森に親しむ談話室

森と人をつなぎ、人と人をつなぐ、森に親しむための談話室です。運営は、「森に親しむ研究所」です。

連載2:近代日本林政の系譜

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近代日本の森林と人との関わりあいの系譜について。

近代日本を代表する歴史長編小説、島崎藤村の「夜明け前」をめぐって、岐阜県の東濃地方の森林と人との関わりの歴史を確認しました。

さらに、近代日本林政の展開と課題を、森林文化教育研究会での11年間の資料をもとに再検討した私論です。
11回にわたって連載しました。
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 写真は、岐阜県中津川市加子母の「明治座」と「デレーケの治山工事」です。

 かつて、東濃地方には劇場形式の農村舞台が数多くあり、その数は60棟以上とも伝えられます。
中でも、加子母の「明治座」は、その規模、設備、建築様式から最大のもので、しかも、明治27年に建設されて以来今日まで生き続けており、実際に現在も歌舞伎や芝居、音楽会などに使われているものです。

 「明治座」に隣接して、オランダ人デレーケの治山工事跡地があります。
この地は、かつて土石流の頻発地域で、この対策として、明治政府が雇ったオランダ人技師が指導して工事を実施したものです。特に、幕藩体制崩壊の頃から明治初頭まで、全国の山が荒廃したことと符合します。

 明治政府が、荒廃した山地に近代的な防災工事を実施した代表的な事例です。
加子母は、「明治座」という大衆娯楽施設もつくり、全国の山里の中でもっとも先進的であったとも考えられますが、これを支えた山里文化の基盤は、藩林時代の留山を村持ち山として引継いだことによるもの思われます。その面積は1万ヘクタールに及ぶ広大なものでしたが、このような事例は少なく、全国の留山の多くは、そのまま官林とされ住民の利用が強く制限されることが一般的でした。

 さて、11月5日に掲載した記述の中で、「公私共利」の原則についてふれました。
 日本における、森林と人との関わりの原則です。
 今回は、やや抽象的にならざるを得ませんが、古来からの「公私共利」の原則について、辿ってみたいと思います。以下、長文になり恐縮です。

       〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その6)〜〜〜
             「公私共利」の原則

●「公私共利」の原則
 日本の山野の管理の原則は、古来、「公私共利」の原則によっていました。
 「公私共利」の記述は、古く、794年(延暦17年)の官符の中に見られます。(筒井迪夫著:「日本林政の系譜」地球社)
 「山川藪沢の利、公私共にすべし・・・」この官符が出された背景には、豪族による山野の占有がはじまったことを示しますが、その後もこの種の禁令は反復して出されています。

●所有権がない「山野」
 今の時代であれば、土地には所有権があって当然であるように思われますが、農耕地が限られ土地のほとんどが山野である場合に、所有権という発想は無い状態が当然といえます。

 山野を個人的に利用しているうちは、早い者勝ちだったかもしれませんが、地域の支配者(豪族)の統制により、組織的に山野の幸を採取するようになると、一定の区域の囲い込みがされるようになります。これが、荘園制から武士による領治への展開に対応します。

 荘園制以降の時代も、領主の保護のもとに領民による薪や草の用益が確保されてきたという意味で「公私共利」の原則が貫かれてきました。入会権もこのような「公私共利」の原則のうえに成立していたもので、はじめは領民同志の取り決めの性格が強かったといえます。入会権は領民の持続的な平等な利用が目的で、村仕法などの形の規制として完成度を高めてきました。

 なぜ、このような「公私共利」の原則が成立するかといえば、山野は太陽の光と同様に、個人が占有することは不可能であることを前提としていたからです。広大な山野に土塁をつくり、垣をめぐらし、見張りを立てれば占有が可能となりますが、一般には、それだけの手間暇をかけるぐらいなら、平地を集約的に管理して生産するほうが効率的であるので、山野は一定の利用権や採取権が確保されていれば良かったのです。

●林業の成立と「公私共利」の原則のゆらぎ
 杉や檜など有用木材の利用が増大し価値が高くなると、勝手に木材を伐り出すことは禁じられるようになります。これを徹底するために、領民の山野の利用方法について、詳細な規則がつくられ、領民に対する利用の制限はどんどん強くなっていきます。
 一方、藩政時代は、農業生産の安定と農家経済が破壊しないことについて、重大な関心を払っていたことから、災害などの際の公共用材の利用は公私の次元を超えて認めており、徹底した禁木制度とはなりえない側面を有していたことも事実です。

