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			<title>久遠常楽―Ｃｒｉｏｎ随想記</title>
			<description></description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>久遠常楽―Ｃｒｉｏｎ随想記</title>
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		<item>
			<title>第２２則…雪峰鼈鼻蛇・垂示</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２２則■ 雪峰鼈鼻蛇 ( せっぽうべつびじゃ )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 垂示 ( すいじ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（序論的批評）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 垂示 ( すいじ ) に 云 ( いわ ) く、 大方 ( だいほう ) 外無く、 細 ( さい ) なること 隣虚 ( りんこ ) の 若 ( ごと ) し。 擒縦 ( きんじゅう ) 他 ( た ) に非ず、 巻舒 ( けんじょ ) 我にあり。必ず 粘 ( ねん ) を解き 縛 ( ばく ) を去らんと欲せば、 直 ( ただち ) に 須 ( すべから ) く 迹 ( しゃく ) を削り 聲 ( しょう ) を呑むべし。 人々 ( にんにん ) に 要津 ( ようしん ) を 坐断 ( ざだん ) し、箇々 壁立千仭 ( へきりゅうせんじん ) ならん。 且 ( しばら ) く 道 ( い ) え、 是 ( こ ) れ 什麼人 ( なんびと ) の境界ぞ。 試 ( こころ ) みに 挙 ( こ ) す 看 ( み ) よ。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間の実相は、宇宙全体余すところ無く広がり行き、極々微小な物質の中にも内在しているのである。それを&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
捉えるのも放つのも自分自身の意思であり、巻き取るのも開き広げるのも己自身の心が為すものである。もし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現象に対する執着から脱しようとするならば、当然五官の現象を放ち去ることが当然必要なのである。人々が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この要点を的確に捉えることができれば、個人の信仰は確立せられるであろう。ではその信仰確立の境界点は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一体どこにあるのであろうか。次に掲げる公案を読んで、その真意を悟りなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題）の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。冒頭の「大方外無く、細なること隣虚の如し」とは、人間の本質たる完全円満の自己そのもの、生命そのものの存在について、空間軸的な表現を用いて表した一文である。大方とは無限に広がり行くことである。大乗経典の１つとして知られる華厳経は、正式には『大方広仏華厳経』と称するもので、全世界全宇宙は御仏の顕現であり、同時に微細な塵芥の中に全世界を内包し、一瞬の中に久遠の魂が存在することを説いた経典である。宇宙全体に広がっていて、その外側は存在しない。際限なき拡大である。宇宙に満ち天地に満ちる毘盧遮那仏と一体であるのが、人間の内在せる実相である。しかし、同時に、矛盾するようであるが“一点も無い”のもまた、人間の真実在としての魂である。本文中では「細なること隣虚の如し」とある。隣虚とは文字通り、限りなく無に近い極小の存在を表す。その極小の存在すらも超越したところにあるものこそが、光明楽土天国浄土の世界である。人間の生命なるものは本来無相であるから、大とも小とも表現し得ない存在なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを換言すれば「この身はこのまま毘盧遮那仏の国土であり、毘盧遮那仏の生命そのものである」と言える。だからこそ「擒縦他に非ず」で、捉える(＝擒)のも放つ(＝縦)のも他ならぬ己自身であり、自由自在の力が自分の内に宿っているのである。続く「巻舒我にあり」も同様で、一切万象を巻き取る(＝巻)のも展開する(＝舒)のも、自己内在の“如意宝珠”の力である。如意宝珠とは仏法の象徴とされる宝物で、無限の価値を持ち、衆生の願いを意のままに叶える珠とされる。如意宝珠とは生命の象徴でもあり、陰陽調和の根源であり、火(カ)と水(ミ)の結びであり、時間と空間の縦横交差の一点でありながら、さらにその一点もなく、その無しもまた否定し去った後に残る“ここ”にこそ、如意宝珠の一切の宝が包蔵されているのである。この真理を感得した者だけが、今・ここに生きてある西方極楽浄土、エデンの園を感じることができるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、人間はともすればこの「擒縦他に非ず、巻舒我にあ」ることを忘れてしまう。