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10月24日に、京都市上京区で菅原道真を祀った北野天満宮があるが |
直江兼続
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現在も大河ドラマ天地人では、直江兼続が毎週日曜日に登場しているが |
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1月16日に山形グランドホテルで、上山市立図書館の片桐繁雄館長が 『東北の関ケ原 直江兼続と最上義光の戦い』について講演会を開いたそうな。 片桐繁雄さんと言えば、最上義光の本などを出されていて 最上義光歴史館の局長なども勤めていた方です。 去年の上山城内で開いた『慶長出羽合戦と上山の戦い』の講演会では 私も出席して話を聞いてきたのでよく覚えています。 それで講演会には会員ら約150人が参加したそうで、今回も直江兼続の 話をしつつ、最上義光の人物像を話したそうな。 谷地城主の白鳥十郎と、最上義光の弟の中野義時について話されたそうです。 白鳥十郎長久については「合戦によって多くの命が失われるのを避けた」と指摘し 中野義時は存在自体が疑問視されるものだと語ったそうだ。 まぁ、これについては私も若干の知識があるが、どちらも疑問視される内容だ。 これは後世の人が作った話という説もあるくらいで、実際あったかどうか不明なくらいだ。 それで片桐繁雄先生は、最上義光を誇りに感じ山形を築いた愛と義に満ちた人物 と言ってたそうだ。最上義光はどうもイメージが悪く、晩年の斉藤道三ぽいイメージで 見られがちだが、最上義光を調べれば調べるほど そこまで愚かな大名には見えないのだが、どうも米沢や仙台の方々が語るものとは 違うように見えるのは、未だ何らかの隔たりがあるのだろうか・・・と個人的に思った。 世間では直江兼続一色であるが、この時期にあえて最上義光こそ愛と義に満ちた人物と
語る片桐繁雄先生の度胸には驚かされるものだ。内容だけ見るとおかしな人ぽく 見えそうだが、私が見たところ資料に基づいた上での発言故 直江兼続には、少し考えさせられる部分がいくつか見当たるものだ。 戦国の世では最上義光が称され、現代の世では直江兼続が称されるとは因果なものだ。 |
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もっとも今まで歴史資料や米沢、新潟でも兼続の弟に関する資料が触れられて いないのは何故だろう?と想ったことはあったが、あまり関心が無かったのか マイナス面を公表したくなかったのかは知らないが、今回調査を行ったようだ。 それで直江兼続の弟・大国実頼は、上杉景勝の家臣として仕えていたが 関ヶ原の合戦後に、兼続と実頼は徳川家との関係を巡り意見が対立したそうで 実頼は京都で兼続の使者を殺害する事件を起こし、上杉家を追放された人物だそうな。 追放後は兼続が死ぬまで米沢に寄る事は無く、中小松に隠れ住んでいたと 史料にはそう残っておるそうだ。兼続の弟・実頼が亡くなると米沢市内の墓に 葬られたとのこと。一体米沢のどこのお墓なんだろうか・・・? 実頼は連歌を得意としたらしく、京都などに滞在しては連歌会に参加していること が調査で分かったそうです。晩年の頃には、連歌の盛んな土地に住み 連歌を詠んで過ごしていたのではなかろうか?と想像されているとか。 まだまだ謎のベールに包まれているが、手掛かりを探していきたいと語っているようだ。 結局、直江兼続の弟についての資料があまり無いことからすると
実頼の一族もその代で滅んだのだろうか・・・と思った。 確か話によると樋口家の家系の一族の者は、現在も生きておるそうです。 それで飲み会だったか集会で集まって、何か話し合いをしたとか聞いておる。 |
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上杉景勝が二代目越後藩主になると武田勝頼と同盟を結び、織田信長や小田原の北条氏に対し |