 すなわち、「公私共利」の原則は、各地域の実情に応じて、「公」と「私」との権利の範囲は、伸び縮みする関係にあるのが特徴といえます。

●木曽谷〜加子母地方など林業地域の「山林罰法」
 檜など有用な木材が多く産する木曽谷、現在の岐阜県中津川市付知、加子母、川上などでは、違反した場合の詳細な規定(山林罰法)があり、これらが、明治30年に制定された森林法の森林犯罪の項の参考にされ、明治初期に急速にすすむ森林荒廃に対処しようとしたという経緯があります。盗伐は主として官林で、火災は主として民林で取り締まりの方向が打ち出されていました。具体的には、留山(官林)で盗伐60日から3年の追放、留山で皮はぎ牢舎30日、明山(個人持ちの山)で盗伐木を買うと手錠30日、檜焼き枯らし牢舎30日などの規定がありました。

●明治9年「山林原野等官民有区分処分方法」までの紆余曲折
 このような処罰規定を背景に、明治政府は明治6年に地租改正及び地所名称区分法、明治7年に地所名称区分改正法、明治9年に山林原野等官民有区分処分方法を定め、山野の官有、民有の区別が定められました。このように、山野の所有の区別が一度で決まらなかったことこそ、明治政府の決定が「公私共利」の原則に反する処分方法であることと表裏の関係にあることを示しています。
 明治30年森林法制定後も、明治32年に国有土地森林原野下戻法が制定されるなど、明治政府だけでなく、今日に至るまで林野の管理のあり方は、大きな課題として引き継がれることになったのです。

●山野の「所有権」と「用益権」の取り扱い
 大きな課題とは、「所有権」として傾斜した法制度とこれまでの山野の「用益権」とをどのように調和させるかという問題でした。日本の森林政策では、総じて、「所有権」に整理する方向で山野の権利関係を整理し固定化しようとしたため、木材の価格が高い時代は伐採・造林が拡大し、土地の価格が高い時代は開発または放置される林地が拡大することになり、規制がない森林の公共財としての価値は常に追いやられることになります。今日の「人工林問題」が生まれる大元の原因は、明治政府以来の政策に由来してると理解することができます。

●明治30年森林法の制定
 一方で、明治30年の森林法制定で高く評価されるのは、森林を計画的に伐採する規制と、保安林として森林を保護する制度を規定したことにより、林地の所有権明確化への施策に対応する、「強制」と「保護」の二本の柱を設定したことでバランスをとったということであり、今日の森林法の柱ともなっている点といえます。ただし、固定化した法制度では、強制は形骸化する側面を持つことになります。

●山野の「社会的管理」への課題
 森林の持つ公益的な価値を実現するためには、森林を社会的に管理しなければなりません。「公私共利」の原則ができた時代、林業は粗放的な管理を前提としていましたが、公益目的にしても、社会的管理が集約的かつ継続的に行われた場合は、その土地と地上物はその限りにおいて社会的な財産となるべきです。

 当面は、所有者との協定という形で社会的管理を進めていくにしても、その管理が継続的になればより明確な森林の公益性確保のための取り決めが必要になるでしょう。
 その取り決めとは、森林と土地を別のものと考えるのではなく、土地と一体になって生きてきた人間の歴史に焦点をあてて地域ごとに見直すことからはじめなければなりませんが、それには、相続が発生するたびに所有権が細分化していく現在の制度では、行き詰まりが見えていることも事実です。

 明治政府以来の森林管理の系譜を修正し、本来の姿として「公私共利」の原則を掲げるためには、山野が私的所有物であることを実情に応じて制限しなければならず、「森林管理放棄地認定処分法(仮称)」なるものの制定の必要がすでに発生しているのかもしれません。我々自身が越えるべき課題も多いといわざるを得ません。

●林業地の今日的な役割
 もちろん、写真の例で示すような岐阜県の東濃地域をはじめ、各地の熱意ある林業地では計画的な森林施業の推進により、先人から受け継いだ山の資産を大いに活用し、次代に引継がなければなりません。
 そして、森林の持つ様々な価値を発揮させることにより、安全で、美しい山村の実現と、心豊かな山里の文化をますますエンジョイしながら、都市との交流も深めていただくことが日本の森林文化隆盛に大きく貢献することはいうまでもありません。
(つづく)
 