するとたちまち、現象の桎梏に縛られ、自由自在を失い五官の執着に捕らえられてしまい、自性円満の本来の姿を見失ってしまうのである。自縄自縛の状態から脱するためには「直に須く迹を削り聲を呑む」ことが求められる。“迹”とは事績や足跡を指し、転じて現象に現れる事象のことである。“聲”は声の旧字体である。いずれも肉体の感覚にて捉える類のものであり、それに心を引っ掛けて、損得勘定で苦しむのが多くの人々が陥る通り道である。声なき声を聞き、形なき形を拝することで、我々はその現象地獄、無限回廊の本来無を悟り、大方隣虚満たざるところなき、神仏の御声を聴くことが出来るのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで我々は初めて「要津を坐断」することができる。要津とは彼岸、すなわち実相界に至る要の場所という意味で、徹底して坐す、座り切る境地を“坐断”と言う。ここでは転じて、実相独在の境地を感得することと解釈し、上記の訳としてある。常住円相妙楽の世界に到達した者は「箇々壁立千仭ならん」、千仞の山岳の頂点に立って衆生を救済し得るだけの信仰を確立した者となるであろう、１人１人皆が神仏の境涯であって、煩悩の徒が例え上陸しようとても手も足も及ばぬ。ではどのような人々が“壁立千仭”の境界に踏み入ることができるのであろうか。次に掲げる公案を読んで考えてみなさい、という訳で、本文は「且く道え、是れ什麼人の境界ぞ。試みに挙す看よ」と締めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第２２則・雪峰鼈鼻蛇」の「本則」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/64089375.html</link>
			<pubDate>Sat, 24 Nov 2012 15:01:26 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２１則…智門蓮華荷葉・頌</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２１則■ 智門蓮華荷葉 ( ちもんれんげかよう )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 頌 ( じゅ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（編者の短評）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 頌 ( じゅ ) に 云 ( いわ ) く、 蓮華 ( れんげ ) 荷葉 ( かよう ) 君に報じて知らしむ。 出水 ( しゅっすい ) は 未出 ( みしゅつ ) の時に 何 ( いず ) れ。 江北江南 ( こうほくこうなん ) 、王老に問う。 一狐 ( いっこ ) 疑 ( ぎ ) し 了 ( おわ ) りて一狐疑す。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
蓮華も荷葉も、理念の世界で同一同根の存在としてあることを、広く伝えたいものだ。形となって現れた水は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
形となって現れる前には何であったのか。そんなことを考えていては、疑問は次から次へとわき出し、永遠に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解決することなどなくなってしまうのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
「頌」とは、公案の本問題を意味する「本則」を受けて、その公案を選んだ本人である、『碧巌録』の原典の編者である雪竇和尚が書いた“短評”を意味していて、要は「本則」の要点を記し感想を述べたもの、と思っていただけると良いだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回までの解釈を振り返ると、肉体人間としての我々が生きる現実の五官で読み解く世界に、未だ形となって顕在化する以前に、そこに物質（正確に表現すれば物質の“本質”や“理念”）は存在する、と智門和尚が喝破したことについて、時間軸や空間軸によって拘束されないところの、久遠の“今”としての実在を説いたものである、と考察した。無や空から万象が発生した、と仏教家の通論式な解釈でなく、そこに不滅の理念が存在しているのだが、ある契機を以て地上へと象られて表現されていく過程のみを以て、我々は事物の発生と考えているに過ぎない、という訳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、頌に入ると「蓮華荷葉君に報じて知らしむ」とある。蓮華と荷葉とは蓮の花と葉を指し、ここではどちらも同一の花を指す意味で使われていることは、既に触れた通りである。現象世界の視点では、因果律を以て支配されるから、蓮華を因とし、荷葉を果と捉えて、蓮華の発生するが故に荷葉が生じる、と解釈することも可能ではある。しかし、垂示・本則を読み解く流れで考えれば、因の中に果があり、果の中に因が包蔵されている、と断ずる向きも生じる。