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                         我が町内会『森(もり)房(ぼう)』の名の由来考察
                                                                                森房住人 菊地義昭

 森羅万象全ての名前には、その名が付けられた際、何らかの謂われなり歴史があるもので、それぞれの地域の名称にも、その土地に関連した謂われなり歴史があるものです。 私の住む亘(わた)理(り)町の「亘理」と言う名は続日本紀の中の養老二年(718年)五月二日の条に「曰理郡」との記載があり、その後江戸期に「亘理」と書かれる様になり、明治の町村制施行時に町名となった。この「曰理」の名は、大宝律令に依り国郡里制が施行された際、全国に幾つか「曰理郡」が設けられ、また「駅(うまや)」も「曰理(和多利・渡利)駅」として設けられた。その多くは川(河)や海を渡る地に名付けられていたが、現在市町村及び郡名で「亘理」の字で残っているのは、我が町「亘理」だけです。

 次に私が住んでいる地域の名「逢(おお)隈(くま)」は、逢隈田沢の地に鎮座する「安(あ)福(ふく)河(か)伯(はく)神社」から川の名が「阿(あ)武(ぶ)隈(くま)川」や「大熊川」「逢隈川」「合曲川」と古書に書かれ、そこから「逢隈」に成ったとある。その元はと言えば、その昔関東以北に居た先住民蝦夷(えみし)が水神山に沿った入江を「アブクマベツ」と呼んでいたと、現在逢隈の早川地区に在る亀甲松公園内の石碑に書かれています。または阿武隈川と陸前浜街道(現在の国道6号線の逢隈神宮寺辺りから上郡より田沢岩地蔵に抜ける道)が逢(あ)わさった隈(すみ)に在ると言う事からではないかと書かれたものもある。
《参考図書:阿武隈川下流域の地名・伝説の考察》

 では以前から私が気になっていた、私の住む町内会名「森(もり)房(ぼう)」(湯桶読み)はどの様な謂われや歴史が有るのかを、幾つかの資料を踏まえながら、私見ではあるが考察してみたいと思います。
 逢隈の地に「森房(もりふさ)」の名が文献に出て来るのは「亘理町史(上巻)」P126〜P129に平泉滅亡後逢隈の地に勢力を張っていた十文字氏が相馬氏と同盟を結んだ際に妙見社の建立を勧められ、逢隈の地に妙見社を数社正中二年(一三二五)以降永享一二年(一四四〇)の間に建立した一つが「森(もり)房(ふさ)妙(みよう)見(けん)社(しや)」(現在の森(もり)房(ぼう)早(はや)川(かわ)神社)だったのではと。
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 また文献に書かれているものとしては、寛永年間に仙台藩として検地を行い検地帳が作成された中の寛永一九年(一六四二)に、逢隈の田沢村検地帳が現在も残っていて、それに「もり房(ふさ)早川屋敷与五兵衛外十三人」とある。また安永年間(一七七二年〜一七八一年)に仙台藩が藩内の各村に作らせた「安永風土記御用書出」の田沢村の中に「当村境川窪ト申所ヨリ端郷森房」「一端郷 一森房 肝入別二」と書かれている。だが「森房」の名の由来らしきものは何処にも書かれていない。《因みに「端郷」とは村の中に村規模の戸数が有る地域を村に準ずるものとして肝入(村の長、管理者)も別に置かれる。》