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 写真は、今年の9月のはじめ、強く降る雨の中、岐阜県中津川市坂本の坂本神社に立ち寄ったときのものです。
 現在、決して有名な神社というわけではありませんが、全国の多くの神社を見慣れた私にとって、古くからの参道の名残や境内のたたずまいから、とても味わい深い雰囲気が感じられました。坂本神社は創始以来1300年の歴史があるとのことです。

 急にひとりで立ち寄ったのですが、神奈川の神社での修行から帰られたばかりという若い宮司さんに丁寧に出迎えていただきました。「夜明け前」に登場する、馬籠の万福寺の若き住職を思い起こしました。
昔の神社の姿や鳥居の奥の石積みはとても精緻に組まれていることなど、説明していただき、帰り際に思わず「頑張ってください」と言ってしまうと、素直に「ありがとうございます」と返されました。

 境内の庭には、1本のハナノキが植えられていました。
ハナノキとは、カエデの仲間の樹木ですが、全国で、東濃の限られた100kmぐらいの範囲にしか分布していません。中津川市坂本のハナノキ自生地は、大正9年国の天然記念物に指定されています。この地域に夥しい数の池沼があることと関連があります。

 わが国の樹木の貴重種として有名な、坂本のハナノキは、今年になって注目されつつある「生物多様性確保」の中でも代表的な樹種ですが、北アメリカ東部に近縁種があり、これが一部で緑化樹として日本へ移入されているといわれ、在来のハナノキとの交雑による遺伝子撹乱の恐れがあります。
 生物多様性において「種内の多様性の確保」の重要性から見過ごすことのできない事例です。

 蛇足になりますが、生物多様性には、ほかに、「種間の多様性の確保」と「生態系または景観としての多様性の確保」があります。

 さて、ずいぶん前置きが長くなりました。

 〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その5) 〜〜〜

 裏木曽を訪れると、まだ、あまり観光地化されていないところが多くあり、いろいろな場所で山里の美しさや日本古来の山村の生活の気配を感じます。
 島崎藤村の「夜明け前」でみてきたように、森林の恵み以外に頼るところがないのが山村でした。
 
 近年、木材価格が著しく落ち込み、多くの場合木を伐ってもこれを搬出して再度植えることが、難しくなっています。
 林業のほか見るべき産業がなく、林業で自立することができなければ、過疎がすすみ村は崩壊します。
 一方、都市近郊や平地において、森林は開発転用の対象としての価値しか認められず、林業放棄、森林放棄の状況がすすんできました。

 森林を収益の対象としてしか見なければ、地域を自立させる力のない林業は存立価値を失うことになります。

 森林政策を研究する学問として「林政学」がありますが、経済政策学としての林業を研究してきた「林政学」は、明治以降昭和50年代まで続きましたが、そこまでで行き詰ってしまったともいえます。林業の担い手が誰かというターゲットも拡散した状態が続いています。

 このような状況は、林学という学問の限界ではなく、日本が明治初期にドイツから林学を引き継いだとき、いくつかの誤りがあったことによります。
 最近の日本林業経済学会誌においては、課題の模索と水源林の維持やボランティア活動の実態など森林の社会的管理の動向についての研究報告がなされており、林政学が新たな方向に展開しつつあるようですが混沌とした状況です。

 「森づくりは、半ば科学であり、半ば芸術である」という、ドイツ林学の祖ハインリッヒ・コッタの言葉は、すでにご紹介しましたが、森林と土地を別のものと考えるのではなく、土地と一体になって生きてきた人間の歴史に焦点をあてて見直すことが避けられないのが現在の状況であるともいえます。
 
 森林を公共財として見て、また、森林の価値を貨幣価値に置き換えて説明しようとする試みもなされ、一定の注目を集めましたが、森林の価値を数量化してもその価値を伝えたことにはなりません。
 また、投資の費用対効果を算出するには、美や信仰の対象など森林の価値はあまりに多様です。
 
 環境保全や治山治水についても、生活との結びつきの中でその施策を明確にする必要があるのですが、基盤となる生活文化も包括する林政学の再構築がより一層認知され進展する必要があり、これに一石を投じる意味もあり、今後、キーワードをいくつか選び、話題としていく予定です。(つづく)

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 このブログをほとんど毎日読み続けていただいている方から、メールをいただきました。とてもありがたく、この場を借りてお礼を申し上げます。

 でも、このブログも永遠に続くわけではありません。始まりのあるものには必ず終わりがあるのが世の常である、などと大げさな表現を要するまでもなく、どんな長い物語にもきっと終わりがくるのでしょう。
 とはいいながら、まだまだ続きます!