因縁と結果とが、形無き形の中に、本質たる真実の世界において、同時同空間に過去も現在も未来も、否それすらも超えて存在し続けている、その事実を広く伝えたい、という雪竇和尚の強い願いが読み取れる一文である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続く「出水は未出の時に何れ」、我々の身近な物質１つ取り上げてみても、肉体で感じる世界にある万物はみな、因果の法則によって成り立っているが、同時に因果を超越した世界に於いて、既に有り給う存在であることを、水という１つの物質的存在で例示する。同じ水という物質でも、蛇口を捻って出る水は出水と称するが、未だ蛇口から姿を見せないところの水を何と呼ぶか、河川や海原を流れ行く水や、そこに未だ現れざるところの存在としての水を何と呼ぶか、何れも愚かしい問いである。出水であろうと未出水であろうと、実相の世界において、本来相として存在し続けているところの実在であることには何ら違いがない。全ての因と果が、未だどちらも発生せざる前（すなわち未発の“中”）にありながら、空間を超えた広大無辺の世界に広がっているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この真理を悟るに至らない人間にとっては、全世界を尋ね回ったとて、永遠に本当の解決、真実への鍵を手に入れることは出来ない、「江北江南、王老に問」うて、どんなに解説してもらっても、疑いの念を抱いたり、己の価値観を物質と現象知に所持し続けていたりする限りは「一狐疑し了りて一狐疑す」、１つの疑問が晴れても、すぐに次の疑問が生じて来て、いつまで立っても堂々巡りである。事象を細分化して、果てに分子・原子・素粒子の世界へ穿ち行ったところで、何の解決にもならない。困難な疑問をはらす道はただ１つ、己の真実たる存在、実相自身と同一になりきり、誰かから教えを乞うのではなく、まさに冷暖自知するほかにないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上で「第２１則・智門蓮華荷葉」の解釈を終わります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
次回は「第２２則・雪峰鼈鼻蛇」に入ります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63772496.html</link>
			<pubDate>Sat, 23 Jun 2012 18:44:40 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２１則…智門蓮華荷葉・本則</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２１則■ 智門蓮華荷葉 ( ちもんれんげかよう )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 本則 ( ほんそく )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（本問題）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 挙 ( こ ) す。僧、 智門 ( ちもん ) に問う、 蓮華 ( れんげ ) 未 ( いま ) だ水を 出 ( い ) でざる時 如何 ( いかん ) 。智門 云 ( いわ ) く、蓮華。僧云く、水を出でて 後 ( のち ) 如何。門云く、 荷葉 ( かよう ) 。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例を挙げてここに示す。ある僧が智門和尚に尋ねた、「蓮の花が未だ水から姿を覗かせないとき、その本質は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何物ですか」と。智門和尚は「蓮の花だ」と答えた。また僧は尋ねた、「水面に姿を現した後はどうなのです&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
か」と。智門和尚は答えた、「それも蓮の花だ」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「本則」とは、禅宗で出される「公案」のことである。禅問答の試験問題のようなもの、と言い換えても良いだろう。今回は第２１則の「本則」である。今回の登場人物である智門和尚は、正しくは智門光祚(964-1010)といい、『碧巌録』の初編者である雪竇重顯禅師の師に当たる、雲門宗の３世（嫡孫）にあたる禅師である。雲門宗については、第６則・雲門十五日の本則で登場しているが、禅問答の言句の細密な表現を追求したことで知られる。智門和尚も第１２則・洞山麻三斤の頌で、麻三斤の本質について「花簇々、錦簇々」と、完全円満、善一元の実相世界の姿を、美麗な花々が咲き誇り、落葉した色鮮やかな紅葉の広がる光景に当てはめて答えた事例を紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ある時智門和尚に教えを乞おうと、弟子の僧が尋ねるには「蓮の花がまだ水面に姿を現さないときに、その物質は如何なる存在と言えるのでしょうか」という。水生植物である蓮の花は、地中の地下茎から茎を伸ばし、水面の花托から花開く様が清らかで美しいことで知られており、泥水の中から清浄な花弁を見せるため、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という成句も生まれている。古来仏教では仏の叡智や慈悲の象徴とされ、菩薩の像や絵画の足下には蓮の花（蓮華）が多く表現されている。