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写真は、宮城県鳴子町の自生山(じしょうざん)の天然スギです。
宮城県で、天然スギが見られるのは、この場所だけです。
スギは日本中に植栽され、あまりにたくさん植えられたため、最近ではスギ花粉症で多くの人々が悩まされているほどです。
スギは、温暖湿潤な日本の気候に適していますが、人間の力添えがなければ、自分でその勢力を拡大する力はありません。
天然スギは、崩れやすく、土層が薄い尾根沿いの急傾地などで見られ、他の樹木に追いやられて条件の悪い場所で細々と生育しています。
鳴子町の自生山も、カルデラの外輪山を構成する山の一つで、特に崩壊しやすい地質であるため、大正時代から本格的な治山工事が実施されているところです。
スギはとても他の樹種との競争には勝つことのできない弱い樹種です。
自生山は、天然スギが逃げ込んでいる場所なのです。
天然スギは、尾根沿いに一列に並んでいることも特徴の一つですが、これは、雪によって地面に押さえつけられた枝から、根が出て、次々に萌芽して成長したことによるものです。
さて、本日の話題は、「林業の概念」の系譜についてです。長文になり恐縮です。
〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その10) 〜〜〜
「林業の概念」の系譜
●一般的な「林業の概念」
近年まで、私たちは「林業とは何か」と問われたときに、森林を伐採して木材を販売するために森林を利用することという概念のみをイメージしていました。今でも、多くの人々が、「林業」の主流はそうあるべきだと考えています。
このイメージは、一見、妥当であるように思われますが、日本の長い森林と人との関わりの歴史を振り返ると、「林業の概念」としては、あまりに狭い概念であることに気がつきます。
●「林業」以前
これまで繰り返し述べてきたとおり、日本における森林管理の原則は「公私共利」の原則です。この原則は荘園制の開始と同時に豪族に崩されましたが、この時期の山野の利用は、山のあらゆる自然の恵みを如何に公平に国全体のために活用するかということがテーマでした。
社寺の勢力が大きくなり、さらに、戦国時代になると、一定の地域に専権をもつ「国」が割拠し、その中で、強権のもとで、領民の山野の利用は確保されたことから、「公私共利制」は貫かれていたといえます。
すなわち、「国」を富ませるためには、農民を疲弊させ過ぎないことが必要であり、自然の恵みを如何に引き出すかが、戦国時代の統治の基本でした。
農業が「国」の基幹産業であった時代は、山野の恵みは農業と領民の生活の維持のため、階層に応じて平等に分配されることが必要でした。
また、災害時などの緊急時には、用材を住民の生活や公共的な用途に利用することが認められました。
このような山野の利用のあり方は、明治時代になって、明治9年林野の「官民有区分」が通達されるまで、1000年以上にわたって、わが国の為政者による森林管理の原則として継続していました。
●「林業」の成立とその位置づけ
都市の発達に伴い、江戸時代を通じて木材需要が増大し、「林業」が成立しはじめましたが、江戸時代の林業の概念は「尽地力説」(適地適産・適地適木)の中に包括されており、木材生産はその一つにすぎませんでした。
秋田スギ、木曽ヒノキ、青森ヒバという現代に引き継がれている日本の三大美林の成立の基盤は「尽地力説」の中で地域の為政者が林制を整えていったことにより実現したものです。
国を経済的に富ませる基幹的産業は、世界中どこの国でも時代とともに変わります。
幸か不幸か、日本においては、経済発展期に符号する木材価格は、他の商品に比較して、相対的高騰が繰り返され「林業」が山林所有者を経済的に潤したため、林業の中で「用材林業」のイメージが繰り返し強調され、同時に、日本の森林資源は都市からの収奪を受け、荒廃した歴史を繰り返しました。
明治初期の「統制説」と「自由説」の対立は、為政者にとっての私有林の森林管理のあり方にどのような理論を基本にするかという論争でした。
増大する木材需要のもとで、新たな森林経営の理論を適用するか、従来の「尽地力説」に基づき山野の恵みの活用を民意主導とする誘導施策にするかという対立でしたが、ここでも、明治政府は、「統制説」に傾斜し、伝統的な「林業の概念」を深めることの必要を認識しませんでした。
●「純粋技術主義」としての「法正林思想」
国は、伝統的な「林業の概念」とは相容れない、「法正林」というドイツで一時的に提唱され適用された森林管理技術を「森林管理の理想的なあり方」として、各地の官林に適用し始めたのです。
「法正林」とは、森林の成長量を一定にするような森林を造成して、毎年成長量に見合う量の収穫を確保すれば、森林の状態を変えずに永遠に収穫を得ることができるという森林で、これを理想形とする思想が「法正林思想」です。
