シベリア抑留の悲劇

こんな日本人がいたことを書き上げてゆきます。

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 ソ連が国境を越えてくると越佐義勇開拓団は、十五名が残留し、七三名が避難
をすることになりました。残留した十五名は、家畜を逃がしたり、作物を満人に
あげたりして残務整理をおこないました。

 ソ連軍が越佐義勇開拓団に攻めてきました。戦車が走る音、ソ連兵が銃をもっ
て向かってくる音が大きくなってきました。
 家の扉を激しく蹴り開けてソ連兵が家に入ってきました。残っていた団員は、
隠れるところがなくソ連兵が開けた扉の影に隠れるしかありませんでした。見つ
からないようにとソ連兵がでていくのを祈り、九死に一生をえた人がいました。

七三名の先に避難したものは、永安、勃利と南下し山市(やまいち)
という部落までたどりついていました。

 このとき、私の弟、吉三郎は、この七三名のなかにいました。

昭和二〇年九月四日
 ソ連の追っ手から逃れるべく、七三名の越佐義勇開拓団は、牡丹江近くの山市
(やまいち)という部落まで逃れ、そこで宿をとっていました。

 宿をとっていると、ここに住んでいる満人から、

 「明日、ソ連兵が近づいてくる。すぐに逃げたほうがいい」といわれました。

 皆、相談した結果、明朝、この部落を出発することになりました。近くの山の
尾根づたいに逃げるところを運悪く一〇〇名のソ連兵と鉢合わせになってしまい
ました。

 ソ連兵は開拓団を一斉に攻撃してきました。開拓団は、反撃、後退を繰り返し
ました。
開拓団がもっていた銃は、ここのところの雨で濡れて使いものになりませんで
した。残る武器は日本刀。日本刀を振りかざしソ連兵に立ち向かっていきました。
武器をもっていたものがソ連の攻撃を食い止め、盾となり後方の部隊を逃がしま
した。

 この戦闘で三〇名の団員がソ連兵に殺されてしまいました。残りの開拓団は、
一〇名一組になり四方に逃げました。

 吉三郎ら、五名の若者は、列の後方にいました。ソ連兵の攻撃から逃げ、山を
下りた湿地帯の中で身を隠していました。
 開拓団の上官から、吉三郎はじめ五名に、

「この惨状を内地に伝えてほしい。ソ連の攻撃は俺たちが食い止める隙に逃げ
てくれ」

 という命令をうけました。吉三郎ら五名は、攻撃される開拓団を背に暗くなる
まで逃げ続けました。ソ連が追いかけてこないことを確認し、マッチの火で互い
の存在を確認しあいました。

 しかし、吉三郎は、そこにくるまでの間、何かの事件に巻き込まれたらしく、
この場にはいませんでした。
 
 戦後、帰国してからいろんな方に弟の消息を尋ねたのですが、行方はわからず、
今日に至っている次第です。

 私が吉三郎を越佐義勇開拓団に呼ばなければ、こんな目にあわなくてすんだの
にと今でも悔やんでなりません。

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