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新撰組局長、近藤 勇
幕末、京都守護職を務める会津藩主松平容保に嘆願書を提出し京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り24名で活動を開始、その後の働きぶりを認められ武家伝法泰により「新撰組」の隊名を受ける。
池田屋事件、鳥羽・伏見の戦い、そして甲州勝沼の戦いに敗れ敗走したが新政府軍に包囲され中山道板橋宿近くの「板橋刑場」にて斬首(33歳)、首は京都の三条河原にさらされその後行方不明、一方胴は甥の近藤 勇五郎が引き取り三鷹市の龍源寺に葬られたと言われています。
各地の墓所
①天寧寺(会津若松市東山町)
土方歳三が遺髪などを持っていたて会津戦の折にここに仮埋葬、のちに松平容保が
建立した供養墓石。
②龍源寺(三鷹市)
甥の勇五郎が胴部を引き取り埋葬されたといわれる。
③北区板橋駅前の碑
近藤の死後新撰組生き残りの永倉新八により建立された精神的なもので何もない。
④法蔵寺(愛知県岡崎市)
現在まで信憑性が高いとされてきたがその後の調査発見により、他の新撰組関係者の墓 である可能性が高いとされるが、これも断定するまでには至ってないようです。
⑤高国寺(山形県米沢市)
土方歳三の建立のもので大河ドラマ「新撰組」に登場、遺品はともかくやはり供養塔と言 われます。
何故、この様に幾つも点在すするのか ?
最大の理由は近藤 勇が死んだ時、彼の扱いが「首を斬られた罪人」であった事に尽きるようです。 罪人であった故に首と胴体はばらばらになり、首の行方も判らなくなった事、仲間の土方や会津藩などが賊軍とされ、江戸に墓参りもこれず行ける範囲に代理墓がつくられた事が多くの墓が存在する要因となっているようです。 (ネット検索・参照)
幕末の雄・新撰組局長・近藤 勇の墓巡りをするファンが今でもあとを絶たないようです。
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