全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全31ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

                   ■第22則■雪峰鼈鼻蛇(せっぽうべつびじゃ)
                         垂示(すいじ)(序論的批評)


【書き下し文】(※現代かな遣い・新漢字に一部変更)
垂示(すいじ)(いわ)く、大方(だいほう)外無く、(さい)なること隣虚(りんこ)(ごと)し。擒縦(きんじゅう)()に非ず、巻舒(けんじょ)我にあり。必ず(ねん)を解き(ばく)を去らんと欲せば、(ただち)(すべから)(しゃく)を削り(しょう)を呑むべし。人々(にんにん)要津(ようしん)坐断(ざだん)し、箇々壁立千仭(へきりゅうせんじん)ならん。(しばら)()え、()什麼人(なんびと)の境界ぞ。(こころ)みに()()よ。


【私的口語訳】

人間の実相は、宇宙全体余すところ無く広がり行き、極々微小な物質の中にも内在しているのである。それを

捉えるのも放つのも自分自身の意思であり、巻き取るのも開き広げるのも己自身の心が為すものである。もし

現象に対する執着から脱しようとするならば、当然五官の現象を放ち去ることが当然必要なのである。人々が

この要点を的確に捉えることができれば、個人の信仰は確立せられるであろう。ではその信仰確立の境界点は

一体どこにあるのであろうか。次に掲げる公案を読んで、その真意を悟りなさい。


【私的解釈】

「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題)の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。冒頭の「大方外無く、細なること隣虚の如し」とは、人間の本質たる完全円満の自己そのもの、生命そのものの存在について、空間軸的な表現を用いて表した一文である。大方とは無限に広がり行くことである。大乗経典の1つとして知られる華厳経は、正式には『大方広仏華厳経』と称するもので、全世界全宇宙は御仏の顕現であり、同時に微細な塵芥の中に全世界を内包し、一瞬の中に久遠の魂が存在することを説いた経典である。宇宙全体に広がっていて、その外側は存在しない。際限なき拡大である。宇宙に満ち天地に満ちる毘盧遮那仏と一体であるのが、人間の内在せる実相である。しかし、同時に、矛盾するようであるが“一点も無い”のもまた、人間の真実在としての魂である。本文中では「細なること隣虚の如し」とある。隣虚とは文字通り、限りなく無に近い極小の存在を表す。その極小の存在すらも超越したところにあるものこそが、光明楽土天国浄土の世界である。人間の生命なるものは本来無相であるから、大とも小とも表現し得ない存在なのである。

これを換言すれば「この身はこのまま毘盧遮那仏の国土であり、毘盧遮那仏の生命そのものである」と言える。だからこそ「擒縦他に非ず」で、捉える(=擒)のも放つ(=縦)のも他ならぬ己自身であり、自由自在の力が自分の内に宿っているのである。続く「巻舒我にあり」も同様で、一切万象を巻き取る(=巻)のも展開する(=舒)のも、自己内在の“如意宝珠”の力である。如意宝珠とは仏法の象徴とされる宝物で、無限の価値を持ち、衆生の願いを意のままに叶える珠とされる。如意宝珠とは生命の象徴でもあり、陰陽調和の根源であり、火(カ)と水(ミ)の結びであり、時間と空間の縦横交差の一点でありながら、さらにその一点もなく、その無しもまた否定し去った後に残る“ここ”にこそ、如意宝珠の一切の宝が包蔵されているのである。この真理を感得した者だけが、今・ここに生きてある西方極楽浄土、エデンの園を感じることができるのである。

しかし、人間はともすればこの「擒縦他に非ず、巻舒我にあ」ることを忘れてしまう。するとたちまち、現象の桎梏に縛られ、自由自在を失い五官の執着に捕らえられてしまい、自性円満の本来の姿を見失ってしまうのである。自縄自縛の状態から脱するためには「直に須く迹を削り聲を呑む」ことが求められる。“迹”とは事績や足跡を指し、転じて現象に現れる事象のことである。“聲”は声の旧字体である。いずれも肉体の感覚にて捉える類のものであり、それに心を引っ掛けて、損得勘定で苦しむのが多くの人々が陥る通り道である。声なき声を聞き、形なき形を拝することで、我々はその現象地獄、無限回廊の本来無を悟り、大方隣虚満たざるところなき、神仏の御声を聴くことが出来るのである。

