「雑趣遊悠」

家庭菜園大好き、その他雑多な他愛のない日々の一コマを写真と共に日誌風に綴るブログです。

歴史散歩、「津久井」

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[神奈川県民の巨大水がめ、宮ヶ瀬湖 ]
 丹沢の豊かな自然に囲まれ満々と水をたたえる宮ヶ瀬湖は、津久井町・清川村・愛川町の1村2町にまたがり、芦ノ湖とほゞ同じ約2億トンの貯水量を誇る首都圏最大級のダムと云われています。

 湖の高台から湖を望む・・・。    中央奥がダムサイト
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ダム構想の発表から31年、総事業費は3,993億円、平成12(2,000)年に完工された。
中津渓谷の豊かな自然と共に281戸が湖底に沈んだと云われます。

 [清川村 ] 応永3(1,396)年頃、矢口入道信吉という落人によって新田を開墾したと云わ れる古い歴史を持つ集落である。結成された対策委員会もダム建設の不安を抱きながらも、夢を託す方 向で動き出したが、水没地域の土地・物件調査(財産調査)の段階で組織は割れ、将来の生活設計をめ ぐり住民の心は揺れ動いたと言われます。 
 [ 愛川町] ダムサイトの予定地の愛川町、江戸時代から中津川の流れを使い、水車動力による 撚糸業で栄えた地。高さ150mの重力式コンクリートダム、ダム直下の不安と水利権確保の観点から 拒否反応は強く、更に過去二回の大地震が発生し二つの断層があることも解った事から、反対同盟を結 成し「絶対反対」の態度となった。
  昭和54年、強制執行による調査が開始されるなか、ダム築造の設 計震度も基準値も全国の重力ダ ムには例のない安全設計が強調され、不安を抱えながらも条件闘争へと方向転換したと云われます。
 [津久井町・青根地区 ]
  宮ヶ瀬湖の貯水効果を高めるために、道志ダムの上流から丹沢山中をくり抜き宮ヶ瀬湖までを直径  3.5m、約8kmの導水路を通すと云うものであった。
  、丹沢の恵まれた自然を利用して「自然休暇村」の事業を進めていた青根地区は、5か所ある簡易水 道の水源と農業用水の枯渇は230世帯の住民にとっては死活問題である。水源枯渇対策要求と交渉を重ね 協定書を締結、平成12年の暮れ道志導水路も貫通し、ダム関連工事も全て完成したと云う。

 長期に渡る種々の課題と解決交渉が重ねられ完成した巨大な県民の水ガメ、湖の高台には水没地を見渡せる 望郷の碑 が建っている。

「湖畔庭園に降りる階段」
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「広々とした芝生の湖畔庭園」  階段より見渡す園内
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「園内運行の人気者・蒸気機関車バス」
湖畔周辺には周辺には各種レジャー施設・お土産屋・レストラン、そして「鳥居原ふれあい館」等、レジャースポットも多く終日観光客が絶えません。
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                                         津久井町を終え、次は城山町へとつづく
「道志川と道志大橋」
 道志川は山梨県富士五湖の一つ山中湖に近い山伏峠(標高1100m)を水源とし、全長70km 沼本で相模川に合流、最終は津久井湖(写真右側)へと注ぐ一級河川です。
 県内の人工急増による、水需要と工業用水の確保を目的に昭和36年城山ダム(津久井湖)が建設され、これに伴い、新たに架けられた「道志大橋」と古い橋げた(写真左下)。
 春は桜やへら鮒釣り、夏はやアユ釣りなどで賑わいを見せています。 
イメージ 1 
 「道志(どうし)」の地名には、語呂を含めて諸説あるようですが、平安時代の「官職名から生まれた」と云われる。
 平安初期弘仁年中(810〜822)京都の風紀は乱れ盗賊も横行、そこで置れたのが、今でいう裁判官と警察官を兼ねた強力な権限を有する「検非偉使(けびいし)」と呼ばれる制度であった。
 やがてその組織は地方にも置かれ、検非偉使庁と云う独立したセクションも設けられ長官役の下に「佐・尉・志」等の役人が配置された。
 当然ながら検非偉使になるには、博識と公平な判断力を持ち合わせることが求められ、式部省に属する大学寮内の「明法道院」で学ぶ者が多く、任用は極めて狭き門であり、「志(さかん)」の職に任じられた者は「道志」と呼ばれたという、甲斐国(山梨県)に入った検非偉使が、その「道志」の性を以って領地を治めたことから、と説われています。