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 私が初めて「森房の名の由来を聞いたのは、地元「森房早川神社」の何かの行事の後に行われた直(なお)会(らい)の席で、隣り合わせになった地域の先達から「昔この辺りに高(たか)畠(はたけ)森房(もりふさ)と言う武将が居て、その名からだよ」と。
で早速その名をネット検索したがヒットせず、次に高畠とは違う姓を「○○森房」と入れ替えていろいろ検索したがひとつもヒットしなかった。(実は亘理の郷土史「郷土わたり」の第三七号P33に『その昔「早川の宿」に高(たか)畠(はたけ)森(もり)房(ふさ)という長者の家があったので、今はこの地区を「森房、早川」と称せられ』と書かれている事を郷土資料館の方から教えて頂いた。)
そこでもう二十数年前に購入し、事ある毎に利用している日置昌一氏監修の「日本系譜綜覧」から見付けようと考え、まず初めに名に「房」の字が付く様になったのは初代藤原鎌足の孫に藤原「房(ふさ)前(まえ)」が居て、それ以降貴族や武将名に「房」が使われる様になり、特に房前の子孫の藤原北家では「房」の字が「通(とおり)字(じ)(日本の特定の家系において、代々にわたって名前に用いられる字のことである。)」としてよく使われていたので、藤原氏北家を中心に調べてみたが「森房」と書かれた名は一人も居なかった。
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 他の武家の中にも「房」の字が付いた武将名は、これまで幾つか散見されていたので、今度は「もり房 武将」で検索してみると、鎌倉幕府の執権北条氏の一族の中に北条盛(もり)房(ふさ)なる者がヒットしたが、しかしこの人物と当時の曰理や逢隈の地とは何ら関係なく、森房とは縁も所縁(ゆかり)もないと思われたので、 その他の武将名を探してみたが「もりふさ」と言う武将は調べられる範囲では探し得なかった。
勿論「橘」にも、源・平にも。ここで初心に戻り「森房」だけでネット検索してみることにしたら、日本刀の鍛冶師に「舞(まい(も))草(くさ)森(もり)房(ふさ)」と言うのを何点か見付けることが出来た。そこで今度は「舞草森房」で検索すると、何やら非常に面白そうな展開になる事が、いろいろと書かれてあった。
  先ず安永二年(西暦1773年)に相原友直が著した「平泉雑記」に森房の名が書かれているので、これを載せておく。

            平泉雑記 巻之二 相原友直著
  鍛 冶(舞草)   (三十六)
舞草村ハ岩井郡東山ニ在リ、延喜式ニハ舞草ニ作レリ、平泉ニ不遠、昔ノ鍛冶住居ノ址、観音堂ニ近キ處ニ在リ、郷説ニ、往昔頼義・義家両将軍賊徒征伐ノ時、都ヨリ鍛冶ヲ召下シテ、此地ニ居シメ太刀ヲ造ラシムルト云、其子孫秀衡ノ時マテ此地ニ住ケルト云リ、文壽・寶寿・舞種・諷誦・森房等、舞草・平泉ニ住スト云、詳ナルコトハ鍛冶傅ヲ考テ知ルヘシ、平泉大阿弥陀堂ノ燭臺二脚、舞草太郎森房造之奉納ス、今ニ相傅フ、
○今東奥大守公ニ森房力作ノ長刀アリ、亀井六郎重清カ持處ナリ、此事末タ載ス、
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 さて「舞草森房」とは如何なる人物で、いつ何処で活動していたのかを書きたいが、鎌倉時代に書かれた京都東寺観智院に伝わる刀剣古伝書「観智院本」や前出の「平泉雑記」等数点に名があるだけで、その銘が切られた刀剣等が現存するものがない。舞草刀鍛冶が関係した事を記した書物には必ず出て来る名で、そのことから平安中期以降には活動していた刀鍛冶集団「舞草」に確かに居た人物、一派であるが、ではこの「森(もり)房(ふさ)」の名が、現在の亘理町逢隈の「森(もり)房(ぼう)」とどう言う繋がりが有ると思うのかは、刀鍛冶集団舞草について、もう少し書いてから説明したいと思います。

 刀鍛冶集団「舞草」は、或る書物には前九年の役の際、源頼義・義家が奥州に連れて行った刀鍛冶の「舞草雄(ゆう)安(あん)」が安倍貞任に奪われ、その後奥州に住み着き、平泉の近くに刀鍛冶の工房を設け、そこで日本刀を多く作ったことからとあるが、前九年・後三年の役に最終的に勝利したのは頼義・義家側なのだから、戦いが終わったら都へ連れ帰るのが普通だが、それなのに奥州に残ったと言うのは考え難い話しである。それよりも当時の東北地方は沢山砂鉄が採れ、奥州独特の蕨手刀(わらびてとう)等が多く作られていた事から考えると、以前から東北地方には刀鍛冶集団は居たと思う方が自然である。

 事実東北の地には「舞草鍛冶(岩手)」の他に「月山鍛冶(山形)」「玉造鍛冶(宮城)」と言う当時名の知れた刀鍛冶集団が居たと古書にあり、前出の「平泉雑記」に舞草鍛冶集団が現在の岩手県南部の平泉に近い一関市舞川大平の舞草神社の辺りに在り、それまでの刀と言えば「直刀」だったものが、舞草刀鍛冶たちが作ったとされる刀は「湾(わん)刀(とう)」と言われる反りの有る日本刀が生み出され、その後日本中の刀鍛冶に広まり「湾刀=日本刀」に成ったと言われています。