そこで我々は初めて「要津を坐断」することができる。要津とは彼岸、すなわち実相界に至る要の場所という意味で、徹底して坐す、座り切る境地を“坐断”と言う。ここでは転じて、実相独在の境地を感得することと解釈し、上記の訳としてある。常住円相妙楽の世界に到達した者は「箇々壁立千仭ならん」、千仞の山岳の頂点に立って衆生を救済し得るだけの信仰を確立した者となるであろう、1人1人皆が神仏の境涯であって、煩悩の徒が例え上陸しようとても手も足も及ばぬ。ではどのような人々が“壁立千仭”の境界に踏み入ることができるのであろうか。次に掲げる公案を読んで考えてみなさい、という訳で、本文は「且く道え、是れ什麼人の境界ぞ。試みに挙す看よ」と締めている。


次回は「第22則・雪峰鼈鼻蛇」の「本則」に入ります。

読まれた方は、コメントいただければ幸いです。

Crion

                  ■第21則■智門蓮華荷葉(ちもんれんげかよう)
                         (じゅ)(編者の短評)


【書き下し文】(※現代かな遣い・新漢字に一部変更)
(じゅ)(いわ)く、蓮華(れんげ)荷葉(かよう)君に報じて知らしむ。出水(しゅっすい)未出(みしゅつ)の時に(いず)れ。江北江南(こうほくこうなん)、王老に問う。一狐(いっこ)()(おわ)りて一狐疑す。


【私的口語訳】

蓮華も荷葉も、理念の世界で同一同根の存在としてあることを、広く伝えたいものだ。形となって現れた水は、

形となって現れる前には何であったのか。そんなことを考えていては、疑問は次から次へとわき出し、永遠に

解決することなどなくなってしまうのだ。


【私的解釈】

「頌」とは、公案の本問題を意味する「本則」を受けて、その公案を選んだ本人である、『碧巌録』の原典の編者である雪竇和尚が書いた“短評”を意味していて、要は「本則」の要点を記し感想を述べたもの、と思っていただけると良いだろう。

前回までの解釈を振り返ると、肉体人間としての我々が生きる現実の五官で読み解く世界に、未だ形となって顕在化する以前に、そこに物質(正確に表現すれば物質の“本質”や“理念”)は存在する、と智門和尚が喝破したことについて、時間軸や空間軸によって拘束されないところの、久遠の“今”としての実在を説いたものである、と考察した。無や空から万象が発生した、と仏教家の通論式な解釈でなく、そこに不滅の理念が存在しているのだが、ある契機を以て地上へと象られて表現されていく過程のみを以て、我々は事物の発生と考えているに過ぎない、という訳である。

さて、頌に入ると「蓮華荷葉君に報じて知らしむ」とある。蓮華と荷葉とは蓮の花と葉を指し、ここではどちらも同一の花を指す意味で使われていることは、既に触れた通りである。現象世界の視点では、因果律を以て支配されるから、蓮華を因とし、荷葉を果と捉えて、蓮華の発生するが故に荷葉が生じる、と解釈することも可能ではある。しかし、垂示・本則を読み解く流れで考えれば、因の中に果があり、果の中に因が包蔵されている、と断ずる向きも生じる。因縁と結果とが、形無き形の中に、本質たる真実の世界において、同時同空間に過去も現在も未来も、否それすらも超えて存在し続けている、その事実を広く伝えたい、という雪竇和尚の強い願いが読み取れる一文である。

続く「出水は未出の時に何れ」、我々の身近な物質1つ取り上げてみても、肉体で感じる世界にある万物はみな、因果の法則によって成り立っているが、同時に因果を超越した世界に於いて、既に有り給う存在であることを、水という1つの物質的存在で例示する。同じ水という物質でも、蛇口を捻って出る水は出水と称するが、未だ蛇口から姿を見せないところの水を何と呼ぶか、河川や海原を流れ行く水や、そこに未だ現れざるところの存在としての水を何と呼ぶか、何れも愚かしい問いである。出水であろうと未出水であろうと、実相の世界において、本来相として存在し続けているところの実在であることには何ら違いがない。全ての因と果が、未だどちらも発生せざる前(すなわち未発の“中”)にありながら、空間を超えた広大無辺の世界に広がっているのである。

この真理を悟るに至らない人間にとっては、全世界を尋ね回ったとて、永遠に本当の解決、真実への鍵を手に入れることは出来ない、「江北江南、王老に問」うて、どんなに解説してもらっても、疑いの念を抱いたり、己の価値観を物質と現象知に所持し続けていたりする限りは「一狐疑し了りて一狐疑す」、1つの疑問が晴れても、すぐに次の疑問が生じて来て、いつまで立っても堂々巡りである。事象を細分化して、果てに分子・原子・素粒子の世界へ穿ち行ったところで、何の解決にもならない。困難な疑問をはらす道はただ1つ、己の真実たる存在、実相自身と同一になりきり、誰かから教えを乞うのではなく、まさに冷暖自知するほかにないのである。


