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海岸林は面白い!

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海岸林と東京湾の風景

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 今回の更新は、写真1枚です。

 富津岬海岸林内の、あまり知られていない展望台からの、東京湾の風景です。
 対岸は、三浦半島。

 10年ほど前、中国の森林関係者がこの海岸林を視察したとき、案内させていただきましたが、
 この場所で、「この世の天国のようにすばらしい!」(かなりオーバーなお世辞)
 と評しました。

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昨日に引き続き、平砂浦砂防史(その2)です
(1995年作成資料に加筆)
写真は、県営の大規模な温室植物園のある、南房パラダイス上空からみた平砂浦海岸です

第4章 平砂浦砂防事業(昭和30年代以降)
●海岸砂地造林の完了
 昭和32年をもって、146ヘクタールの砂防林を植栽し千葉県林務課の直営事業としての当初の計画を完了したが、引き続いて昭和33年から毎年砂防林造成を継続し、昭和50年度までに計267ヘクタールの砂防林を造成した。
 直営事業とは、千葉市にある県庁から担当者が泊まりで出張し現場監督として、地元作業員を雇って工事を行うことで、昭和30年代までは全国で一般に行われていた。現在は、請負工事として実施している。

 クロマツの植栽は、静砂垣による砂の固定と併せて行わなければならないが、静砂垣の作設には大量の竹材を必要とした。この竹材は、主として隣接する和田町の安房西部森林組合が供給した。竹材の生産は地域の重要な産業となっていった。

●海岸線侵食の進行
 平砂浦は、一名を鬼ケ浦という恐ろしい名をも併せ持っている。潮流の変化が激しいこと、多量の波しぶきと飛砂を伴う冬季の強風(「房州のカラッ風」)が4日も5日も吹き荒れ、田畑を埋め、川をせき止めて流れを変えてしまうことから、地元民が鬼の異名を与えたといわれる。

 昭和40年代になってから、平砂浦海岸南部を中心に砂が流出し汀線が保安林に接近した。
 昭和43から17年間にわたり、千葉県南部林業事務所は、防潮工・護岸工、計3,939 mを施工。その間、昭和56年,57年に波浪による防潮工の倒壊および砂丘の流出が起こった。
昭和60年をもって、防潮工及び河口部護岸工を完了し、砂丘の脚部が固定された。
 その後は、しだいに海岸に砂がつきはじめたが、それと同時に飛砂が再度激しくなり防潮工を越えて背後の砂丘の形を変えながら砂防林内に絶えず侵入し、平砂浦全域にわたり砂丘の再構築が必要となった。
 
 保安林に指定された海岸が侵食を受けると、災害復旧事業としてコンクリートを用いた防潮護岸工の造成が始まる。全国の海岸で同様な状況となっており、美しい砂浜の海岸線が失われることになるが、後背地の利用の変化や、侵食そのものの根本的な原因が何かの問題も含め、このこと(砂浜のコンクリート護岸化)の是非について即断は難しい。

●海岸へ向かって植林の拡大
 昭和60年、砂防林の最前線部の砂丘再造成に着手、緊急を要する「州の宮」地区に昭和60年堆砂工668mを施工した。
 従来の砂丘造成は、堆砂垣を主風方向に直角に作設し、自然の風の力により垣の前後に砂を堆積させ、これを繰り返し、順次砂丘を高くすることにより行われた。
 現在の砂丘は、高さ約10m、巾20〜30mの砂丘をブルドーザやバックホウなどの機械力により短期間のうちに造成する。
 砂丘の表面は砂草(ハマニンニク)の植栽、竹編柵、竹祖だ、ワラ立、敷ワラ、留め縄等を縦横に施し、砂丘を安定させる。昭和61年と62年の2箇年で2000mの砂丘造成を完了した。
 この後も、部分的な植栽や砂丘造成はおこなわれているが、平成2年以降平砂浦砂防林造成は、新たな時代を迎えた。すなわち、一斉に植林されたマツ林が過密化したため、間伐(本数調整伐)の開始である。