すなわち、僧の問いかけの根本は「仏陀の教え未だ地上に顕現せざる以前、仏教とは何であったのか」という意味合いがあると考えるとよいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対して智門和尚は「それは蓮の花だ」と答えた。水面に現出する以前に、そこに既に花は咲いているという。ここで智門和尚が「無」と答えないところに着目したい。無から蓮華が生じたのではなく、久遠の昔から既にあり給う蓮華であると説いた智門和尚、その尋常でない悟境が読み取れる一言である。未だ芽の出ない植物の種に、既に永遠不滅の花の“理念”（物質としての花ではない）が花開き、形なき形を形成しているのである。物質の奥、肉体の奥に存在する霊妙極まりなき完全なる「蓮華」が、時間と空間を超越して咲き誇っているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蓮の花は、実が蜂の巣状になっていることから、古称をハチスという。言葉の深層には「“八方”を“統べる”」、一切万象を統合する意味合いが込められている。仏陀が大悟し宇宙の実相を直観的に、蓮華の花の如く、中央に実（ス）があり、四方八方十六方にその影としての現象界が展開する様を『華厳経』『妙法蓮華経』で説いている。前記の問いをさらに飛躍させるならば、「大宇宙に遍満する蓮華蔵世界が未だ現前せざる時、その蓮華蔵世界とは何であるのか」と言い換えてもよいであろう。神仏の世界においては、コトバによって厳然として“アル”のである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現象の国家、世界がいかな姿を見せようとも、その栄枯盛衰を超越して、理念の世界において万物調和、中心帰一の実相世界は、いささかも揺るぎなく存在するのである。陰陽水火が交差融合して生じた平和と秩序、悦びと調和ある“瑞穂の国”とは、必ずしも日本国だけではなく、大調和の理念を継承して地上へ顕現せしめんとするところに現れるマコトなる世界である。戦争も混乱も、迷妄と迷妄の衝突による自壊作用の一過程に過ぎないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本文に戻ると、続いて僧は「では蓮の花が水面で花咲かせた後は、どうなのですか」と問う。換言すれば「仏陀の教えが地上に顕現せしめた後、仏教とは何であるのか」「蓮華蔵世界海が四方に現れたときに、その蓮華蔵世界の本質とは何であるのか」ということになる。これについて智門和尚は「それもまた蓮の花だ」という。「荷葉」とは厳密には蓮の葉のことだが、結局同じ植物を指していることに何も変わりはない。この僧の問いを考察すると、その視点は現象的な時間の経過に軸足を置いているようであるが、真実の世界とは、○年○月○日○時○分○秒に、地球上のどの地域で生じたなどといった、時間軸・空間点などに制約されてしまうものではなく、厳然たる事実としての実在なのである。ただ実在とは表現によって完成されるものであるから、何らかの過程を生じて幾つもの変遷を経て、我々の生きる現象界まで実現せられる他はないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第２１則・智門蓮華荷葉」の「頌」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63690159.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 May 2012 11:12:38 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２１則…智門蓮華荷葉・垂示</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２１則■ 智門蓮華荷葉 ( ちもんれんげかよう )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 垂示 ( すいじ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（序論的批評）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 垂示 ( すいじ ) に 云 ( いわ ) く、 法幢 ( ほうどう ) を建て、宗旨を 立 ( りっ ) す。 錦上 ( きんじょう ) に花を 舗 ( し ) く。 籠頭 ( ろうとう ) を脱し、 角駄 ( かくだ ) を卸すは、太平の時節。或は 若 ( も ) し 格外 ( かくげ ) の句を 弁得 ( べんとく ) せば、 挙一明三 ( こいつみょうさん ) 。 其 ( そ ) れ或は 未 ( いま ) だ 然 ( しか ) らずんば、旧に 依 ( よ ) りて伏して処分を聴け。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝道の御旗を立て、宗旨を明らかにすることは、錦の上に花を敷き詰めるようなものであって、たいそう素晴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
らしいことである。肉体を窮屈ならしめるような、口枷を外し荷物を下ろせば、ここがこのまま天下太平の世&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
界なのである。その真理を会得するための方便句を悟ろうにも、その方便の一句を聞いて三を悟る程の霊的自&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