以上で「第21則・智門蓮華荷葉」の解釈を終わります。

次回は「第22則・雪峰鼈鼻蛇」に入ります。

読まれた方は、コメントいただければ幸いです。

Crion

                  ■第21則■智門蓮華荷葉(ちもんれんげかよう)
                         本則(ほんそく)(本問題)


【書き下し文】(※現代かな遣い・新漢字に一部変更)
()す。僧、智門(ちもん)に問う、蓮華(れんげ)(いま)だ水を()でざる時如何(いかん)。智門(いわ)く、蓮華。僧云く、水を出でて(のち)如何。門云く、荷葉(かよう)


【私的口語訳】

例を挙げてここに示す。ある僧が智門和尚に尋ねた、「蓮の花が未だ水から姿を覗かせないとき、その本質は

何物ですか」と。智門和尚は「蓮の花だ」と答えた。また僧は尋ねた、「水面に姿を現した後はどうなのです

か」と。智門和尚は答えた、「それも蓮の花だ」。


【私的解釈】

「本則」とは、禅宗で出される「公案」のことである。禅問答の試験問題のようなもの、と言い換えても良いだろう。今回は第21則の「本則」である。今回の登場人物である智門和尚は、正しくは智門光祚(964-1010)といい、『碧巌録』の初編者である雪竇重顯禅師の師に当たる、雲門宗の3世(嫡孫)にあたる禅師である。雲門宗については、第6則・雲門十五日の本則で登場しているが、禅問答の言句の細密な表現を追求したことで知られる。智門和尚も第12則・洞山麻三斤の頌で、麻三斤の本質について「花簇々、錦簇々」と、完全円満、善一元の実相世界の姿を、美麗な花々が咲き誇り、落葉した色鮮やかな紅葉の広がる光景に当てはめて答えた事例を紹介している。

さて、ある時智門和尚に教えを乞おうと、弟子の僧が尋ねるには「蓮の花がまだ水面に姿を現さないときに、その物質は如何なる存在と言えるのでしょうか」という。水生植物である蓮の花は、地中の地下茎から茎を伸ばし、水面の花托から花開く様が清らかで美しいことで知られており、泥水の中から清浄な花弁を見せるため、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という成句も生まれている。古来仏教では仏の叡智や慈悲の象徴とされ、菩薩の像や絵画の足下には蓮の花(蓮華)が多く表現されている。すなわち、僧の問いかけの根本は「仏陀の教え未だ地上に顕現せざる以前、仏教とは何であったのか」という意味合いがあると考えるとよいだろう。

対して智門和尚は「それは蓮の花だ」と答えた。水面に現出する以前に、そこに既に花は咲いているという。ここで智門和尚が「無」と答えないところに着目したい。無から蓮華が生じたのではなく、久遠の昔から既にあり給う蓮華であると説いた智門和尚、その尋常でない悟境が読み取れる一言である。未だ芽の出ない植物の種に、既に永遠不滅の花の“理念”(物質としての花ではない)が花開き、形なき形を形成しているのである。物質の奥、肉体の奥に存在する霊妙極まりなき完全なる「蓮華」が、時間と空間を超越して咲き誇っているのである。

蓮の花は、実が蜂の巣状になっていることから、古称をハチスという。言葉の深層には「“八方”を“統べる”」、一切万象を統合する意味合いが込められている。仏陀が大悟し宇宙の実相を直観的に、蓮華の花の如く、中央に実(ス)があり、四方八方十六方にその影としての現象界が展開する様を『華厳経』『妙法蓮華経』で説いている。前記の問いをさらに飛躍させるならば、「大宇宙に遍満する蓮華蔵世界が未だ現前せざる時、その蓮華蔵世界とは何であるのか」と言い換えてもよいであろう。神仏の世界においては、コトバによって厳然として“アル”のである。

現象の国家、世界がいかな姿を見せようとも、その栄枯盛衰を超越して、理念の世界において万物調和、中心帰一の実相世界は、いささかも揺るぎなく存在するのである。陰陽水火が交差融合して生じた平和と秩序、悦びと調和ある“瑞穂の国”とは、必ずしも日本国だけではなく、大調和の理念を継承して地上へ顕現せしめんとするところに現れるマコトなる世界である。戦争も混乱も、迷妄と迷妄の衝突による自壊作用の一過程に過ぎないのである。