●過密化した海岸マツ林に対する間伐の提唱
 昭和50年代後半、千葉県九十九里海岸林での間伐が、全国ではじめての事例であったことも記憶に留めたい。

 海岸林に対して、間伐が有効かどうか、昭和50年代まで、定説はなかった。すなわち、海岸のように気象条件が極限的に厳しい場所では、樹木はぎりぎりの状態で生育して、気象条件とのバランスをとっているのだから、人為を加えてそのバランスを一瞬でも崩すと、大きなダメージを受けるであろうと考える識者がいた。

 九十九里海岸での初めての間伐に先立ち、後に海岸林の密度管理について全国的な第一人者となった千葉県林業試験場の故小田隆則は、昭和59年「治山」12月号に試論として「海岸クロマツ林の間伐について」を発表している。
 この中で、小田は「周知のように、海岸砂地における造林は、海岸特有のきびしい、しかも多様な立地条件を勘案して高密度植栽がなされている。河田による密植造林方式は荒地造林の一法としてはきわめて卓越した方法であるが、その結果、林木相互間の競合が激化し、自然間引きが招来している。これらの林分は形状比、枝下率が異常に高い個体群によって構成され、林分崩壊の危険さえ感じさせる。」「なぜ海岸林で間伐が必要なのか?、という否定的な疑問は識者の間にさえ根強く残っている。それがときとして間伐の実行をためらわせることすらある。」と述べ、密植造林により造成した海岸林における間伐の必要性について、広く全国治山関係者に強調した。今日では、海岸林において、最前線の犠牲林帯を除き、間伐が行われている。

 これと前後して、小田は、日本林学会等で千葉県の海岸クロマツ林における間伐の定量的な指針を発表した。これに基づく本格的な間伐は九十九里海岸保安林で実施され、平砂浦においても、千葉県南部林業事務所は、平成2年度からこの指針に従い保育事業として海岸林の本数調整伐(間伐)を開始した。
 今では、全国各地の海岸マツ林で間伐(本数調整伐)が、一般的なこととして実施されている。

●継続する砂または潮流との鬩ぎ合い
 さて一方、平成5年頃から最前線部の飛砂が激しくなり、平成6年度から県は砂丘の補修を開始したが、飛砂によるマツ林の埋没は激化しており大規模な砂丘造成を再度開始した。

 江戸時代の砂流し、明治、大正時代の言語に絶する労苦といわれたマツの植栽、第二次世界大戦中の軍による砂防林の伐採。戦後、昭和30年代までの河田杰に指導を受け県と地元が一体となった砂防林造成。昭和40年代から50年代にかけての防潮護岸工の施工。昭和60年代前半の砂丘の造成整備。平成2年以降はマツ林に間伐を実施しマツ林そのものを強化する段階に達した。この段階は、まだ十数年は続くものと思われるが、一方で、砂丘の再造成が並行して進められている。
 今後もマツを守り育て、いつか必ず訪れる津波や地盤の急激な隆起に備えるための営みは、継続して行かなければならない。

 なお、平成14年度以降、平砂浦海岸の侵食傾向は再度強まり、追加護岸工事が実施され、平成17年度で一段落する予定である。

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 昨日に引き続き、海岸防災林の話です。

 日本列島の多くの地域では冬の季節風は一般に北西の向きの風ですが、房総半島の最南端に近い館山市以南では、主として強い西風が冬の風です。
館山市平砂浦の海岸線は西に開いており、古来、冬季の飛砂の害は甚大です。

現在、240ヘクタールの海岸砂防林が造成されていますが、いまなお、最前線部では、砂との鬩ぎ合いが、いつ果てるとも知れず続けられています。
 下の写真は、海岸沿いの砂丘の一部が強風で決壊し植栽して2,3年目のマツの幼樹が、一夜のうちに砂に埋まってしまった状況です。

 今から15年ほど前に、森林文化教育研究会例会で3回にわたり発表した資料を要約一部加筆して掲載します。
 (森林文化教育研究会は、東京・大阪の小学校の先生を主体とした、森林を基軸とした環境教育に関する研究会です。今年は、第14回シンポジウムを高知県で開催しました。)

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           「平砂浦砂防」と「河田杰(かわだまさる)」(抜粋・要約)
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 はじめに