覚が必要なのだ。まだその自覚が至らぬ者は、旧来の次の公案を読んで、己の内なる声に耳を傾けなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題）の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。冒頭の「法幢を建て」とは、禅宗において、説法を聞き修行する禅寺の門前に掲げる目印の旗を指すものを法幢と称することから、己の思想や宗派を世間に対して明らかにし、教えの根本を確立して伝道を行う意思を明示すること、と考えられる。古来中国では、出家して僧になり、一山一寺を構えるようになると、その禅寺に説法があることを知らせる為に幟旗を立てる慣習があることから生じたらしい。その行為は、絢爛とした絹織物の上に美しい花々を敷き詰めるように、尊い行為に花を添える善行である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「籠頭を脱し角駄を卸す」については、第１７則・香林西来意の頌で同句が登場しているので、詳しくはそちらを参照されたい。御仏の大法は天地に満ち満ちており、万物万象何れも大道ならざるものはない。山々の佇まい、雲の行き交い、風の響き、水の流れ、皆ことごとく御仏の説法である。虚空に塞がり宇宙に広がり行く真理の音を聞き、世に伝え導くことが、伝道者の進むべき道である。したがって、道徳や宗派や人倫にあまりに拘泥すると、伝道の本質を見失いがちになるのであり、知らず知らずのうちに「籠頭」や「角駄」を背負い込んでしまうのである。籠頭や角駄など本来無し、自分自身の内在する神性仏性こそ真なる己そのものであり、真実の内在自己の発見が出来れば、この天地が、ここにいながらして天国浄土であり「太平の時節」なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、ここがこのまま西方極楽浄土、太平の時節だなどと宣言したところで、未だ悟りに至らぬ者にとっては妄想妄言の類と捉えかねられない。そのための方便として「格外の句」が必要なのである。「格外の句」とは、通常では考えられない並外れた高徳の一句、という意味である。誰でも大悟できるほど平易で力強く、価値のある一句と表現してもよいかもしれない。しかし、だからといって「格外の句」を聴くことで悟りを得るためには「挙一明三」、即ち１を聞いて３を理解できるような、山を隔てて煙を見て、即ちこれが火であることを悟れる程の明敏な智慧が必要であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、挙一明三すら到底届かない程の未熟な修行者は、いかにしてその真理を会得すればよいのか。１を聞いて１０を理解できる明察がないなら、古来のように次に掲げる公案を読んで、己の判断するところの声を聞きなさい、というのが最後の一文「其れ或は未だ然らずんば、旧に依りて伏して処分を聴け」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第２１則・智門蓮華荷葉」の「本則」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63672280.html</link>
			<pubDate>Thu, 03 May 2012 16:29:30 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２０則…龍牙西来意・頌</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２０則■ 龍牙西来意 ( りゅうげせいらいい )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 頌 ( じゅ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（編者の短評）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 頌 ( じゅ ) に 云 ( いわ ) く、 龍牙 ( りゅうげ ) 山裏 ( さんり ) 、龍に 眼 ( まなこ ) 無し。 死水 ( しすい ) 何ぞ 会 ( かつ ) て古風を 振 ( ふる ) わん。 禅板 ( ぜんばん ) 蒲団 ( ふとん ) 用うること 能 ( あた ) わず。 只 ( ただ ) 応 ( まさ ) に 分附 ( ぶんぷ ) して 盧公 ( ろこう ) に 与 ( あた ) うべし。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
龍牙山に住まう龍の如く、自由自在の真理を得んとした龍牙和尚だが、まだ完全にその眼は開かれていないよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うだ。旧態依然とした流れぬ水の中にいて、どうやって古風を宣布させることができるのか。禅板や蒲団など、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
用いることなど必要ないのだ。そんなものはみな、この雪竇に分けてしまえばよいのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
