シベリア抑留の悲劇

こんな日本人がいたことを書き上げてゆきます。

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ブログの書き込みができなくて申し訳ございません。

 
久々にアップしたのは、悲しい知らせがあったからです。
 
平成23年 4月16日夕方、このブログにでている、二十名の日本人の命を救った小隊長こと、
 
吉山秀雄さんが永眠されました・・・・。
 
 
このブログを私が書こうとおもったきっかけは、このブログの主人公元シベリア抑留兵・小保茂さんから抑留時
 
代の話を聞いたのがきっかけでした。
 
 
半世紀以上も、自分の命を救ってくれた小隊長に会いたい。死ぬまでになんとかしたい。
 
この切実なる願いに、心を動かされ、名前もわからず、ただ九州出身という情報だけで捜索をしました。
 
 
 
零下39度、1000人いた日本人が1年後には半分も亡くなってしまう過酷な労働環境で、作業を続けさせようと
 
するソ連兵。
 
 「貴様らに俺の気持ちがわかるか!」とソ連兵を突き飛ばし自らを盾となり二十名の命を救った小隊長。
 
絶対に、これをすれば自分の命はないとわかっていたのに・・・・。
 
まるでドラマにでてくるような出来事が遠く離れたカザフスタンで起こっていたとは思っても見ませんでした。
 
 
日本の心。忘れ去られたこの精神を小隊長から学びました。どんなに辛いことがあっても、小隊長がなされ
 
たことに比べれば、自分に起きてる苦労は大したことはない、と励ましてもらったことは幾たびか・・・。
 
 
 谷ひろゆき参議院議員のおかげで、厚生労働省の大きな壁を破り、名前がわかり
 
 西日本新聞さんの知名度と信用で、奇跡の再会を実現することができました。
 
 
 絶対不可能と思われた再会を実現できて本当によかったと思います。
 
 それと、半世紀以上も前の恩返しをしようと、1日たりとも小隊長のことを忘れなかった小保さんの
 
 上官を慕う心には、忠義の本質を見ました。
 
 
  ただ、心残りは、このシベリア抑留の悲劇を、出版し、小隊長にお届けできなかったのは、悔いが
 
 残ります。
 
  小隊長 お元気で 天国でまた、いろいろ指導してください。ご冥福をお祈りいたします。
 
 
 
 
 ソ連が国境を越えてくると越佐義勇開拓団は、十五名が残留し、七三名が避難
をすることになりました。残留した十五名は、家畜を逃がしたり、作物を満人に
あげたりして残務整理をおこないました。

 ソ連軍が越佐義勇開拓団に攻めてきました。戦車が走る音、ソ連兵が銃をもっ
て向かってくる音が大きくなってきました。
 家の扉を激しく蹴り開けてソ連兵が家に入ってきました。残っていた団員は、
隠れるところがなくソ連兵が開けた扉の影に隠れるしかありませんでした。見つ
からないようにとソ連兵がでていくのを祈り、九死に一生をえた人がいました。

七三名の先に避難したものは、永安、勃利と南下し山市(やまいち)
という部落までたどりついていました。

 このとき、私の弟、吉三郎は、この七三名のなかにいました。

昭和二〇年九月四日
 ソ連の追っ手から逃れるべく、七三名の越佐義勇開拓団は、牡丹江近くの山市
(やまいち)という部落まで逃れ、そこで宿をとっていました。

 宿をとっていると、ここに住んでいる満人から、

 「明日、ソ連兵が近づいてくる。すぐに逃げたほうがいい」といわれました。

 皆、相談した結果、明朝、この部落を出発することになりました。近くの山の
尾根づたいに逃げるところを運悪く一〇〇名のソ連兵と鉢合わせになってしまい
ました。

 ソ連兵は開拓団を一斉に攻撃してきました。開拓団は、反撃、後退を繰り返し
ました。
開拓団がもっていた銃は、ここのところの雨で濡れて使いものになりませんで
した。残る武器は日本刀。日本刀を振りかざしソ連兵に立ち向かっていきました。
武器をもっていたものがソ連の攻撃を食い止め、盾となり後方の部隊を逃がしま
した。