 現、千葉県館山市の平砂浦海岸では、太平洋プレートの沈みこみにより、南関東で周期的におこる大地震の際の隆起のたび毎に沿岸部の広大な海底が砂浜となり、飛砂の害が著しく発生し、人々の砂との闘いが長年月にわたり続けられてきた。
 大正時代から昭和にかけて、わが国における森林生態学および海岸砂丘造林の研究で先駆的な役割を果たした河田杰(かわだまさる)は、平砂浦砂防をはじめ、千葉県の海岸砂防造林においても重要な人物であった。

第1章 「平砂浦砂防史」概要

元禄16年(1703) 関東南部に大地震 大津波で86人死亡
 土地の大隆起あり地表に亀裂を生ず隆起は十余尺と推測せらる

 広大な海底が砂浜となって出現し砂は冬期の西風により飛砂となり砂丘を形成し、さらに後方の耕地を襲った。
1789年〜1800年州宮部落の飯田九平が青春の10年を砂流しに捧げた。砂流しとは平砂浦に流入している小河川の水流を利用して、耕地側にたまった砂を海側に戻すことをいう。初めは一人であったが効果が見えだしたので村人が同調し、ついに2町3反の耕地を完成した。

天保年間安西吉兵衛が砂防林を2町歩余造成し後方の官有地13町歩払い下げに成功。

 安政2年 (1855) 大地震により,またも飛砂の害が繰り返された。
 明治4年(1971) 犬石村戸長島田忠右衛門が砂流しを施工したが工費の莫大にして疲弊せる農村はその負担に苦しみ中止した。
 (中略)  
 大正12年9月1日(1923)関東地方に大地震津波あり,陸地は大隆起を起こし7尺に及ぶ。海岸線は一面の白砂地帯と化した。
 地震以後,再び砂流し事業が始まったが功半ばにして軍の買い上げとなり以来耕地は荒廃の一途を辿った。昭和15年海軍爆弾投下演習地として軍が買い上げ250年をかけた砂防林をことごとく伐採。犬石部落役員事の重大さを軍に陳情したが受け入れられなかった。農家の生産は急速に減退し、年毎に転業者が増えた。

 終戦後,神戸村村長早川みたを代表とし千葉県林務課に陳情。県は、ただちに昭和24年県の直営工事として砂防工事を実施。24ヘクタール強の海岸砂地を国から買い上げた。
 千葉県は慎重を期すため、林野庁指導部長藤村重任氏を介し斯界の権威者河田杰に指導を依頼した。
 昭和24年7月12日河田杰氏が来県し,現地調査を実施。自ら第1年度の設計を快諾され、9月に設計完了,10月1日副知事柴田等氏により鍬入れ。
 昭和32年度をもって,146ヘクタール175万本の黒松を植栽し砂防林造成を完了した。

第2章 河田杰(かわだまさる)

 明治22年(1889)1月6日   東京新宿に生まれる
 大正3年(1914)7月      東京帝国大学林学科卒業
大正13〜15年(1924〜1926) 造林学研究のため米英仏独に留学
農務省勤務          生涯の殆どを目黒の林業試験場に勤務した。
 昭和21年(1946)       退官後東京教育大学講師等を勤めた。

 昭和7年(1932) 「森林生態学講義」発行 日本林学会から「白沢賞」
 昭和14年(1939)「森林に対する生態学的研究」により農学博士
 昭和15年(1940)「海岸砂丘造林法」で日本農学賞

 昭和30年1月16日 平砂浦砂防林の完成を前に自宅で死去


 ちょうどこのころ、平成3年10月28日「河田杰」上,下:長男河田伸一氏が37回忌に自費出版され、筆者は、幸いにも河田伸一氏に手紙で連絡をとることもでき、河田杰氏の往年の人と為りを知ることができました。
 以下は、その抜粋です。

 「父の仕事は森林生態学,砂防造林,間伐の3分野に大別できるであろう。「森林生態学講義」は取材と執筆に数年,「四季を通ずる降水量の配布状態がスギ、ヒノキの分布に及ぼす影響」は研究から完成迄に16年かかっている。茨城県村松海岸での海岸砂防林の研究は,約20年をかけて成功した」