「頌」とは、公案の本問題を意味する「本則」を受けて、その公案を選んだ本人である、『碧巌録』の原典の編者である雪竇和尚が書いた“短評”を意味していて、要は「本則」の要点を記し感想を述べたもの、と思っていただけると良いだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本則で肯定的な評価を下した龍牙和尚であるが、編纂者である雪竇和尚の論評は対して手厳しいように感じる。「龍に眼無し」で、龍は龍でも盲目の龍のようなもので、何だか危なっかしい振る舞いだ。確かに無抵抗主義を貫かんとして、山上を自由に飛翔する鳥のように、“相手に頬を差し出す”姿勢は確かに尊い行為ではあるかもしれない。しかしもし真に活眼を得たならば、翠微禅師が何故禅板を持ち来れと依頼したのかを把握するはずであって、自分を叩かせるために持っていくような愚かしい真似はしなかったであろう。臨済禅師が蒲団を持ち来れと語った本質を捉えていたのであれば、わざわざ物質を介して表現する必要性は無いのである。畢竟、先見の明の欠けたるを感じるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いかな龍でも、活きたる清水を得なければ真の眼は開かれない。龍牙和尚は未だ死水を飲んている苦行僧のようなものだ、と評している。「死水何ぞ会て古風を振わん」である。生々流転の現象界において、死水を貯めても何ら得られるものなどない。流水の如く変幻自在であれ、活水の如く清廉で他を活かしうる人間であれ、それでこそ真の禅風を世に広め得ることができるのである。禅板や蒲団など問題ではないのであって、用いられ方が分からなければ、私（雪竇）が用法を教授して差し上げるのに、というのが「禅板蒲団用いること能わず、只応に分附して盧公に与うべし」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
禅に於ける悟りとは、機に従い悟境に応じて自由自在に万象と和解しなければならない。翠微禅師や臨済禅師に問答を挑んで叩かれにいくとは、相手を見る目に欠けた振る舞いだ、と雪竇は批判している。だが一方では龍牙和尚が打つことに執着を捨て、自己の真実を貫き通した点はさすがであると古来評価する向きもある。批判することによって、完全に否定し尽くすこともできない。禅板や蒲団を持って来たところで、禅板に凭れ掛かって座禅したり、蒲団に横になって休息したりする意思は相手に全くないのであり、禅板にも蒲団にも、宗派の教義そのものにすらも、悟りの本質は存在しないのである。否、存在なくして存在しているのである。したがって、祖師西来の遥か以前から、肉体の達磨大師生誕以前の久遠の昔から、既に祖師は西来しているのである。今更西来せずとも、既にもう西来しているのである。禅板や蒲団がいくら主張したところで、そこに（その本義たるところに）祖師西来意は無い、というのが龍牙和尚の主張の真義であろうと考察する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、龍牙和尚の悟りの深淵が如何ほどか、その評価は二分されるが、例えて言えば「暮雲の帰って未だ合せざるに対するに勘えたり、遠山限り無く碧層々」（夕暮れ時の雲が山頂にかかり、雲の切れ間から峻厳な山麓が見えるが如く、遠き山の蒼々と深く聳えているような見事な有様）と、雪竇和尚は評している。底知れない人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上で「第２０則・龍牙西来意」の解釈を終わります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
次回は「第２１則・智門蓮華迦葉」に入ります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63651159.html</link>
			<pubDate>Sat, 21 Apr 2012 15:31:59 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２０則…龍牙西来意・本則</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２０則■ 龍牙西来意 ( りゅうげせいらいい )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 本則 ( ほんそく )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（本問題）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 挙 ( こ ) す。 龍牙 ( りゅうげ ) 、 翠微 ( すいび ) に問う、 如何 ( いか ) なるか 是 ( こ ) れ 祖師西来意 ( そしせいらいい ) 。 微 ( び ) 云 ( いわ ) く、我が 為 ( た ) めに 禅板 ( ぜんばん ) を 過 ( すご ) し来れ。 牙 ( げ ) 、禅板を過して翠微に 与 ( あた ) う。微、説得して 便 ( すなわ ) ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに 任 ( まか ) す。要は 且 ( か ) つ祖師西来意無し。牙 又 ( また ) 臨済 ( りんざい ) に問う、如何なるか是れ祖師西来意。 済 ( ざい ) 云く、我が為めに 蒲団 ( ふとん ) を過し来れ。牙蒲団を取って、臨済に 過与 ( かよ ) す。済説得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す。 要 ( よう ) は且つ祖師西来意無し。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例を挙げてここに示す。あるとき龍牙和尚が、翠微に問うた。「“祖師西来意”とはどういうことですか」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翠微は答えた。「禅板を持って来てくれませんか」と。龍牙和尚は禅板を持って来て、翠微に与えた。すると&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翠微は禅板を受け取ると、禅板で龍牙和尚を打ち付けた。すると龍牙和尚は言った。「打ちたければいくらで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