本文に戻ると、続いて僧は「では蓮の花が水面で花咲かせた後は、どうなのですか」と問う。換言すれば「仏陀の教えが地上に顕現せしめた後、仏教とは何であるのか」「蓮華蔵世界海が四方に現れたときに、その蓮華蔵世界の本質とは何であるのか」ということになる。これについて智門和尚は「それもまた蓮の花だ」という。「荷葉」とは厳密には蓮の葉のことだが、結局同じ植物を指していることに何も変わりはない。この僧の問いを考察すると、その視点は現象的な時間の経過に軸足を置いているようであるが、真実の世界とは、○年○月○日○時○分○秒に、地球上のどの地域で生じたなどといった、時間軸・空間点などに制約されてしまうものではなく、厳然たる事実としての実在なのである。ただ実在とは表現によって完成されるものであるから、何らかの過程を生じて幾つもの変遷を経て、我々の生きる現象界まで実現せられる他はないのである。


次回は「第21則・智門蓮華荷葉」の「頌」に入ります。

読まれた方は、コメントいただければ幸いです。

Crion

                   ■第21則■智門蓮華荷葉(ちもんれんげかよう)
                         垂示(すいじ)(序論的批評)


【書き下し文】(※現代かな遣い・新漢字に一部変更)
垂示(すいじ)(いわ)く、法幢(ほうどう)を建て、宗旨を(りっ)す。錦上(きんじょう)に花を()く。籠頭(ろうとう)を脱し、角駄(かくだ)を卸すは、太平の時節。或は()格外(かくげ)の句を弁得(べんとく)せば、挙一明三(こいつみょうさん)()れ或は(いま)(しか)らずんば、旧に()りて伏して処分を聴け。


【私的口語訳】

伝道の御旗を立て、宗旨を明らかにすることは、錦の上に花を敷き詰めるようなものであって、たいそう素晴

らしいことである。肉体を窮屈ならしめるような、口枷を外し荷物を下ろせば、ここがこのまま天下太平の世

界なのである。その真理を会得するための方便句を悟ろうにも、その方便の一句を聞いて三を悟る程の霊的自

覚が必要なのだ。まだその自覚が至らぬ者は、旧来の次の公案を読んで、己の内なる声に耳を傾けなさい。


【私的解釈】

「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題)の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。冒頭の「法幢を建て」とは、禅宗において、説法を聞き修行する禅寺の門前に掲げる目印の旗を指すものを法幢と称することから、己の思想や宗派を世間に対して明らかにし、教えの根本を確立して伝道を行う意思を明示すること、と考えられる。古来中国では、出家して僧になり、一山一寺を構えるようになると、その禅寺に説法があることを知らせる為に幟旗を立てる慣習があることから生じたらしい。その行為は、絢爛とした絹織物の上に美しい花々を敷き詰めるように、尊い行為に花を添える善行である。

「籠頭を脱し角駄を卸す」については、第17則・香林西来意の頌で同句が登場しているので、詳しくはそちらを参照されたい。御仏の大法は天地に満ち満ちており、万物万象何れも大道ならざるものはない。山々の佇まい、雲の行き交い、風の響き、水の流れ、皆ことごとく御仏の説法である。虚空に塞がり宇宙に広がり行く真理の音を聞き、世に伝え導くことが、伝道者の進むべき道である。したがって、道徳や宗派や人倫にあまりに拘泥すると、伝道の本質を見失いがちになるのであり、知らず知らずのうちに「籠頭」や「角駄」を背負い込んでしまうのである。籠頭や角駄など本来無し、自分自身の内在する神性仏性こそ真なる己そのものであり、真実の内在自己の発見が出来れば、この天地が、ここにいながらして天国浄土であり「太平の時節」なのである。

だが、ここがこのまま西方極楽浄土、太平の時節だなどと宣言したところで、未だ悟りに至らぬ者にとっては妄想妄言の類と捉えかねられない。そのための方便として「格外の句」が必要なのである。「格外の句」とは、通常では考えられない並外れた高徳の一句、という意味である。誰でも大悟できるほど平易で力強く、価値のある一句と表現してもよいかもしれない。しかし、だからといって「格外の句」を聴くことで悟りを得るためには「挙一明三」、即ち1を聞いて3を理解できるような、山を隔てて煙を見て、即ちこれが火であることを悟れる程の明敏な智慧が必要であるという。

では、挙一明三すら到底届かない程の未熟な修行者は、いかにしてその真理を会得すればよいのか。1を聞いて10を理解できる明察がないなら、古来のように次に掲げる公案を読んで、己の判断するところの声を聞きなさい、というのが最後の一文「其れ或は未だ然らずんば、旧に依りて伏して処分を聴け」である。


