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写真は、岐阜県中津川市加子母の「明治座」と「デレーケの治山工事」です。
かつて、東濃地方には劇場形式の農村舞台が数多くあり、その数は60棟以上とも伝えられます。
中でも、加子母の「明治座」は、その規模、設備、建築様式から最大のもので、しかも、明治27年に建設されて以来今日まで生き続けており、実際に現在も歌舞伎や芝居、音楽会などに使われているものです。
「明治座」に隣接して、オランダ人デレーケの治山工事跡地があります。
この地は、かつて土石流の頻発地域で、この対策として、明治政府が雇ったオランダ人技師が指導して工事を実施したものです。特に、幕藩体制崩壊の頃から明治初頭まで、全国の山が荒廃したことと符合します。
明治政府が、荒廃した山地に近代的な防災工事を実施した代表的な事例です。
加子母は、「明治座」という大衆娯楽施設もつくり、全国の山里の中でもっとも先進的であったとも考えられますが、これを支えた山里文化の基盤は、藩林時代の留山を村持ち山として引継いだことによるもの思われます。その面積は1万ヘクタールに及ぶ広大なものでしたが、このような事例は少なく、全国の留山の多くは、そのまま官林とされ住民の利用が強く制限されることが一般的でした。
さて、11月5日に掲載した記述の中で、「公私共利」の原則についてふれました。
日本における、森林と人との関わりの原則です。
今回は、やや抽象的にならざるを得ませんが、古来からの「公私共利」の原則について、辿ってみたいと思います。以下、長文になり恐縮です。
〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その6)〜〜〜
「公私共利」の原則
●「公私共利」の原則
日本の山野の管理の原則は、古来、「公私共利」の原則によっていました。
「公私共利」の記述は、古く、794年(延暦17年)の官符の中に見られます。(筒井迪夫著:「日本林政の系譜」地球社)
「山川藪沢の利、公私共にすべし・・・」この官符が出された背景には、豪族による山野の占有がはじまったことを示しますが、その後もこの種の禁令は反復して出されています。
●所有権がない「山野」
今の時代であれば、土地には所有権があって当然であるように思われますが、農耕地が限られ土地のほとんどが山野である場合に、所有権という発想は無い状態が当然といえます。
山野を個人的に利用しているうちは、早い者勝ちだったかもしれませんが、地域の支配者(豪族)の統制により、組織的に山野の幸を採取するようになると、一定の区域の囲い込みがされるようになります。これが、荘園制から武士による領治への展開に対応します。
荘園制以降の時代も、領主の保護のもとに領民による薪や草の用益が確保されてきたという意味で「公私共利」の原則が貫かれてきました。入会権もこのような「公私共利」の原則のうえに成立していたもので、はじめは領民同志の取り決めの性格が強かったといえます。入会権は領民の持続的な平等な利用が目的で、村仕法などの形の規制として完成度を高めてきました。
なぜ、このような「公私共利」の原則が成立するかといえば、山野は太陽の光と同様に、個人が占有することは不可能であることを前提としていたからです。広大な山野に土塁をつくり、垣をめぐらし、見張りを立てれば占有が可能となりますが、一般には、それだけの手間暇をかけるぐらいなら、平地を集約的に管理して生産するほうが効率的であるので、山野は一定の利用権や採取権が確保されていれば良かったのです。
●林業の成立と「公私共利」の原則のゆらぎ
杉や檜など有用木材の利用が増大し価値が高くなると、勝手に木材を伐り出すことは禁じられるようになります。これを徹底するために、領民の山野の利用方法について、詳細な規則がつくられ、領民に対する利用の制限はどんどん強くなっていきます。
一方、藩政時代は、農業生産の安定と農家経済が破壊しないことについて、重大な関心を払っていたことから、災害などの際の公共用材の利用は公私の次元を超えて認めており、徹底した禁木制度とはなりえない側面を有していたことも事実です。
すなわち、「公私共利」の原則は、各地域の実情に応じて、「公」と「私」との権利の範囲は、伸び縮みする関係にあるのが特徴といえます。