「道志渓流の釣り宿から生まれた、三太物語」
イメージ 2イメージ 3 前出の道志大橋の位置から1km程上流に、童話作家青木茂の「三太物語」の舞台となった渓谷の釣り宿、三太旅館がある。城山ダムの建設に伴い水没するために、青木茂の執筆した離れだけを記念として残しここに移築されたもので道志川を前にした敷地内には、「魚の供養塔」と共に青木茂自筆の文学碑も残されています。
 
 「三太物語」・・・釣り師で釣り宿の主でもある鈴木濱太郎・ノブ夫妻と青木茂との関わりは昭和5年道志川に渓流釣りに来た時に始まる。
 物語は鈴木家との深いふれあいと、道志川の生きた自然の中から生まれたドラマで三太少年の無邪気で明るく溌剌とした活躍ぶりをユーモアたっぷり、健康的に生き抜く少年群像を描いた戦後児童文学の代表作と云われる。
 ドラマに登場する「仙爺」は宿主の鈴木濱太郎、「花萩先生」はノブと聖母マリアの重なり、「三太」は「サンタ(聖)」から名付けたとのことです。
 児童文学雑誌「赤とんぼ」(昭和20年8月号)に「かっぱの三太」として発表され、NHKラジオドラマで全国放送、更に劇化映画化もされ、宿周辺は「三太の里」として広く知られることとなり、釣り宿を「三太旅館」に名を変えたとのことです。

「道志川を背にして立つ魚の供養塔」
イメージ 4                                  つづく
相模湖町から次は、津久井地区へと移動してみよう。

 「津久井地区のシンボル、城山 と 津久井湖」
 標高375m均整のとれた独立峰「城山」、津久井湖を抱き湖畔の緑や紅葉の季節の姿は何とも印象的です。

対岸から見る、かながわ景勝50選の城山。 
   左方向が相模原・横浜方面、右側は相模湖・国道20号線方面。
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 この地域は甲斐国・武蔵国と相模国の領域が複雑に入り組み、国境の争いが絶えなかったと言われます。 
 「津久井」の地名は、鎌倉時代に相模国一帯で活躍した三浦大介義明が、三浦郡北下浦村津久井(現横須賀)の領主である津久井二郎義行の長子、太郎為行を「性沈着にして其の行動実に堅実なり」と評し、一軍を率いる武将として深く信頼から、津久井地域の鎮護を命じ、相模北部の長竹村宝ケ峯に移動の後、城を築く。
 城の名前は津久井氏の姓をとって銘々されたと伝えられ、これが地名の起源にもなったと云われています。

「津久井城址公園」
 独峰の城山頂上からは、東には相模原市を一望の中におさめ、東北に多摩の横山、甲斐の連山そして眼下には相模川の流れと津久井湖を見降ろす峰の薬師や高尾山を眺めることのできる眺望の良い独峰です。
 津久井城は源頼朝の旗揚げ前に築城されたと言われ、自然的要害を生かした山城であった。
当初は山城としての防備はなく交通を要路を見渡す見張り小屋ぐらいと言われていますが、戦国時代の小田原北条氏の出城となり改造・築城され戦国時代の城郭遺跡としては全国的にも屈指のものとして引き続き発掘調査が進められています。山城の遺構として飯縄社曲輪(くるわ)・太鼓曲輪・本城曲輪に分けられるとの事です。
 