本来「法正林思想」は、否定されるべきものであったのですが、まず、戦後の怒涛のような増伐時代の国有林で、まず、否定されてしまったために、なぜ「法正林」が否定されるべきなのか、一層分かり難くなっていることは、日本の林政上の特徴ともいえます。
現実に、多様な自然の中での超長期産業である林業で、このような「法正林」を造成することは、全く不可能であり、仮にこれに近いものが出来たとしても、森林の本来持つ公益的機能は、法正林の造成より優先されるべきことであることが、今日考えられ、森林・林業基本法のなかで明示されています。
木材生産機能は、多様な森林機能の一つに過ぎないのです。
純粋技術主義を採用した、官民有区分後の各地の官林(国有林・御料林)において、明治政府はこれを適用しようと継続的に試み、それが不可能であるばかりか有害であることがはっきり認識されたのは、昭和40年代以降でした。
なお、現在も森林関係者の中には、「この森林は法正状態に近く理想的だ」などの言い方で表現する人がいて話を分かりにくくしています。
明治時代、一方で、「純粋技術主義」を採用しながら、他方で、生みの苦しみを経て制定された明治30年「森林法」は「地木結合論」をその基礎理論としており、かつ、その理念が現在まで貫かれていることは、考えて見ると不思議な気がします。本来「地木結合論」とは、適地適産、適地適木という「合自然的な思想」であって、「純粋技術主義」とはまったく異なるものだからです。
明治政府は、官に対しては合理主義を、民に対しては規制をという方針を使い分けていたといえます。
森林法は私有林に適用されるものとの意識があり、私有林には統制を加え、官林からは一切の歴史的な「用益権」を排除したため、地元民が苦しんだ事例は、島崎藤村の「夜明け前」で辿ったとおりです。
入会利用を一切排除した「官林」に、森林経営の理論を適用し、木曽の御料林などにおいて、「世界に誇るすばらしい美林」が造成されました。
●「技術主義」の展開
昭和30年代の高度経済成長期に、木材需要は急激に増大し、木材価格の高水準が続き、日本各地で増伐が奨励されました。大新聞も伐り惜しみをする山林所有者をこぞって非難しました。
昭和40年代には、育種技術の発展を見込んでで2割増産、拡大造林を見込んで2割増産、林地肥培による成長量の増大を見込んで2割り増産という、とんでもない理屈で、国有林の増伐は正当化され、「国民の期待」に応えました。
同時に、日本各地で大面積皆伐が行われ山は荒廃し、公害の発生などを背景に、自然保護運動が活発化しました。
●空虚な「予定調和論」
このような自然保護論に対して、当時の林政では、「経済性と公益性の調和」というキャッチフレーズがあり、木材生産を適切に行えば国土保全機能も十分果たされるので、林業は自然破壊ではないという説明がなされました。
事実は、拡大造林の推進と成長量をはるかに超える伐採が継続しました。
このような当時の林政のあり方は、後に「予定調和論」といわれることになりますが、このような、林業観は、純粋技術主義に基づく用材生産を第一とし、公益的な機能の発揮は付随的なものであるという「林業の概念」を前提としていました。
●大きな転換点
森林の国土保全機能などの公益的機能は、本来、それ自体目的にしなければならないとした考え方が生まれる経緯の中で、昭和46年「将来の森林資源に関する報告−自然と人工との調和 豊かな森林資源を作り出すために」(科学技術庁調査所)が発表されたことが、大きな転換点でした。
●「予定調和論」から「二焦点林政」へ
「用材生産」と「公益的機能の発揮」の両方を同時に目的とすることを、それまでの用材生産一点中心の林政に対比して、「二焦点林政」と表現しこれを果敢に推進したのは、東京大学林政学教室教授筒井迪夫でした。焦点が二つある林政という意味で、楕円林政とも表現されました。
●森林・林業基本法の制定
現在、森林の「公益的な機能」や「多面的な機能」は、本来森林の持つ、第一義的な機能として明確に位置づけられ、これに基づく「森林・林業基本法」が、平成13年に施行されています。
「国民参加の森づくり」という理念も明示され、これは、「二焦点林政」をさらにすすめた林政といえますが、具体的な森林管理の姿としては、まだ、模索の段階です。
●新しくてふるい「林業の概念」
公益的機能などの商品として売買できない価値を、どのように確保していくかについて、現在多くの議論がおこなわれていますが、長期低迷している木材価格のもとで、当面、用材林業が立ち行かない状態が継続することを前提に、社会的な負担で賄う方策が始まっています。
木材価格の低迷にかかわらず、木材の価値や森林の恵みの価値は、変わらず大切であることから、できる限り木材や森林バイオマスを持続的に活用していくという、広い「林業の概念」が必要です。
実は、この新しい「林業の概念」は、古来からの「公私共利制」に基づく、現代における「地木結合論」の権化と考えても良いものです。(つづく)
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