 秋の夜長です。
 この時期、多少古くなった家には、ヤモリがガラス戸に這い回ることがあり、私の実家からも「ヤモリを見た!」とわざわざメールが届きました。

 とりとめのない、書き出しになりました。

 写真は、今年の6月末、裏木曽といわれる岐阜県中津川市加子母の「三十三観音像探索会」に単独参加させていただき、第十七番観音を発見したときのものです。今では、道の位置すら定かでない、加子母から長野県王滝村に抜けていた旧街道沿いには、三十三観音が街道の旅人を見守っていたことは確かで、長い眠りから探し出そうという探索会です。
 測量の専門家も加わっており事前の周到な準備もあって、第十七番観音像は見事にその日に見つかりました。ヒノキの巨木の切株の根元に伏せて倒れて苔むしている観音像を、目聡く発見した会員がいました。直ちに、沢水で清め、般若心経を唱え、お神酒を供えました。その手際よさには感心しました。はじめての参加で観音像発見の瞬間に遭遇できたのはとても幸運でした。そして、そのとき初対面の加子母の皆様のご親切は忘れません。

さて、今回は、「夜明け前」の連載(その4)です


       〜〜〜 近代日本の森と人との系譜について(その4)〜〜〜
             島崎藤村「夜明け前」をめぐって

 「夜明け前」第二部下の冒頭に、木曽谷三十三カ村の総代15人が連署して、一通の嘆願書を名古屋県福島出張所に差し出した際の記述があります。歴史上「山林事件」といわれるものです。島崎藤村の実父がモデルである半蔵は、その中心的なメンバーでした。以下、引用になります。

       〜〜〜           〜〜〜

 「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも留山(とめやま)というものは立て置かれてある。

 しかし、それ以外の明山(あきやま)にも、この山中には御停止木(おとめぎ)ととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる。」

 これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。

 いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。
 
 筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属(ごんちゅうぞく)の本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、・・・・本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとの旨(むね)を口達した。

 この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。
 これには人民一同狼狽(ろうばい)してしまった。

   〜〜〜     〜〜〜

 青山半蔵は、自分たちが生命を賭して成立させた明治政府であるから、いったん官林に編入されても、この嘆願書によって、明山(個人持ちの山)の解放は認めてくれるに違いないとの期待を抱いたのですが、これを無残に打ち砕いたのが明治9年の指令でした。歴史上、日本の全土を、官民に分けた「官民有区分」と呼ばれる地租確保のための施策です。
 すなわち、福島支庁は、五木が生長するところはすべて官有地であると明言し、個人持ちの山も、官有地となったのです。この「官林」は、後に日本の森林経営最高のものとして世界に誇る御料林として、すばらしい収益を上げることになりますが、その裏で、木曽谷の村人にとって「夜明けいまだし」の嘆きの歴史が同時にはじまったといえます。そして、その嘆きの萌芽は遠く元禄時代の栄華の影で芽生えたものでした。都市と山村の問題のはじまりとも理解できます。(つづく)

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 今回は、再び「夜明け前」をめぐって、森林と人との関わりについての系譜です。

・上の写真は、今年9月末、岐阜県中津川市落合付近からの恵那山の姿
・中の写真2枚は、今年7月の雨の日、水量の増した中津川を遡り訪れた恵那神社とその境内です
・下の写真は、「木曽の五木」のなべ敷きで、25年ほど前に木曽へ行ったときのお土産です

       〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その3)〜〜〜
             島崎藤村の「夜明け前」をめぐって
 
 第一部上・下、第二部上・下の四部から構成される島崎藤村の長編歴史小説「夜明け前」第一部下は、幕藩体制が崩壊し明治維新の年、主人公青山半蔵の心持ちを、次のように結んでいます。

    〜〜〜   〜〜〜
 一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武(じんむ)の創造へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。
 日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤(あつたね)の遺著『静(しず)の岩屋(いわや)』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であらうでござる。」
    〜〜〜   〜〜〜