 その舞草刀鍛冶集団には前出の「観智院本」に多くの工人の名が書かれていますが、それらの名を一人一人調べてみると、九世紀から十六世紀と、約八世紀に渡って同じ工人の名が現れるのである。(雄山閣出版社の日本刀銘鑑より) これは舞草刀鍛冶集団の中に、同じ舞草刀を作りながら、それぞれ独立した刀鍛冶の一派が居て技を競いながら、代々名を継いでいったのであろう。「森(もり)房(ふさ)」の名も同じだと思われます。

 では何故宮城の県南亘理逢隈の「森(もり)房(ぼう)」と舞草刀鍛冶「森(もり)房(ふさ)」が関わり有るのではと、私が思うのかは、藤原三代の初代藤(ふじ)原(わらの)清(きよ)衡(ひら)の実父が、当時の曰理の地を領していた曰理権(わたりごんの)大(たい)夫(ふ)藤(ふじ)原(わらの)経(つね)清(きよ)であったこと。そしてその事は清衡からすると曰理の地は、父祖からの大事な土地であった筈で、平泉の次に想いがあったのではないかと思うのです。奥州藤原三代の時には、福島の白河以北がその版図に入っていて、曰理の地も経清の孫に当たる藤(ふじ)原(わらの)清(きよ)綱(つな)が祖父の地に一時期ではあるが住んで治めていた事もあり、当時の平泉と曰理の関係は、交通の便が良くなた現在、亘理インターから平泉前沢インターまでを自動車専用道路だけで距離を測っても約130キロ以上有るが、その距離よりも曰理の地は「平泉二不遠」だったのではと思うのです。

 清綱はその後曰理から平泉に戻ったとされ、その子の俊衡の代には、平泉の北に位置する紫波郡から盛岡市厨川までの地を与えられ「樋(ひ)爪(づめ)・日(ひ)詰(づめ)」氏を名乗ったとあるが、では平泉は清綱以降曰理を誰に治めさせたのか?
平泉が滅ぼされるまで誰も曰理を治める者が居なかった筈はなく、曰理権大夫と言われた祖父の経清と、曰理権十郎と言われた清綱。二人以外に「曰理権何々」と言われた人物は伝わっていないし、曰理の地をぞんざいに扱う筈もないから、藤原氏の血を受け継ぐ者に曰理を治めさせた筈で、奥州藤原三代約百年の間に、平泉から舞草の刀鍛冶を曰理の地に連れてきて、刀を作らせていた事は十分に考えられる。

  その根拠のひとつに、同じ亘理郡の山元に、今から約千三百年〜千二百年近く前の平安前期に鉄を作っていた製鉄炉の施設二箇所「犬塚遺跡」「川内遺跡」が見つかっています。製鉄をしていたと言う事は、その原材料の鉄はどこから?と疑問に思うかもしれませんが、それらの遺跡から程近い、福島県相馬地方の太平洋側「浜通り」と呼ばれている所で砂鉄が採れていたのです。
また「須賀(スカ)」と地名が付く所は、砂鉄が採れた「タタラ製鉄」の土地として有名であり、全国各地に多く在ります。阿武隈川河口手前の亘理荒浜に「高須賀(森房から東に約4キロ)」が在り、その対岸岩沼市側にも「西須賀原」が在ります。因みに前出の犬塚遺跡の所にも「須賀窪」や「須賀ノ田」と言う地名が在ります。
これらの事からも、当時の曰理郡には刀を作る為の鉄は十分に供給できるだけのものは有ったことが分かる。