 この戦闘で三〇名の団員がソ連兵に殺されてしまいました。残りの開拓団は、
一〇名一組になり四方に逃げました。

 吉三郎ら、五名の若者は、列の後方にいました。ソ連兵の攻撃から逃げ、山を
下りた湿地帯の中で身を隠していました。
 開拓団の上官から、吉三郎はじめ五名に、

「この惨状を内地に伝えてほしい。ソ連の攻撃は俺たちが食い止める隙に逃げ
てくれ」

 という命令をうけました。吉三郎ら五名は、攻撃される開拓団を背に暗くなる
まで逃げ続けました。ソ連が追いかけてこないことを確認し、マッチの火で互い
の存在を確認しあいました。

 しかし、吉三郎は、そこにくるまでの間、何かの事件に巻き込まれたらしく、
この場にはいませんでした。
 
 戦後、帰国してからいろんな方に弟の消息を尋ねたのですが、行方はわからず、
今日に至っている次第です。

 私が吉三郎を越佐義勇開拓団に呼ばなければ、こんな目にあわなくてすんだの
にと今でも悔やんでなりません。
 ソ連は、日本人女性を捕まえると、強姦の対象にしました。この行為に人間と
しての誇りをかけて自殺した日本人も多くいました。

 また、わざと年寄りにみせたり、顔に炭を縫ったり、ボロを着たり、しまいに
は男装をしてまでも、女性としてみられないようにしていたという人もいました。
ソ満国境にあった越佐義勇軍では、二八二名のうち一八二名が徴兵されていま
した。残った人たちが日本軍五〇部隊といっしょに国境警備をおこなっていまし
た。

 五〇部隊は、もしソ連が国境を越え、侵攻してきたときどこの防御をすべきか
を想定していました。
 国境正面が湿地帯でした。この湿地帯は、足を踏み入れると底なし沼のように
足が入り込みました。ここを水田にするだけでも大変な苦労がありましたので、
ここは、いくらなんでもソ連は通ってこれないだろう想定していました。
もしソ連が攻めてくるときは湿地帯を避けて攻撃してくるに違いないと思って
いました。五〇部隊は、国境の両端、モクオントンと烏山陣地の警備、防衛を強
固にしました。砲台の向きもソ連が両端から攻めてくることを想定した向きに固
定されていました。
 しかし、こうした日本軍の動きは、剣山、鏡山に陣を張るソ連から丸見えだっ
たのです。ノモンハン事件で奪取した剣山、鏡山は、日本の動きを知る上で軍事
的要所として大変重要な場所だったのです。
 国境を警備していた五〇部隊は、ここのところのソ連の動きの変化を感じてい
ました。双眼鏡で見るソ連領地内のソ連兵の人数が普段より増えていました。
 もしかしたらソ連が攻めてくるかもしれない。
 監視している日本兵から越佐義勇開拓団に避難の命令がでました。
 昭和二〇年八月九日
 ソ連が侵攻してきました。ソ連は、予想に反して堂々と国境正面から侵攻して
きたのです。鏡山、剣山の側面に穴が開いたようになり、そこから戦車が何台も
何台もでてきてきました。鏡山、剣山の中は、戦車の基地か戦車が通るトンネル
がひそかに造られていたのでした。

 戦車は国境正面の湿地帯につくと、そこに鉄板をひいて攻めてきたのでした。
さすがに、日本軍五〇部隊は不意をつかれました。砲台の向きは国境の端から攻
めてくると想定されていたので、急に向きを変えることができません。逃げるの
が精一杯でした。

1945年8月9日

 八月九日のソ連の宣戦布告で満州にいた多くの日本人は筆舌に尽くしがたい
体験を強いられました。

 ソ連が攻めてくることは、この年の四月、ソ連から日ソ不可侵条約の不延長
が通告されたときに予想はできていました。八月九日の宣戦布告し参戦してき
たときは、関東軍関係者とその家族はいち早く新京駅発平壌行きの汽車に乗り
非難しましたが、大多数の満州移民は、取り残されソ連による悲惨な仕打ちを
受けたのでした。

 満州移民には、義勇開拓団と一般開拓団があります。義勇開拓団は政策上、
ソ連国境の農地開拓と国境の警備の二役を担っていました。
 一般開拓団の多くは、ソ満国境から離れた比較的安全な場所にありました。
ソ連の侵攻は一般開拓団がいるところまでのびてきました。