 半蔵が「遠い古代の出発点」とイメージしたものは何か、世の中全体のことであると同時に、地元の村人の暮らしのあり方に関わることでもあることは間違いなかったと思われます。
 18世紀初頭に尾張藩が創設した厳しい「禁木制度」は、半蔵の青年時代に変容していたのです。
 すなわち、木曽の五木の伐採を個人持ち山まで禁止するだけでなく樹皮を剥いだり枝葉を降ろすことも禁じた徹底した制度となった「禁木制度」は、遠い古代からの人と森林との関わりの出発点とかけ離れ、建て直しが必要であることが確信されたと思われます。

 遠い古代から、わが国の林野は「公私共利」の原則のもとに利用されていました。
 神社の起源である神体山信仰も、「公私共利」の原則の原型かもしれません。

●「公私共利」の原則
 「公私共利」の記述は、古く、794年(延暦17年)の官符の中に見られる。(筒井迪夫著:「日本林政の系譜」地球社)
 「山川藪沢の利、公私共にすべし・・・」この官符が出された背景には、豪族による山野の占有がはじまったことを示すが、その後もこの種の禁令は反復して出される。
 やがて、荘園制から武士による領治、幕藩制と移るにつれて、領主の保護のもとに薪や草の用益が確保されてきた。すなわち、領主と領民とが共に利するべき対象として、山野があった。
 古代から1870年代(官民有区分)に至るまで継続していたこのような関係が、まさに、日本における森林と人との関わりの原則、すなわち「公私共利」の原則であった。
 幕藩体制のもとでは、この原則の上に山野の入会管理が全国各地で行われていた。

 17世紀末から18世紀の初頭にかけて、江戸における華やかな元禄時代の隆盛と裏腹に全国各地の森林資源は、急速に枯渇していった。これを「尽山(つきやま)」といい、旧藩では、「尽山」対策のため、木曽の五木や会津の七木などを定めた。
 なお、そのような「禁木制度」のもとにおいても、公共用材や村民の救難用材の利用は認められ、農業、農民の生活安定のためには、特例的な承認を与えていた。

 しかしながら、19世紀末の幕藩体制末期、尾張藩の財政事情の急迫を背景に、「禁木制度」を徹底するため、村人の日々の生活の森林利用の排除にまですすみ、木曽谷においては、公私共利の原則のバランスは喪失していった。
 
 半蔵の青年時代は明治維新の直前にあたり、公私共利の筈の森林利用から、村人排除が大きくすすんだ時代であった。
 半蔵は、新たな近代日本の幕開けに期待し行動するが、その期待は裏切られ、むしろ、バランスを喪失させる力は、より強固な形で、明治政府で実現され、第二次世界大戦終了後の昭和時代まで引き継がれる。

  「夜明け前」第二部上に、明治維新後に半蔵がこれに対処してどのように行動したか、その様子が克明に描写されている。
 今、或いは、将来にわたり、森林にどう関わればいいのか、「夜明け前」の中で発せられているそのヒントとは?、次回以降、「夜明け前」の後半について話題としていきます。
(つづく)

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 9月下旬の連休に、新潟県糸魚川市からフォッサ・マグナ西縁の大断層に沿って流れる姫川をさかのぼり、塩尻を通り、恵那山トンネルを抜けて中津川市に入りました。

 人ひとりいない恵那山の「神坂大檜」を訪ね、馬籠宿に立ち寄り、中津川在住の知人の誰に会うこともなく、木曽路をあとにしました。
 
 ・上の写真は、中津川から落合方面
 ・中の写真は、恵那山のすがた
 ・下の写真は、神坂の大檜です

 島崎藤村の生家は、馬籠宿の本陣を守る旧家でした。
 藤村の「夜明け前」は、第一部上、下、第二部上、下、の4部構成の長編歴史小説です。

 「夜明け前」第一部上には、藤村の父がモデルである主人公、青山半蔵の青年時代が描かれています。
 今回は、第一部上を主体に、明治維新の激動の時代を生きた半蔵の、故郷山里の人々への想いを原文で確認したいと思います。今回は、長文になり恐縮です。

        〜〜〜 近代日本の森林と人との関わりの系譜(その2)〜〜〜
                島崎藤村の「夜明け前」をめぐって

「夜明け前」第一部上、より(小見出しは筆者)

●半蔵の青年時代の感性

 彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐(せぎ)りをしたりしたという科(とが)で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。