 曲輪(くるわ)とは・・・天守閣や鯱鉾等を有した城ではなく、所謂役割用途に分けられた小部隊の駐屯施設。尚、「輪」とは「丸」をも指し、本丸・○○の丸等の丸と同じだそうです。

 現在は「津久井湖・城山公園」として散策施設が設けられ、湖畔より頂上を結ぶ急勾配の道や山の反対側からも入ることができ、多くの人で賑わいを見せています。                
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「津久井湖のシンボル、赤い・三井大橋」
 城山(津久井城址)を背にして、湖上の中央に架かる 津久井湖のシンボル朱色の三井大橋。
城山ダムの建設により水没する木造「塩民橋」に代わり、昭和5(1930)年に誕生。
 この三井地区には馬渡・古井部・下久保の三つの井戸が(湧水池)あった事から地名が生まれたと言われ、水没した下久保を除き今でも水は涸れることが無いそうです。
「三井は良いとこ 後ろは山で 前は川瀬の音がする」と唄われ、南傾斜で蜜柑が実を結ぶ、暮らし易い
土地柄でもあったようです。
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「峰の薬師」
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「平和の鐘」
イメージ 6  三井地区の東端にある明王山の頂上には、明応年間(1492〜1501)年に臨済宗の明星山三井寺別当として建立されたもので、高尾・新井・日向の薬師と共に「武州四大薬師」に数えられる「峰の薬師」と呼ばれる御堂があリます。
 本尊である薬師如来は水の神であり眼の守護神、境内には弁天池弁財天が祀られています。また薬師堂は江戸吉原の花魁衆の信仰が厚く、鐘を鋳造した折に金のかんざしを寄進し溶かしこんだことで美しい音色が出たと言われていたが、第二次世界大戦の勃発により昭和19年に鐘も供出となり、更に台風の直撃により薬師堂も崩壊したが、住職と信徒を中心として昭和46年に「平和の鐘」として再興されています。

 
「登山道入り口の石碑と「姿三四郎決闘の碑」
イメージ 7イメージ 8 峯の薬師は宮田常雄の小説「姿三四郎」にもなっており、柔道の天才児三四郎と唐手の檜垣鉄心・源之助兄弟が生死をかけた果たし合いの場にこの薬師堂の境内が選ばれており、 姿三四郎は八王子側の裏街道を通り、峯の薬師に来たと言われています。
 更に小説は黒沢明監督のもとに映画化され、その後には直木賞も受賞するなどして流行作家となった。
 尚、父常次郎は講道館柔道を興した嘉納治五郎門下の四天王の一人でもあり、その父の実像に重ね合わせて「姿三四郎」小説のが誕生したと云われています。

                                         次は道志川の最終地周辺を歩く
「都県境の山間の地・底沢」
甲州道中の難所、標高548mの小仏峠(八王子)は武蔵国(東京都)と相模国(神奈川県)の境界にあり、小仏の地名は奈良時代の高僧・行基が小さな仏像を安置したことに始まるという。

イメージ 1 今では、明治の森高尾国定公園、高尾山から城山(小仏城山)・影信山・明王峠を経て、白馬のシンボル陣馬山へのハイキングコースとして季節を問わずハイカー達で賑わっている。
 コース途中の影信山(かげのぶさん・標高727m)は相模湖町の最高峰であり、頂上部の広い平坦地には、甲斐武田軍の侵略を防衛する最突端の拠点として、烽火台や砦が設け警備に当たったという。
 ここから小原宿の迄の急坂を、右へ左と下りきると「照手姫伝説の地、底沢(そこさわ)」という集落に至る。