 では、刀鍛冶の「森(もり)房(ふさ)」なる人物、或いは一派が曰理の地に来たか?それを知る手がかりに、平泉の近くに在る「舞草神社」及び舞草刀に関する資料が沢山有る「一関博物館」に行き、直接話しを聞いてみることにした。
  神社のホームページに宮司の連絡先が載っていたので、神社に到着してその連絡先に掛けてみたが「現在使われて下りません」とのアナウンス。
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 仕方なく写真だけ撮って一関博物館へと向かい、受付で舞草刀に詳しい方にお話を伺いたいとお願いすると、副館長で学芸係長をされている小岩氏にお忙しい中、約30分近く私の話を聞いて対応して頂きました。
私が亘理から来たと言うと、亘理権大夫経清の名も直ぐに口から出て来たし、舞草刀に関しては専門家でありますから、とても勉強になる事ばかりでしたが「森(もり)房(ふさ)」と同じ漢字で書く「森(もり)房(ぼう)」と言う町内会名が亘理に有った事には驚かれていました。
ただ話しの最後の方で「森(もり)房(ふさ)」が「日本刀銘鑑(本間薫山校閲 石井昌國編著)」に「森(もり)房(ふさ)は(津軽)浪岡へ(か)」と書かれていて、亘理に行ったと言うことは疑問があり、何とも言えないと。

 ネットの中にもそれが書かれていたし、その後の活動等が歴史上一切無いとは分かっていたので、それ以上突っ込んでお話を聞くことは出来なかった。
そこで今度は亘理に戻り、青森県の浪岡町に刀鍛冶「森(もり)房(ふさ)」の伝承なり、何らかの痕跡が有るのではないかと電話連絡してみることにしたが、平成の大合併により「浪岡町」は2005年に青森市と合併していたので、青森市のホームページから浪岡の歴史を扱っている部署を探し、歴史資料室担当者に事情を説明して話しを聞いてみた。
  すると浪岡の歴史には伝承も含め「森(もり)房(ふさ)」なる刀鍛冶の事は聞いたことが無いと言われ、では「平泉が滅ぼされた後、藤原氏の誰かが浪岡に逃れて来た事は?」と聞くと、それも伝承の範囲で、実際はその様な歴史的資料も遺物も無いとのこと。そうこう話しをしていると、担当者から「(青森)県の郷土館で二年前(平成二八年)に、刀の特別展をされて、多くの資料を集められていたから、詳しいことを聴けるのでは」と言われ、そちらの連絡先教えて貰い、今度は青森県立郷土館で聞くことに。
郷土館に連絡して受付の方に事情を説明して分かる方をお願いすると、二年前の夏に特別展『刀剣魂』を担当された学芸員の方に替わって貰い、歴史資料室で話した事と同じことを話しすると、当時の津軽地方の歴史は文字として残されているものは無く、残っているのは室町以降で、森(もり)房(ふさ)の事も平泉の藤原氏の事も分からないとのこと。そして浪岡の刀鍛冶に関しては、十五世紀に浪岡(北畠)氏が舞草刀鍛冶の森(もり)宗(むね)の一派を招いて刀を作らせ、それ以降浪岡の地に刀鍛冶が居たことは、資料でハッキリ残っていると教えられました。
そんな話をしていたら、学芸員の方が「『もりふさ』の様な名の刀工が鯵(あじ)ヶ(が)沢(さわ)の方に居たと聞いた事あるから、そちらで聞いてみては」と言う事で、今度は鰺ヶ沢町役場の担当課に電話して、これまでの経緯と、県立郷土館で紹介して貰った旨を話すと、ここでも「森(もり)房(ふさ)」なる刀鍛冶は聞いたことがないが、昭和20年代に旧鳴沢村の村長もされた郷土史家の方が、村の湯舟(刀を鍛える為に焼き入れ用の水・湯を入れてある水槽)地区に鎮座する高倉神社の由来を調べてて、そこの刀工が「猛(もう)房(ふさ)」であったと、当時の村の郷土史に書いたと。この「猛房」なる刀工も舞草刀鍛冶の中に名が見えます。
  以上一関博物館から浪岡、青森市歴史資料室、県立郷土館、そして鰺ヶ沢町と「森(もり)房(ふさ)」を追って来たが、何処にも伝承の欠片さえ無かったし、「日本刀銘鑑」に書かれている「森(もり)房(ふさ)」が浪岡或いは津軽へ行ったとされるのは、実は舞草の別の刀工であった様である。若しかすると「森宗」と「猛房」から、後世の人が「森房」と思ったのではないだろうか。
とここまで書いてきた事から、私が考える平泉から曰理の地に舞草刀鍛冶集団の「森(もり)房(ふさ)」なる人物或いは一派が来て、鍛冶場を設けて刀や鉄製品を作って居た事の証明には成らない事は分かるが、然りとて「森房」の影も形も無かった浪岡や津軽よりは、我が町内会名の「森(もり)房(ぼう)」の方が「森(もり)房(ふさ)」に近いのではないだろうかと思うのであります。そして歴史的大発見か何か無い限り、これ以上の事は分かる筈もありませんから、これが絶対だとは言えませんが、森房住人がこんな想いを綴ったと、後はここまで読まれた皆様の判断に任せ、ご笑納下さい。
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  • 更新お疲れ様です。
    よく調べられましたね。歴史研鑽は一つ一つの史実を探ろうとすることから始まり、その中で大きな流れを掴むことが肝要と心得ます。サクラパパさんの今回の尽力で「森房地区の由来」に関する大きな流れのようなものが掴めた気が致します。これは立派な論文であると認識しております。
    御礼
    サクラパパさんのおはからいにより、郷土史に関する己の見聞を広めることができました。掲載に感謝しております。ありがとうございます。