その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れて、腰繩(こしなわ)手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬(くろくわ)や小前(こまえ)のものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。

馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つは継母(ままはは)に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部(なか)に奥深く潜んでいたからで、この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。

 〜 〜 〜

●「尾張藩の林政」と「山の恵みに頼る木曽谷の人々の暮らし」

 当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩(おわりはん)で、巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。

言って見れば、檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、※(ねずこ)[#「木+臘のつくり」、118-13]の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。

半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。一石栃(いちこくとち)にある白木(しらき)の番所から、上松(あげまつ)の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。

 しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。

村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉(ばっしょう)して、雑木を伐採したり薪炭(しんたん)の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製割籠(わりご))、お六櫛(ろくぐし)、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本(もとで)もかなり多い。

耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「御免(ごめん)の檜物(ひもの)」と称(とな)えて、毎年千数百駄(だ)ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長(けいちょう)年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「御切替(おきりか)え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。

どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。

 〜 〜 〜

●激動の時代 〜 「公武合体」と「尊王攘夷」の狭間で

 「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
 と彼は思い直した。水垢離(みずごり)と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠(やまごも)りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。

 御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙(へんぴ)な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。

ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。

眼前に潰(つい)えて行く旧(ふる)くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人(かみごいちにん)ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻(から)もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏(おそ)れた。

 〜 〜 〜

●自然(おのずから)に帰ること

 半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近(ちか)つ代(よ)」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻(から)を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。

この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然(おのずから)に帰ることであり、自然(おのずから)に帰ることはすなわち新しき古(いにしえ)を発見することである。中世は捨てねばならぬ。

近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。

そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡(ほんじすいじゃく)の説や金胎(こんたい)両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。

全く神仏を混淆(こんこう)してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。

 〜 〜 〜

●封建制末期の混沌期における藩政の強化・村民への圧政

 すこしく当時の形勢を注意して見るものは諸藩が各自に発展の道を講じはじめたことを見いだす。

海運業のにわかな発達、船舶の増加、学生の海外留学なぞは皆その結果で、その他あるいは兵制に、あるいは物産に、後日のために計るものはいずれもまず力をその藩に尽くしはじめた。

 中国の大藩、御三家の一つなる尾州ですらこの例にもれない。そのことは尾州家の領地なる木曾地方にもあらわれて、一層の注意が森林の保護と良材の運輸とに向けられ、塩の買〆(かいしめ)も行なわれ、御嶽山麓(おんたけさんろく)に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。

人参(にんじん)の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県(ちいさがた)の上田、水内(みのち)の飯山(いいやま)あたりまでさかんに奨励され、それを尾州藩で一手(いって)に買い上げた。

尾州家の御用という提灯(ちょうちん)をふりかざし、尾州御薬園御用の旗を立てて、いわゆる尾張薬種の荷が木曾の奥筋から馬籠(まごめ)へと運ばれて来る光景は、ちょっと他の街道に見られない図だ。

 〜 〜 〜

●変革の確信

 種々(さまざま)な流言が伝わって来た。

家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮(たいりょ)に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。

もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測(おくそく)をさも本当の事のように言い触らすものもある。

いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯(しょうがい)と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。

「暗い、暗い。」
 半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。

==========
 
 以上、大変長い引用になりました。
 
 山里の「宿」の本陣にあって、東西から次々に伝わる情報に刺激され、封建社会の行き詰まりと激動の時代の混沌の中で、半蔵は大きな変革は避けられないことを確信したのです。その変革の中に、木曽の山里を守り伝えてきた人々の生活と心の苦しみを開放したいという、一筋の道を期待していたことは、半蔵のこれに続く行動として克明に描かれていきます。
 そして、明治以降の日本の森林政策の展開は、その期待を見事に裏切り、昭和の高度経済成長期の終焉までその遺物を引きずることなるのですが、その系譜をあとづけることがこのシリーズの主題です。

 ひるがえって、今日一般化している環境教育において、ともすれば忘れらがちなこと、すなわち、「森林が環境を良くすることに気づき、感じ、関心を持つようにするとともに、正しく理解するだけでなく、その森林と人がどう関わってきたかに思いをいたし、誰がどのようにその森林を育て守るべきか」という視点を、「夜明け前」第一部上、において読み取ることはこじつけではないと、私は考えています。

 次回は、「夜明け前」第一部下、を主に話題とさせていただく予定です。(つづく)

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