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『ぼくらのむら』という物語が、映画化で『たからもの』というタイトルとなり、まったく別の物語になった話をした。
〔参照〕http://blogs.yahoo.co.jp/ytjcg649/7202413.html
原作からいろいろと設定を変えて、違う映画となることはよくあること。
原作にパワーが無いから強いキャラクターを配置することもある。
もっと興味をひくようにしたいから、原作にはないカワイイ妹を登場させたりもある。
先日、NHK大河ドラマ『天地人』の登場人物が設定変更となった。
長澤まさみ演じる【初音】という忍びが、当初真田幸村の妹という設定だったのに、年齢にムリが生じ、急遽、放送中にも関わらず姉という設定に変えられた。
もともと原作では姉であったのに、物語をより盛り上げるために「可愛らしい妹」として、大して全体バランスもみないまま変更していたら、今のドラマの展開上、なんと10歳以下で主人公の兼続と肉体関係を結ぶことになってしまい、視聴者からツッコミを受け、また原作どおりの【姉】に戻したのであった。
これは、映像化する場合、なんとか原作とは違う魅力を出そうと、制作側が考えていろいろイジッた結果、失敗してしまった例なのだった。
僕だって、映画を製作する側であれば、原作が名作であればあるほどなんとかそれを越えたいと思う。
映画を観た方たちから「映画の方が良かった」と言われたい。
逆に、僕が原作側だったら「原作の方が好き」と言われたい。
ま…とにかく、原作側と、それを元に映像化する側は、まったく同じものにはならないのが普通。
日本の漫画だってハリウッドで映画化されれば、アメリカ人受けするために大改編される。
『ドラゴンボール』なんて、公開前から早くも原作ファンの失望する声が聞こえてくる。
でも、例外もある。
映画『20世紀少年』は、今のところほとんど原作に忠実である。
どう努力したって客が納得するほどの原作を越える構成なんて出来ないので、これを成功させるには【忠実】に作ることが良いと製作側が踏んだのではなかろうか。
それは一応成功している(今のとこ)。
ま、上にあるような様々に思惑により、より良い評価を受けるために原作を改編するのかしないのかを、みーんな考えるのである。
で…
その一方で、より良い評価を受けるための改編とは違うものもある。
それをやると原作よりグンとグレードが下がると分かっているのに、予算上、政治上、物理的な理由で、負の方に向いて改編せざるを得ない場合もあるのだ。
それが、僕の原作の映画にはあった。
まず、低予算という問題。
金が無くても映画製作を成立させねばならないプロデューサーは、監督選びも、原作に向いてる向いてないでは選ばない。
【やってくれる監督】を選ぶのである。
その監督が、特撮や特殊メイクなどを多用する作品が好きで、SFやホラーやアクションを撮りたがっている人でも構わない。
撮ってくれればいい。
しかし、原作は、ダムに沈む村のお別れ会の話であり、淡い恋の話であり、郷愁に満ちた小さな世界の話。
そこで撮るべきものは、原作には表現できなかった美しい里山の自然の移り行く彩り。そして、体が大人になりつつある子どもの中で湧き上がってくる性への憧憬と、ゆっくりと大切なものを失ってゆく痛みなのである。
監督がそこにまったく興味がないと、そんなものを丁寧に撮ろうなどとは思わないであろう。
なので…監督は描きたいモノがなかったりする。
だから、「プロデューサーがこうしてああしてと言えば、そうしますよ」という風になってしまう。
更に―――
プロデューサーは、成立するために、ギャラを抑えようとする。
なので、芝居が出来るとか出来ないとかは関係ない。
【出てくれる役者】を選ぶのである。
また、映画に投資してくれる事務所があれば、なお良い。
芸能事務所が、あるカワイイ女の子を売り出したいがために、露出できる現場を探していると、映画のキャストを求めている映画プロデューサーと繋がる。
そうやって、若い女の子を主役に変更してくれという要請が脚本家に下る。
また、子役をキャストする難しさもある。
子役は、企画段階で、このコでいこうと決めていても、諸事情でクランク・インが延びると、その子役が使えなくなってしまうことが度々ある。
子役は、半年や一年撮影が持ち越されると、グンと成長してしまうからだ。
(ま…三丁目の夕日は、それでも強行して2を作ったけど)
更に…その背格好で仕事が出来る【旬】が短い子役は、本当に芝居の出来る子をピンポイントで見つけることが難しい。
なので、1人「この子は良い」という子が見つかると、もうその子は映画テレビに引っ張りだことなり、弱小な製作委員会が手を出せるタレントではなくなる。
ある時期、やたらと同じ子どもがあちこちに露出するのにはそういう理由がある。
じゃあ、ホカに子役を探そうとしても、ヘタな講師からヘタな芝居を仕込まれた子どもや、お母さんがテレビの見様見真似で子どもに芝居を付け、どうにもならないクセを付けてしまった子役しかいない。
しかし、ステージママってどうして子どもにベタベタな芝居を仕込んでしまうんだろうか?
まあ、それは置いといて。
という以上の様々な理由により、小学6年生の設定を、高校生の男女の設定に変えてしまったのだった。
事務所が出資するからと言う理由で役の設定が変わるのは、政治的変更。
ギャラが安くても出てくれる役者に合わせて設定を変えるのが、予算的変更。
子役が見つからないから高校生にしようという変更が、物理的変更である。
それにプラス、監督自体にそういうものを描きたい興味がないから、とにかく画を繋げられる設定を採用してゆく変更が、素養的変更……
このように、とってもグランドスラムな変更理由が揃った時、どんな作品が生まれるか想像は簡単である。
試写を観た時、まったく知らない妙にクサいセリフをヒロインが吐いてたから、アレは何だろうと思っていたら、その映画に出ていた養成所講師の役者が現場で付けていたようだ。
「あれ、僕が付けたんですよ。なかなかいいでしょ」
と、本人から報告を受けた。
そんなのが通る現場って監督はよほど迷っていたのだろうと思ったが、終わってみれば全体的にはよくまとめていたと思う。
自分の興味のない世界をよくあそこまで―――
ある広告代理店の社長が「いやー、良かった」と言っていたが、でもそれは、それほど期待していない状態で観たのだろう。
僕もそう。
しかし、観終わってジワジワと「僕のせいだ」と思い始めて、しばらく落ち込んだ。
そして、この物語は封印したのだった。
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