●木曽谷〜加子母地方など林業地域の「山林罰法」
檜など有用な木材が多く産する木曽谷、現在の岐阜県中津川市付知、加子母、川上などでは、違反した場合の詳細な規定(山林罰法)があり、これらが、明治30年に制定された森林法の森林犯罪の項の参考にされ、明治初期に急速にすすむ森林荒廃に対処しようとしたという経緯があります。盗伐は主として官林で、火災は主として民林で取り締まりの方向が打ち出されていました。具体的には、留山(官林)で盗伐60日から3年の追放、留山で皮はぎ牢舎30日、明山(個人持ちの山)で盗伐木を買うと手錠30日、檜焼き枯らし牢舎30日などの規定がありました。
●明治9年「山林原野等官民有区分処分方法」までの紆余曲折
このような処罰規定を背景に、明治政府は明治6年に地租改正及び地所名称区分法、明治7年に地所名称区分改正法、明治9年に山林原野等官民有区分処分方法を定め、山野の官有、民有の区別が定められました。このように、山野の所有の区別が一度で決まらなかったことこそ、明治政府の決定が「公私共利」の原則に反する処分方法であることと表裏の関係にあることを示しています。
明治30年森林法制定後も、明治32年に国有土地森林原野下戻法が制定されるなど、明治政府だけでなく、今日に至るまで林野の管理のあり方は、大きな課題として引き継がれることになったのです。
●山野の「所有権」と「用益権」の取り扱い
大きな課題とは、「所有権」として傾斜した法制度とこれまでの山野の「用益権」とをどのように調和させるかという問題でした。日本の森林政策では、総じて、「所有権」に整理する方向で山野の権利関係を整理し固定化しようとしたため、木材の価格が高い時代は伐採・造林が拡大し、土地の価格が高い時代は開発または放置される林地が拡大することになり、規制がない森林の公共財としての価値は常に追いやられることになります。今日の「人工林問題」が生まれる大元の原因は、明治政府以来の政策に由来してると理解することができます。
●明治30年森林法の制定
一方で、明治30年の森林法制定で高く評価されるのは、森林を計画的に伐採する規制と、保安林として森林を保護する制度を規定したことにより、林地の所有権明確化への施策に対応する、「強制」と「保護」の二本の柱を設定したことでバランスをとったということであり、今日の森林法の柱ともなっている点といえます。ただし、固定化した法制度では、強制は形骸化する側面を持つことになります。
●山野の「社会的管理」への課題
森林の持つ公益的な価値を実現するためには、森林を社会的に管理しなければなりません。「公私共利」の原則ができた時代、林業は粗放的な管理を前提としていましたが、公益目的にしても、社会的管理が集約的かつ継続的に行われた場合は、その土地と地上物はその限りにおいて社会的な財産となるべきです。
当面は、所有者との協定という形で社会的管理を進めていくにしても、その管理が継続的になればより明確な森林の公益性確保のための取り決めが必要になるでしょう。
その取り決めとは、森林と土地を別のものと考えるのではなく、土地と一体になって生きてきた人間の歴史に焦点をあてて地域ごとに見直すことからはじめなければなりませんが、それには、相続が発生するたびに所有権が細分化していく現在の制度では、行き詰まりが見えていることも事実です。
明治政府以来の森林管理の系譜を修正し、本来の姿として「公私共利」の原則を掲げるためには、山野が私的所有物であることを実情に応じて制限しなければならず、「森林管理放棄地認定処分法(仮称)」なるものの制定の必要がすでに発生しているのかもしれません。我々自身が越えるべき課題も多いといわざるを得ません。
●林業地の今日的な役割
もちろん、写真の例で示すような岐阜県の東濃地域をはじめ、各地の熱意ある林業地では計画的な森林施業の推進により、先人から受け継いだ山の資産を大いに活用し、次代に引継がなければなりません。
そして、森林の持つ様々な価値を発揮させることにより、安全で、美しい山村の実現と、心豊かな山里の文化をますますエンジョイしながら、都市との交流も深めていただくことが日本の森林文化隆盛に大きく貢献することはいうまでもありません。
(つづく)
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