も打つがよい。そんなところに“祖師西来意”はないのだから」と。またあるとき龍牙和尚は、臨済禅師に同&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様に「“祖師西来意”とはどんな意味ですか」と尋ねた。すると臨済禅師は「蒲団を持ってきてくれませんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と答えた。龍牙和尚が蒲団を持ってきて渡すと、臨済禅師もまた、龍牙和尚を打ち据えた。龍牙和尚はまた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言うのであった。「打ちたければいくらでも打つがよい。そんなところに“祖師西来意”はないのだから」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「本則」とは、禅宗で出される「公案」のことである。禅問答の試験問題のようなもの、と言い換えても良いだろう。今回は第２０則の「本則」である。今回の主人公である龍牙和尚とは、湖南省龍牙山の妙済院に住した龍牙居遁(835-923)禅師のことで、曹洞宗の開祖である洞山良价(807-869)禅師の法嗣となった、中国唐代の名僧として、今日でも名高い禅僧の１人である。前半に登場する翠微とは、正しくは翠微無学(?-?)といい、京兆終南山に住し、丹霞天然(739-824)禅師の法嗣である。後半に登場する臨済は、正しくは臨済義玄(?-867)といい、名の示す通り、臨済宗の開祖となった人物その人である。多くの門弟を育て上げ、喝を多用する厳しい臨済禅を確立、普及に尽力した禅僧として高名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、本文の解釈だが、今回の本則は前半と後半で一対の関係になっており、どちらも具体的事例の差はあれ、本質的には同根と言い切ってよい内容である。すなわち「祖師西来意とは何か」をいかに表現し、どう解釈するかを問うのが論題であり、言葉や文字、態度、表情を駆使し尽くしても、到底現し切れない深遠な世界の事象を説く、修行者の力量が問われる難題である。まず、龍牙和尚は、翠微禅師にこの問いを投げかけてみた。翠微禅師は龍牙にとっては先輩格に当たるから、非常に勇気の要る発言であるし、あるいは愚かしい行為である、と考察することも可能かもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対して、翠微禅師は「では禅板を持ってきてください」と、全く質問から乖離した返答をしている。禅板とは、長時間座禅を組む際に用いる、体を寄りかからせる板のことであり、禅問答ではしばしば見られる“全く関連の無い返答”である。言葉通り素直に、龍牙和尚は禅板を見つけて翠微禅師に渡した。すると翠微禅師は禅板を受け取るや否や、禅板で龍牙を打ち付けた。それを受けた龍牙和尚は「打つならどれだけでも打つがよい、結局そんなところには祖師西来意などないんだから」と答えたという。果たして龍牙和尚の言葉の意味は、いかなものであろうか。私感だが、龍牙和尚は「如何なるか是れ祖師西来意」などと、ある意味問わずとも自明な厳然たる事実を、わざわざ持ち出して語っているように見える。祖師西来意は、天地虚空に満ち満ちている実在そのものであり、限定して言い表すことの不可能な存在である。あえて“限定”を持ち出して問いを仕掛けることで、一種の“隙”を作り相手の反応を伺った、という見方も考察されるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
龍牙和尚の問いかけを受けた翠微禅師も、しかし中々の傑物である。龍牙和尚の“隙”の罠にかかろうとはしない。「禅板を持ってきてください」という。隙を狙うのでもなく、真っ向跳ね返すのでもなく、何の気負いも力みもない、そこにあるものはただ“当たり前”である。そして答える龍牙和尚もただ当たり前に、禅板を持って来て手渡す。“当たり前”の中に“祖師西来意”が顕現しているのである。だが、翠微禅師は龍牙和尚を打つ振る舞いをした。禅問答での打擲の場面はよく登場するが、翠微禅師は恐らく、本来限りない存在であるものに限定をつけ問答を挑んだことに、相手の未熟さを認めて打ったのかもしれない。その一方で、打つこと無くしても“祖師西来意”はあるのではないか。一切に遍満しているものが“祖師西来意”なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