次回は「第21則・智門蓮華荷葉」の「本則」に入ります。

読まれた方は、コメントいただければ幸いです。

Crion

                  ■第20則■龍牙西来意(りゅうげせいらいい)
                         (じゅ)(編者の短評)


【書き下し文】(※現代かな遣い・新漢字に一部変更)
(じゅ)(いわ)く、龍牙(りゅうげ)山裏(さんり)、龍に(まなこ)無し。死水(しすい)何ぞ(かつ)て古風を(ふる)わん。禅板(ぜんばん)蒲団(ふとん)用うること(あた)わず。(ただ)(まさ)分附(ぶんぷ)して盧公(ろこう)(あた)うべし。


【私的口語訳】

龍牙山に住まう龍の如く、自由自在の真理を得んとした龍牙和尚だが、まだ完全にその眼は開かれていないよ

うだ。旧態依然とした流れぬ水の中にいて、どうやって古風を宣布させることができるのか。禅板や蒲団など、

用いることなど必要ないのだ。そんなものはみな、この雪竇に分けてしまえばよいのだ。


【私的解釈】

「頌」とは、公案の本問題を意味する「本則」を受けて、その公案を選んだ本人である、『碧巌録』の原典の編者である雪竇和尚が書いた“短評”を意味していて、要は「本則」の要点を記し感想を述べたもの、と思っていただけると良いだろう。

本則で肯定的な評価を下した龍牙和尚であるが、編纂者である雪竇和尚の論評は対して手厳しいように感じる。「龍に眼無し」で、龍は龍でも盲目の龍のようなもので、何だか危なっかしい振る舞いだ。確かに無抵抗主義を貫かんとして、山上を自由に飛翔する鳥のように、“相手に頬を差し出す”姿勢は確かに尊い行為ではあるかもしれない。しかしもし真に活眼を得たならば、翠微禅師が何故禅板を持ち来れと依頼したのかを把握するはずであって、自分を叩かせるために持っていくような愚かしい真似はしなかったであろう。臨済禅師が蒲団を持ち来れと語った本質を捉えていたのであれば、わざわざ物質を介して表現する必要性は無いのである。畢竟、先見の明の欠けたるを感じるのである。

いかな龍でも、活きたる清水を得なければ真の眼は開かれない。龍牙和尚は未だ死水を飲んている苦行僧のようなものだ、と評している。「死水何ぞ会て古風を振わん」である。生々流転の現象界において、死水を貯めても何ら得られるものなどない。流水の如く変幻自在であれ、活水の如く清廉で他を活かしうる人間であれ、それでこそ真の禅風を世に広め得ることができるのである。禅板や蒲団など問題ではないのであって、用いられ方が分からなければ、私(雪竇)が用法を教授して差し上げるのに、というのが「禅板蒲団用いること能わず、只応に分附して盧公に与うべし」である。

禅に於ける悟りとは、機に従い悟境に応じて自由自在に万象と和解しなければならない。翠微禅師や臨済禅師に問答を挑んで叩かれにいくとは、相手を見る目に欠けた振る舞いだ、と雪竇は批判している。だが一方では龍牙和尚が打つことに執着を捨て、自己の真実を貫き通した点はさすがであると古来評価する向きもある。批判することによって、完全に否定し尽くすこともできない。禅板や蒲団を持って来たところで、禅板に凭れ掛かって座禅したり、蒲団に横になって休息したりする意思は相手に全くないのであり、禅板にも蒲団にも、宗派の教義そのものにすらも、悟りの本質は存在しないのである。否、存在なくして存在しているのである。したがって、祖師西来の遥か以前から、肉体の達磨大師生誕以前の久遠の昔から、既に祖師は西来しているのである。今更西来せずとも、既にもう西来しているのである。禅板や蒲団がいくら主張したところで、そこに(その本義たるところに)祖師西来意は無い、というのが龍牙和尚の主張の真義であろうと考察する。

なお、龍牙和尚の悟りの深淵が如何ほどか、その評価は二分されるが、例えて言えば「暮雲の帰って未だ合せざるに対するに勘えたり、遠山限り無く碧層々」(夕暮れ時の雲が山頂にかかり、雲の切れ間から峻厳な山麓が見えるが如く、遠き山の蒼々と深く聳えているような見事な有様)と、雪竇和尚は評している。底知れない人物である。


以上で「第20則・龍牙西来意」の解釈を終わります。

次回は「第21則・智門蓮華迦葉」に入ります。

読まれた方は、コメントいただければ幸いです。

Crion

全31ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
Crion
Crion
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事