「小栗判官平満重と照手姫ものがたり」 
幼くして両親を亡くした照手姫は、豊かな黒髪を持った絶世の美女に成長したが、この地から姿を消し、武蔵国八王子から藤沢に移り、横山太郎という盗賊の一族と住むようになっていた。室町時代後期のことである。
 一方、平満重とは、常陸小栗(埼玉県美里町)の知勇に秀でた城主・判官である。謀反の企てありとの讒言により、関東官領の足利持氏の怒りをかい、小栗の城は大軍に攻め落とされた。
 平満重は主従11名と共に商人に変装して三河国(愛知県)を目指すこととなった。
 道中相川(神奈川県)の藤沢宿にたどり着き盗賊とは知らずに横山太郎の家に泊まり、ここで平満重と照手姫が初めて出会い、物語がスタートするのです。(以下写真説明文による)
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「照手姫の彫刻像」
 地を流れる西入川の七つ淵で髪を梳く、黒髪を持つ絶世の美女の出生地、今は鉱泉の「美女谷温泉」に名をとどめ、この旅館には「小栗満重と照手姫の絵巻物」が秘蔵されているという。
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美女谷温泉
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また、美女谷からは江戸吉原の遊女・高尾太夫(紺屋高尾)も出生したといわれ、江戸吉原を代表する名妓として、京都の吉野太夫と並び称されたとのことです。
                               底沢というところは、美女出生の地なのですね・・・。
甲州道・小原宿本陣
 江戸日本橋から放射線上に五街道が整備された日光道中・奥州道中・東海道・中山道それに甲州道、その一つ甲州道が我が町中を走る。
 江戸時代徳川幕府の直轄地甲斐とを繋ぐ軍事的にも重要な幹線街道であり且つ、江戸に有事の際、将軍が甲府に逃げるために作った避難道路でもあったという説もあるようです。
 また、甲州道中は当初「甲州海道」と呼ばれていたが、「海端の道ではなく、道中なるが故」として「甲州道中」に改名され、現在一般的に「甲州街道」と呼ばれているのは、俗称なのだそうです。
 県下26軒中、町内には与瀬と小原の二か所の宿があったが、唯一現存するのは小原宿本陣だけ、 現在、県の重要文化財に指定され郷土資料館として一般公開されています。
 尚、毎年11月3日にはその歴史にちなみ、当時の面影を残す町並みの中を大名行列が練り歩くのです。
「本陣の門」
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「中庭からの宿と、室内」 イメージ 2イメージ 3

「本陣に併設の[小原の郷]資料館」 
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「見富山・善勝寺」
 開山は弘法大師と伝えられる、明応9(1500)年に修復・再興されたという歴史のある寺で、見富山という山号の善勝寺、当初は写真中央の竹林よりも更に上に建立されたもので、富士山を望めれる寺として名付けられたと言われます。江戸時代の文化5(1808)年に裏山が大雨で崩れ永らく無住状態にあった寺が被害を被り大破した。土地の篤志家・溝口清左衛門(江戸期の豪商として知られる人物)と世話人役らが再建を呼びかけのうえ、文化9(1812)年に現在の地に再建された。
 門前でカメラを持っていたら、散歩途中の檀家の方から、本堂の中を案内してあげようと言うことでカメラを持って案内していただいた。もちろん中に入るのは初めてのことでした。
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「極彩色豊かな花鳥柄の欄間」
 祭壇正面と左右にはめ込まれた、一枚縦横1X3mの欄間。
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「鳥賀神像と天井高く保存された駕籠」
イメージ 8立派な逗子に納められた鳥賀神像、大きな蝦蟇(がま)の上に白蛇がとぐろを巻きその上から神が首を出している石像、地元の人からは弁天様と呼ばれ、蚕の神・財の神、福を授ける神として信仰されている。
 また廊下の天井に置かれた駕籠、前後に朱が塗られた綱代駕籠で身分格式の高い中級程度の駕籠と言われています。イメージ 9

                                    次回は、美女谷伝説と照手姫を・・・。

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