シベリア抑留の悲劇

こんな日本人がいたことを書き上げてゆきます。

シベリア抑留

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満州との最後の別れ

 黒河は、国境に位置していたため、関東軍の重要拠点でした。この地には、頑
強な防衛設備が備えつけられ、ソ連を攻め込ませないようになっていました。

 そこはまさに最前線。ソ満国境の黒竜江(アムール川)がすぐ見えました。こ
の河は、河幅約五〇〇メートル。水が澄んできれいな河でした。この一ヶ月間、
汽車に乗りっぱなしでしたので風呂には入れず体が汚れていました。この日は天
気もよく皆、河に入り体の汚れを落としていました。

 これから、この河を渡ってソ連領へはいるのです。向こう岸のソ連の街の様子
を見入っていました。日本は戦争に負け、これからどうなるものか不安がありま
した。うすうすとこれから満州を離れ、もう二度とここへ戻ってこれないことが
わかりました。これが満州での最後の水浴であろう。

 体を洗いながら、私がずっと描いた満州開拓の夢は、このときにもろくも崩れ
たのでありました。力が抜けました。このときの思いは、無念の一言ではすまさ
れない気持ちでした。十五のときから親元を離れ、満州の広大な土地を耕し、そ
れを自分の土地とし、収穫を喜ぶ姿ばかりを夢見ていました。この夢をかなえる
ために、どんな苦労もしました。どんな悔しい思いもしました。これを肥やしに
して耐えてゆけば絶対に自分の成長になることを信じ、頑張ってきました。しか
し、戦争によって、この夢は引き裂かれ、今までの努力が無残にも崩れた瞬間で
した。

 黒河から対岸のソ連領ブラゴエチンスクへは渡し船で渡りました。ブラゴエチ
ンスクに上陸すると、マンドリンを携えたソ連兵がそこにいました。
つくとすぐにソ連兵は、「トーキョーダモイ」(東京帰国:日本へ帰国させ
るぞ)を我々に何度も何度も言ってきました。私たちは、日ソ不可侵条約を平気
で破って満州に攻めてきたソ連のことですから、この話は信用していませんでし
た。

さらば満州

 黒河は、国境に位置していたため、関東軍の重要拠点でした。この地には、頑
強な防衛設備が備えつけられ、ソ連を攻め込ませないようになっていました。
そこはまさに最前線。ソ満国境の黒竜江(アムール川)がすぐ見えました。こ
の河は、河幅約五〇〇メートル。水が澄んできれいな河でした。この一ヶ月間、
汽車に乗りっぱなしでしたので風呂には入れず体が汚れていました。この日は天
気もよく皆、河に入り体の汚れを落としていました。

 これから、この河を渡ってソ連領へはいるのです。向こう岸のソ連の街の様子
を見入っていました。日本は戦争に負け、これからどうなるものか不安がありま
した。うすうすとこれから満州を離れ、もう二度とここへ戻ってこれないことが
わかりました。これが満州での最後の水浴であろう。

 体を洗いながら、私がずっと描いた満州開拓の夢は、このときにもろくも崩れ
たのでありました。力が抜けました。このときの思いは、無念の一言ではすまさ
れない気持ちでした。十五のときから親元を離れ、満州の広大な土地を耕し、そ
れを自分の土地とし、収穫を喜ぶ姿ばかりを夢見ていました。この夢をかなえる
ために、どんな苦労もしました。どんな悔しい思いもしました。これを肥やしに
して耐えてゆけば絶対に自分の成長になることを信じ、頑張ってきました。しか
し、戦争によって、この夢は引き裂かれ、今までの努力が無残にも崩れた瞬間で
した。

 黒河から対岸のソ連領ブラゴエチンスクへは渡し船で渡りました。ブラゴエチ
ンスクに上陸すると、マンドリンを携えたソ連兵がそこにいました。
つくとすぐにソ連兵は、「トーキョーダモイ」(東京帰国:日本へ帰国させ
るぞ)を我々に何度も何度も言ってきました。私たちは、日ソ不可侵条約を平気
で破って満州に攻めてきたソ連のことですから、この話は信用していませんでし
た。

 八月九日のソ連の宣戦布告で満州にいた多くの日本人は筆舌に尽くしがたい
体験を強いられました。
ソ連が攻めてくることは、この年の四月、ソ連から日ソ不可侵条約の不延長
が通告されたときに予想はできていました。八月九日の宣戦布告し参戦してき
たときは、関東軍関係者とその家族はいち早く新京駅発平壌行きの汽車に乗り
非難しましたが、大多数の満州移民は、取り残されソ連による悲惨な仕打ちを
受けたのでした。

トーキョーダモイ

 近くの駅から汽車に乗りました。貨車に乗せられたので外の景色は見えません。
汽車は北上しているようでした。汽車の中で上官からの伝言が伝えられました。


 南方へ行く汽車が不通なので、これから北へ迂回しウラジオストック経由で日
 本へ帰国する。

 という内容でした。

 私は、上官からの指示なので日本へ帰れると思っていました。しかし、心の隅
では、不可侵条約を破ったソ連のことだから日本へ帰れるのは嘘であろうとい
う考えもありました。
 汽車の中ではソ連兵が「ダモイ、ダモイ(帰れるぞ!帰れるぞ)」と叫んでいま
した。