 佐渡村開拓団事件という事件がありました。この事件は、ソ連侵攻から避難
した佐渡村開拓団の跡地に逃げてきた長野県の開拓団の悲劇です。
 
 偶然、故障したソ連の飛行機が佐渡村開拓団の畑に不時着をしました。これ
を敵襲来と勘違いした長野県の開拓団の人たちがソ連の飛行機を攻撃してしま
いました。
 このことがソ連に伝わり大反撃をくらい、集団自決という惨事となったのでした。
避難した佐渡村開拓団にも後に中国残留孤児を生みだす悲劇が訪れていまし
た。もし、日本の降伏があと十日早ければこの悲劇はおきなかったのにと悔や
まれて仕方ありません。

 終戦を境に、ソ連は、満州に攻め入り、略奪、強姦、殺人などの悪の術をつ
くしました。一般開拓団、佐渡村開拓団にもソ連は攻め込んできました。この
ソ連の魔の手から逃れるべく、昼間は、背丈より高いとうもろこし畑の中で身
を隠し、夜間に南下しようとしていました。運悪く、心無い満人にも出くわし、
ソ連と同じように略奪、強姦、殺人を繰り返し、行く手を遮られてしまいまし
た。

 移動中、どうしても小さい子供が足手まといとなってしまいます。鳴き声で、
こちらの場所がわかってしまうのです。わかってしまうとソ連に見つかり犠牲
者が増え、今までの苦労が水の泡となってしまいます。こんな中、しかたなく
自分の子供に手をかける人がいるほどでした。

 この非人道行為をしなければ、生きてゆけません。そうしないと子供の泣き
声でソ連に見つかり、みんな殺されてしまいます。泣く泣く、自分の子供に手
をかける人もいました。どうしても、それができず、近くの親切な満人に、自
分の子供を預け、中国人として育ててもらうよう頼んだ人は、少なくありませ
んでした。この子供たちは、のちのち中国残留日本人孤児として産みの親から
引き離されてしまう運命をたどりました。
中国残留日本人孤児という、たった数文字の言葉の中に多くの日本人の涙と
苦難、そうしなければ生きていけなかった宿命が凝縮されているのです。

満州との最後の別れ

 黒河は、国境に位置していたため、関東軍の重要拠点でした。この地には、頑
強な防衛設備が備えつけられ、ソ連を攻め込ませないようになっていました。

 そこはまさに最前線。ソ満国境の黒竜江(アムール川)がすぐ見えました。こ
の河は、河幅約五〇〇メートル。水が澄んできれいな河でした。この一ヶ月間、
汽車に乗りっぱなしでしたので風呂には入れず体が汚れていました。この日は天
気もよく皆、河に入り体の汚れを落としていました。

 これから、この河を渡ってソ連領へはいるのです。向こう岸のソ連の街の様子
を見入っていました。日本は戦争に負け、これからどうなるものか不安がありま
した。うすうすとこれから満州を離れ、もう二度とここへ戻ってこれないことが
わかりました。これが満州での最後の水浴であろう。

 体を洗いながら、私がずっと描いた満州開拓の夢は、このときにもろくも崩れ
たのでありました。力が抜けました。このときの思いは、無念の一言ではすまさ
れない気持ちでした。十五のときから親元を離れ、満州の広大な土地を耕し、そ
れを自分の土地とし、収穫を喜ぶ姿ばかりを夢見ていました。この夢をかなえる
ために、どんな苦労もしました。どんな悔しい思いもしました。これを肥やしに
して耐えてゆけば絶対に自分の成長になることを信じ、頑張ってきました。しか
し、戦争によって、この夢は引き裂かれ、今までの努力が無残にも崩れた瞬間で
した。

 黒河から対岸のソ連領ブラゴエチンスクへは渡し船で渡りました。ブラゴエチ
ンスクに上陸すると、マンドリンを携えたソ連兵がそこにいました。
つくとすぐにソ連兵は、「トーキョーダモイ」(東京帰国:日本へ帰国させ
るぞ)を我々に何度も何度も言ってきました。私たちは、日ソ不可侵条約を平気
で破って満州に攻めてきたソ連のことですから、この話は信用していませんでし
た。

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