直江兼続

直江兼続、愛の前立ての兜・上杉の武将。NHK大河ドラマ天地人や山形の米沢や新潟について。

直江兼続

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大まかな内容については、コチラの直江兼続をめぐる観光マップに記載。
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10月24日に、京都市上京区で菅原道真を祀った北野天満宮があるが
屋根の部分を修理した費用の記録の古文書が見つかったようだ。

菅原道真と言えば、学問の神として知られ日本で各地で道真公を
祀った神社は結構ありますね。受験戦争など合格祈願のため
道真公を祀った神社へ祈願しに行かれた方は結構多いのではなかろうかと思います。


それで見つかった古文書の内容は、北野天満宮を修理して費用を寄付額を
記載されたもので、その中に直江兼続が名前が記載されていた。
その古文書は天正16年(1588)の『北野檜皮葺奉加帳』の物だそうだから
直江兼続はおよそ28歳ぐらいの年齢の時に寄付したものだと推測できる。

古文書には「越後 直江山城守殿」と書かれ、寄付額は「米百石」と記載され
面白いことに、お金や黄金ではなく米でもって寄付したようだ。
米百石という寄付額は、天皇の寄付額の倍にあたるもので
兼続が学問の神・道真公を深く信仰している様も見えるものだ。


そもそも何故に越後ではなく、遠く離れた京都の地の天満宮の屋根の修理費を
出したのだろう?と言うと、兼続は生まれ故郷の越後国の一部が
室町時代に北野天満宮の領地だったため寄付したのではと藤井教授が語る。

まあ、米でもって寄付する兼続の資料を見て「この山からの雪解け水が
越後の田畑を潤し、やがて秋には豊かな米が実り賑わいます」とか天地人で
言ってる妻夫木ふう兼続が頭によぎったのは私だけだろうか(笑)
でも神社やお寺の修理費や寄付というのは、直江兼続に限ったことではなく
どこの大名でも結構やられていることです。

現在も大河ドラマ天地人では、直江兼続が毎週日曜日に登場しているが
2009年10月14日に、まだ兼続が20代半あたりの頃に
福島県の会津を領主としていた大名の葦名家(あしな)の家臣に
宛てたと見られる軍事密書が発見されたそうな。

手紙は兼続が送ったもので、「卯月(4月)十三日 兼続」と末尾に記載。
1584年に送った手紙と見られ、当時上杉の家臣だが徳川家に内通していた
武将屋代秀正を討伐する故に、軍事情報を葦名家の家臣に送ったものだと
推測されている。


兼続は武将屋代秀正の討伐のため出陣するから、その時はよろしくー
と自軍の動きも伝えているとか。
兼続の若い頃の資料は、ほとんど無く。何をしていたのかは
想像の範囲までしか割り出せなかったので、今回見つかった密書は
貴重な資料となりそうです。

密書は縦に切断されている跡があり、バラバラにして送り後で張り合わせた
ものではないかと予想されていて、密書が盗まれた時のため対処したの
だと思われる。バラバラに渡手に配り、あとで読み手が貼り合わせたということだ。
戦国の世の秘密保持の工夫が見られるものですね。

1月16日に山形グランドホテルで、上山市立図書館の片桐繁雄館長が
『東北の関ケ原 直江兼続と最上義光の戦い』について講演会を開いたそうな。
片桐繁雄さんと言えば、最上義光の本などを出されていて
最上義光歴史館の局長なども勤めていた方です。

去年の上山城内で開いた『慶長出羽合戦と上山の戦い』の講演会では
私も出席して話を聞いてきたのでよく覚えています。
それで講演会には会員ら約150人が参加したそうで、今回も直江兼続の
話をしつつ、最上義光の人物像を話したそうな。