「父は多少の偏見をもって,当時の林学の研究に対し・・・・スッキリとした結論のでる研究テーマばかりやっているから,邪道だ。・・・・人に役立つ仕事であればその仕事がどの程度困難かということは,引き受けるかどうかのキメテではない。・・・・時間切れで一生終わるとしても良い。・・砂防造林の研究を苦労して克服した後の父が,そういう信念を持つに至ったのであろうと思う」
 
「父は・・・・昭和24年8月,この夏の日々をまさに自宅で平砂浦砂防林第1年度分の設計に費やしていた。私の記憶では,この夏程,機嫌の良い父を見たことは余りない。平砂浦砂防林の設計は,父にとって生き甲斐のある仕事であったに違いない。」

 「この設計書によると主風の西風に対して直角及び平行に主垣を幾層にも作る。
父の開発した工法の標準のやり方だと垣が砂に埋没するのを待ち,この人工砂丘を風よけにして黒松を植えるのであるが不思議なことにこの設計書はそうなっていない。『垣を直接の風よけとし,垣の設置と同時に植栽を行う』と明記されている」

 「亡くなる迄の6年間,いつも平砂浦砂防林の事を気にしており,随分頻繁に見に行っていた。行く時は必ず胴乱を持って行き,植物を採集して帰ってくる。インデックス(指標植物)の研究は,ここでも続いていた」



第3章 平砂浦砂防の特徴

 平砂浦の砂の害は,周期的に発生する南関東の大地震に伴う海岸の隆起のたびごとに著しく発生してきた。
 砂防の方法は江戸時代の「砂流し」から「砂防林造成」へと変遷した。
 また,首都近傍の砂防林と同様,第2次世界大戦中の軍により地元民の長年月にわたる労苦の結晶であるマツ林がことごとく伐採されたが,戦後,千葉県林務課が河田杰氏の指導のもとに,国の補助を受け県の直営事業で復旧した。
 なお、このとき河田氏の用いた,汀線ぞいに主垣を作設し同時に静砂工を施して植栽を実施する設計方法は,工事の緊急性に配慮したもので,当時としては、防風工を併設する海岸防災林造成のパイオニア的な事例と思われます。

(以下は、明日以降に連載します)

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今回は、写真をゆっくりご覧ください。

森林というと、山を連想しますが海岸にも戦後多くの森林が造成されました。
飛砂や高潮の被害を防ぐためです。

一番上の写真は、東京湾内に突き出た富津岬で、このような地形は、砂嘴(さし)と呼ばれています。
ここは、明治維新の前から終戦まで、外国から江戸・東京を守るためのお台場とよばれる大砲がおかれた要塞があり、砂塵が舞う軍用地でした。18世紀初頭から地元の人たちが植えて育ててきたマツ林の多くは、戦時中伐採されてしまいました。

現在は、保安林であり、国定公園であり、都市公園であり、海岸砂地植生の天然記念物であり、特別鳥獣保護区にも指定されて、ひとり5役も負わされてこの海岸林も大変です。

昭和28年に第3回全国植樹祭で昭和天皇が植樹し、全国の「海岸砂地造林」が広く行われる先駆けとなった場所です。上から3枚目の写真は、50年経ったお手植えの松の現在の状態です。

現在、このような海岸マツ林は全国各地にありますが、多くが治山事業として維持造成されており海岸防災林と呼ばれています。
北海道では、マツが育たないので、カシワの海岸林が見られます。

日本の、海岸砂地造林の歴史は世界で最も古く、17世紀から記録があります。
海岸の森林もまた、日本人は「ヤマ」と呼び親しんできました。

今年は、富津岬の南側の砂浜では、バカガイが大豊漁で、6月以降連日たくさんの人々が出ていますが、いまだに採れきれないほどの状態です。バカガイは、青柳といわれて寿司のネタのほか、地元では青柳丼として貝柱を使ったどんぶり料理があります。

先週、海岸でおばあさんに聞いたところ、40年ぶりの大漁だそうです。
ちなみに外房のマイワシは70年ぶりの減少の周期にあり大漁時の数パーセントに落ち込んでいます。
今年は、ブナも6、7年に一度の豊作年になりましたが、そのほかの年は、ほとんど成りません。
自然のサイクルは、私たち人間には不可思議というほかありません・・

海岸林について、ご意見ご質問があればどんなことでもどうぞ!

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