事となったのでした。
避難した佐渡村開拓団にも後に中国残留孤児を生みだす悲劇が訪れていまし た。もし、日本の降伏があと十日早ければこの悲劇はおきなかったのにと悔や まれて仕方ありません。 終戦を境に、ソ連は、満州に攻め入り、略奪、強姦、殺人などの悪の術をつ くしました。一般開拓団、佐渡村開拓団にもソ連は攻め込んできました。この ソ連の魔の手から逃れるべく、昼間は、背丈より高いとうもろこし畑の中で身 を隠し、夜間に南下しようとしていました。運悪く、心無い満人にも出くわし、 ソ連と同じように略奪、強姦、殺人を繰り返し、行く手を遮られてしまいまし た。 移動中、どうしても小さい子供が足手まといとなってしまいます。鳴き声で、 こちらの場所がわかってしまうのです。わかってしまうとソ連に見つかり犠牲 者が増え、今までの苦労が水の泡となってしまいます。こんな中、しかたなく 自分の子供に手をかける人がいるほどでした。 この非人道行為をしなければ、生きてゆけません。そうしないと子供の泣き 声でソ連に見つかり、みんな殺されてしまいます。泣く泣く、自分の子供に手 をかける人もいました。どうしても、それができず、近くの親切な満人に、自 分の子供を預け、中国人として育ててもらうよう頼んだ人は、少なくありませ んでした。この子供たちは、のちのち中国残留日本人孤児として産みの親から 引き離されてしまう運命をたどりました。 中国残留日本人孤児という、たった数文字の言葉の中に多くの日本人の涙と 苦難、そうしなければ生きていけなかった宿命が凝縮されているのです。 |
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