谷地城主の白鳥十郎と、最上義光の弟の中野義時について話されたそうです。
白鳥十郎長久については「合戦によって多くの命が失われるのを避けた」と指摘し
中野義時は存在自体が疑問視されるものだと語ったそうだ。
まぁ、これについては私も若干の知識があるが、どちらも疑問視される内容だ。
これは後世の人が作った話という説もあるくらいで、実際あったかどうか不明なくらいだ。


それで片桐繁雄先生は、最上義光を誇りに感じ山形を築いた愛と義に満ちた人物
と言ってたそうだ。最上義光はどうもイメージが悪く、晩年の斉藤道三ぽいイメージで
見られがちだが、最上義光を調べれば調べるほど
そこまで愚かな大名には見えないのだが、どうも米沢や仙台の方々が語るものとは
違うように見えるのは、未だ何らかの隔たりがあるのだろうか・・・と個人的に思った。

世間では直江兼続一色であるが、この時期にあえて最上義光こそ愛と義に満ちた人物と
語る片桐繁雄先生の度胸には驚かされるものだ。内容だけ見るとおかしな人ぽく
見えそうだが、私が見たところ資料に基づいた上での発言故
直江兼続には、少し考えさせられる部分がいくつか見当たるものだ。
戦国の世では最上義光が称され、現代の世では直江兼続が称されるとは因果なものだ。

直江兼続の弟を調査

来年放送の大河ドラマ天地人により、突如として直江兼続の知名度が
グンッと上がった訳だが、その兼続への関心が高まったためか
直江兼続の弟について調査しているのだそうだ。

もっとも今まで歴史資料や米沢、新潟でも兼続の弟に関する資料が触れられて
いないのは何故だろう?と想ったことはあったが、あまり関心が無かったのか
マイナス面を公表したくなかったのかは知らないが、今回調査を行ったようだ。

それで直江兼続の弟・大国実頼は、上杉景勝の家臣として仕えていたが
関ヶ原の合戦後に、兼続と実頼は徳川家との関係を巡り意見が対立したそうで
実頼は京都で兼続の使者を殺害する事件を起こし、上杉家を追放された人物だそうな。


追放後は兼続が死ぬまで米沢に寄る事は無く、中小松に隠れ住んでいたと
史料にはそう残っておるそうだ。兼続の弟・実頼が亡くなると米沢市内の墓に
葬られたとのこと。一体米沢のどこのお墓なんだろうか・・・?

実頼は連歌を得意としたらしく、京都などに滞在しては連歌会に参加していること
が調査で分かったそうです。晩年の頃には、連歌の盛んな土地に住み
連歌を詠んで過ごしていたのではなかろうか?と想像されているとか。
まだまだ謎のベールに包まれているが、手掛かりを探していきたいと語っているようだ。

結局、直江兼続の弟についての資料があまり無いことからすると
実頼の一族もその代で滅んだのだろうか・・・と思った。
確か話によると樋口家の家系の一族の者は、現在も生きておるそうです。
それで飲み会だったか集会で集まって、何か話し合いをしたとか聞いておる。

上杉家の内政の掌握

上杉景勝が二代目越後藩主になると武田勝頼と同盟を結び、織田信長や小田原の北条氏に対し
抵抗してきました。上杉家では危機的な状況下ではあったが、この頃までの書状では
直江兼続の名前などはまったく見ることが無かった。

ではいつ頃から書状に直江兼続の名が出てきたと言うと
天正8年頃から直江兼続が度々登場しているようだ。兼続が外交への窓口として
確認できるのは、新発田氏と芦名氏との問題での出来事の時である。

つまり直江兼続は上杉景勝の近侍をこなしつつ、徐々に上杉家の内政を掌握していった
と伺える。情報の処理や、交渉の窓口をこなすことで次第に政務能力に長けていたのが
あらわになり、徐々に上杉家の中心的なポジションに立つようになっていったものと思われる。
それ以降は、芦名氏との外交担当は直江兼続が中心になったようだ。

実力のある者はたとえ近侍とて、上に伸し上がれるものであると痛感させられるものですね。

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