 貨車に入れられたので外の景色が見られるのは食料の調達のときだけでした。
新京の駅に止まったときでした。日本の敗戦を機に南下する汽車、北上する汽
車で駅構内は混雑していました。全ての汽車は日本人でギュウギュウ詰めの状態
でした。日本の戦車が今まさに貨車に乗せられどこかにもっていかれようとして
いました。
 戦火の影響でしょうか、それとも内乱のせいでしょうか汽車は、ひとつの駅で
何日も停車するときが多くありました。一ヶ月あまり汽車に乗せられていました。
汽車の中では、どこからソ連へ渡るのかが予想されていました。
汽車は北上しているということは、黒竜江を渡るのだろう・・・・。
そうすると渡し舟がある港町だろう。
多分、黒河だろう・・・・。
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私の頭上で何かが爆発しました。空から流散弾が降ってきました。なにか腰の
あたりに違和感がありました。ソ連の流散弾を腰にうけたらしく、触ってみると
血がベットリとついていました。

このときは戦闘で気が張っていたせいか、あまり痛みは感じませんでした。足
も動くしシビレもありませんでした。腰の怪我も気にかけず攻撃に専念しました。
夕方になるとソ連側から弾が飛んでこなくなりました。今日の戦闘はこれで終
わりだと気づきました。目の前は、日本軍の死体なのかソ連軍の死体なのかわか
らないぐらいメチャメチャの状態でした。日本は、歩兵隊の被害が大きく、ほぼ
全滅に近い状態でした。やはり日ソ不可侵条約でソ連が攻めてこないことを想定
してソ満国境が手薄になったのが原因でした。

私は腰の怪我の治療を衛生班の人から施してもらいました。このときは既に腰
の血も止まり、上傷だけだと思い消毒と傷薬を貼ってもらいました。しかし、こ
の怪我は、想像以上に重傷でした。帰国後、腰の状態を見てもらうと腰の骨の一
部が砕けており、入退院を繰り返すほど大きな傷でした。
日本軍は、いったん退却し、宿舎まで引き上げました。明日に陣を整え、新た
に攻撃する予定でした。正直、私は明日の命はもうないものと覚悟をしていまし
た。人を殺さなければ自分が殺されてしまう。生きて帰れないことを覚悟すると
かえって開き直って落ち着いていることができました。

八月十五日の朝

出陣の準備をしていたときに上官から大事な命令があるので近くの学校の校庭
に集まるよう指示をうけました。何だろう?どんな命令が下るのだろう?最後の
訓示なのか?玉砕の命令が下るかもしれない。

私たちは近くの古びた学校に集合しました。ラジオを真ん中にして皆、輪にな
っていました。これから天皇陛下の玉音放送があるということでした。まさか私
の位で天皇陛下のお声を聞けるとは思ってもいませんでした。
耳をラジオに傾け、皆緊張していました。約一〇分にわたる玉音放送は、日本
の降伏すなわち敗戦を意味するものだとわかりました。私たちは、このとき日本
はじまって以来の敗戦を実感したのでした。

一気に心苦しさ、不安が襲ってきました。私は、今まで国のために闘ってきま
した。この敗戦により、もう戦う意味がなくなりました。これからは無駄死にし
てはならないと思い、急に私は命の大切さを実感するようになりました。しかし、
私は、満州開拓のを夢見、故郷を捨ててきました。私には帰る場所がないのです。
これからどうしよう?益々不安が大きくなってゆきました。

ソ連が野砲の射程距離の範囲より中にはいった! 歩兵隊突撃!

この命令と同時に十数名の歩兵隊が私の横から出撃しました。弾丸が降りしき
る中、敵に向かって突進してゆきました。ホフク前進し、ソ連の攻撃の合間を見
て、敵に攻撃をしかけます。

ソ連は、戦車以外にマンドリンという一度に一〇〇発乱射できる機関銃を持っ
ていました。この機関銃の正式名はPPSh―41といい、第二次世界大戦が終
わるまで五百万挺以上生産されていました。ソ連軍の兵士たちは、このPPSh
―41を首から吊って携行し、この格好がロシア古来のバラライカという楽器に
似ていたため、通称バラライカと呼ばれていました。日本の兵士はバラライカと
いう楽器を知らなかったため、マンドリンと呼んでいました。ソ連はマンドリン
を使って向かってくる日本の歩兵隊へアラレのように弾をあびせてきました。ま
るで掃除をするかのように撃ってきました。

歩兵隊は、まず、マンドリンをもったソ連兵士に狙いを定めました。銃を打ち
続け敵戦車に向かって箱爆弾をもって勇敢に戦車に突っ込んでゆく姿がありまし
た。途中、戦車にたどり着けずマンドリンに撃たれた兵士が多くいました。
ある日本兵は箱爆弾と共に敵といっしょに自爆をしていきました。戦車にたど
りつき、上に登りハッチを開け銃剣でソ連兵を突き刺す勇敢な日本兵がいました。
壮絶な殺し合い、生き地獄でした。

時間がたつにつれ、日本軍の犠牲者が多くなってきました。だんだんとソ連兵
とソ連戦車の姿が大きくなってきました。武力の違いは明らかでした。
私がいた野砲では、照準機で敵の位置を知らせていた二番砲手の戦友が、いつ
のまにか倒れていました。「撃て」の掛け声がないがないのでおかしいと思ってい
ました。よく見ると右目から血を流して死んでいました。直系五センチの照準機
から敵のマンドリン機関銃の弾が当たり右目から頭を打ち抜かれて即死の状態で
した・・・・。

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