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- 第四十六回 大阪城炎上のあらすじ -
慶長19年(1614)秋、米沢城へ伊達政宗が「徳川秀忠から御用を申し
付けられた」と訪れていた。政宗は告げずに腹の中しまおうかと考えたが
秀忠公はこの度の戦を避けようとしていたのを兼続に告げ去った。
駿府城にいる徳川家康と秀忠がいる城へ、兼続が一つ気がかりな点があると言い
訪れていた。家康がもったいぶらず何じゃ?とまぎらわしく聞くと
秀吉が亡くなる前の五大老制度や、前田利家が亡くなる床でも家康は誓った
はずだが、此度の豊臣攻めは度重なる約束を破るのでしょうか?
と兼続が聞き、今回の戦は義の無い戦なのでしょうかとニヤニヤしながら質問した。
家康は何故義が無い戦と知りながら、我に味方すると聞くと
兼続は秀忠公に望みをたくしている故と話した。家康は「そなたの気がかりに
答えたやろう。約束など昔のこと。今は徳川家を磐石にすること。
それしか考えておらん。どうじゃこれで満足したか?」と語った。
それを聞いた隣にいた秀忠は「父上、それでは我が娘はどうなります?
千は豊臣家と徳川家の盟約の証。」と聞くと、家康は「仕方なかろうが・・」
と顔を濁らせその場を去った。秀忠は兼続に「あれは私に聞かせたかったのだな」
と聞くと、兼続は「ハイ」と一言答えた。秀忠は同じ過ちを繰り返さぬよう
しかと意思を受け取ったと兼続に話した。
兼続は米沢に戻り、お船とこの度の戦は断腸の想いだが徳川家について戦わねば
ならないだろうと話していると、息子の景明がやって来て
「此度の戦に私も出陣したいと思います」と言って来た。
お船はそなたは病弱だから駄目だと言い聞かせたが、兼続は「こやつにも戦場を
見せておかねばならぬ。戦場とは人を殺さねばならぬ所だ。その苦しみをしかと
学ばねばいけぬぞと」と話、景明を連れて行くことにした。
10月になると家康は大阪城攻めの書状を出した。
それに対し豊臣家は真田家をはじめ、各地の浪人を招き対抗しようとした。
そして11月、大阪冬の陣が始まった。大阪城を取り囲んだ徳川家の軍勢は20万
対して豊臣家は12万で、そのほとんどが浪人で大阪城に馳せ参じた大名は
一人もいなかった。戦は双方手詰まりとなり、家康は大阪城の外堀を埋めるという
条件で豊臣家と和議を結び、戦を一旦終了させた。
次の年になると、兼続は病気がちの景明を看病しながら語らっていた。
そこに使者がやって来て、兼続が夜に向うと真田幸村が合いに来ており
同じ陣で酒を酌み交わすことも無くなりましたなと話し、外で酒を酌み交わした。
幸村は「家康は必ずまた攻めかかってきましょう。まる裸の今のお城では、
もはや勝ち目は無い、懇情のお別れでございます。」と話し兼続の元を去ろうと
した際に、兼続は「千姫様を助けてはくれぬか」とだけ最後に伝えた。
それから家康は豊臣方に、大阪城に残る浪人を追放するか、城を明け渡すように
言って来た。淀は怒り何としてもこの城に留まる決意をした。
福島正則は家康に「やり方は汚すぎる!」と言ったが、
家康は「貴様は江戸へ留まるように言ったはずじゃ」と話し、福島を足蹴りした。
そして徳川は大阪城を攻めた。上杉の陣に真田から矢文が届くと
兼続は炎上したガレキの大阪城を調べ、千姫が生存していないか探していた。
真田幸村が亡くなる前に、この辺りにいると手紙で兼続に教えたのだ。
その後、兼続は井戸で千姫を発見し、家康と秀忠の居る所へ届けた。
千姫が淀や幸村から救われた話を家康は聞いて、泣きながら豊臣の義を感じていた。
兼続は景明と共に焼けた大阪城で手を合わせ、「ようやく長き戦が終わったのじゃ」
と言い、真田幸村の見事を褒め、涙ぐむのであった。
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