    横町利郎

    2018/10/29(月) 午前 5:02

  • 横町さん、大変なお褒めの言葉有難う御座いますm(_ _)m

    郷土史家の横町さんや他の歴史を愛するいろんなブログに目を通して、多々勉強させられる事が有り、それらに少しでも近づける様に頑張ったから、ここまで書けたと思いますが、まだまだ力が及ばないばかりです。
    これからも宜しく御指導、御鞭撻をお願いします。こちらこそ有難うございましたm(_ _)m

    [ サクラパパ ]

    2018/10/29(月) 午後 11:07

  • 顔アイコン

    はじめまして、

    横町さん繋がりで訪問させていただきました。
    又、母が南館出であり、叔母や叔父が早川、逢隈の大森山に住んでいたので、亘理の由来など興味深く読まさせていただきました。

    今は、日本刀の源流は月山、平泉、玉造鍛冶が西に連れ去られて、各地の日本刀集団になったというのが定説として認められている、そうですが、文明は西からという先入観があり、認められるまでだいぶ抵抗があったようですね。
    都から刀鍛冶を連れてきて・・・云々もその部類でしょうか。

    蕨手刀、舞草刀の収集に関しては、岩出山の中鉢刀剣博物館が、積極的に行っているようです。

    この度は横町さん繋がりで興味ある記事に出会えました。
    これからもよろしくお願い申し上げます。

    ginrin

    2019/1/20(日) 午後 3:20

  • ginrinさん初めまして、そして遅くなりましてすみませんm(_ _)m

    私の稚拙な文章をお読み頂きありがとうございます。

    ginrinさんの書かれている様に「文明は西(権力者=朝廷)から」で、当時の多くの事が大和朝廷によって書かれ、それ以外の滅ぼされた者たちの歴史は抹殺され書き換えられていますから、掘り起こすのに大変です。

    岩出山の中鉢刀剣博物館ですか、今度行ってみます。

    遅筆でなかなかblogを更新しない私ですが、こちらこそ宜しくお願いします。m(_ _)m

    次は逢隈の十文字氏について考えを纏めて居ますので、もう少ししたら、アップしますのでご期待下さい。

    [ サクラパパ ]

    2019/2/14(木) 午後 8:32

  • 顔アイコン

    初めてお邪魔致します。
    私も出身が亘理なので、とても興味深く拝見しました。
    実は、私は岩出山の中鉢美術館での刀剣講座受講生です。
    先日、中鉢館長が森房の事を話していらっしゃいました。
    こちらのHPの事を伝えましたら、是非お会いしたいとのことでした。
    土日は基本的に美術館にいらっしゃいますが、お越しの際はご連絡くださいとのことでした。

    [ ]

    2019/4/6(土) 午後 4:50

  • あ❗遼さんお初、そして遅くなりましたm(_ _)m

    ほぉΣ('◉⌓◉’) 中鉢美術館で刀剣講座が開かれているのですか・・・私も受けたいけど、我が家からはチト遠いですねぇσ(^_^;)

    それに館長さんへ森房(もりぼう)の事を話して頂いたのですかm(__)m感謝

    4月中はあれこれと総会及びその報告資料作りなどがあり、行けませんが、5月になったら、時間を作り是非とも行きたいと思います。

    有難うございました。m(_ _)m

    [ サクラパパ ]

    2019/4/16(火) 午後 9:11

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