龍牙和尚は、打たれた後も「打つことは打つに任す。要は且つ祖師西来意無し」と評した。「祖師西来意とは無意義だ」と断定する向きもあるが、本稿では「相手を打ちのめす姿に祖師西来意はない、そのままの実相こそ祖師西来意である」と解釈を試みたい。無我献身、澱みなく力みなく、相手の中に己自身のマコトを拝み、素直な心の現れの中に、大いなる御心を観じることこそ、真の“祖師西来意”なのではないか。相手を物理的に叩いた方が勝者であるなどど、習慣的な型にとらわれ形式のみに堕するようでは、禅林はただの棒叩き宗派であると断じられて然るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
臨済禅師もまた、翠微禅師と同様の問答を龍牙和尚とやり取りしている。問われると敢えて関係のない言葉を返し、物を持ってこさせて殴る、といった不思議な形式とも言わんばかりの応答である。こうした姿を重ねて見るに、龍牙和尚の姿勢は「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と称したイエスの如く、無抵抗でありながら相手の鋭い攻撃を根本的な次元で強く主張するような意味合いが込められているように思われる。「祖師西来意＝無意義」であると解するならば、根本迷妄を生じさせた張本人は達磨大師であると称することになるわけで、祖師西来意有りや無しやなどと、罪や迷いの意識を生み出すことになってしまうのである。本来善一元の実相世界にあって、憂苦や懊悩を植え付け争乱を巻き起こす基は、自己の中に生じる迷いと罪の人類意識である。その葛藤が本来ないはずの地獄絵図を現出する。現象にとらわれること勿れ、“祖師西来意”は万象に宿り来たり、時間も空間も超越して“今・此処”に確かに有り給うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第２０則・龍牙西来意」の「頌」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63589269.html</link>
			<pubDate>Sat, 17 Mar 2012 19:35:46 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２０則…龍牙西来意・垂示</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第２０則■ 龍牙西来意 ( りゅうげせいらいい )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 垂示 ( すいじ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（序論的批評）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 垂示 ( すいじ ) に 云 ( いわ ) く、 堆山積嶽 ( たいざんせきがく ) 、 撞墻&amp;#30933;壁 ( とうしょうこうへき ) 、 佇思停機 ( ちょしていき ) せば一場の 苦屈 ( くくつ ) 。 或 ( あるい ) は 箇 ( こ ) の 漢 ( かん ) あって 出 ( い ) で来って大海を 掀翻 ( きんぽん ) し、 須弥 ( しゅみ ) を &amp;#36386;倒 ( てきとう ) し、 白雲 ( はくうん ) を 喝散 ( かっさん ) し、 虚空 ( こくう ) を打破して、 直下 ( じきげ ) に 一機一境 ( いっきいっきょう ) に向って、天下人の 舌頭 ( ぜっとう ) を 坐断 ( ざだん ) せば、 汝 ( なんじ ) が 近傍 ( きんぼう ) の 処 ( ところ ) 無けん。 且 ( しばら ) くは 道 ( い ) え、 従上来 ( じゅうじょうらい ) 、 是 ( こ ) れ 什麼人 ( なんびと ) か 会 ( かつ ) て 恁麼 ( いんも ) なる。 試 ( こころ ) みに 挙 ( こ ) す 看 ( み ) よ。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山のように疑問を多く抱え込んだり、闇雲に問題に突き当たったり、あれこれ悩んで思考を止めてしまえば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由自在を失い、苦痛で窮屈な世界が現成する。しかし、悟りに至った者がやって来て、大海原をひっくり返&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
し、高山を蹴倒し、空に浮かぶ雲を一喝して霧消せしめ、虚空を打破して、どんな状況・相手にも変幻自在に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
振る舞い、あらゆる人々を悟りに導けるような人が出てきたならば、それは誰も近づけないほど尊い人物であ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ろう。では、現在に至るまで、どのような人物がそのような境地に到達できたのであろうか。次に掲げる公案&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
を読んで、真理を悟りなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題）の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。第２０則では、以前「第１７則・香林西来意」で取り上げた「祖師西来意」が再びテーマとして取り上げられる形になるので、未読の方は事前に目を通していただけると、理解が得やすいのではないかと思う。簡単に触れると、祖師西来意とは、文字通り解釈すれば、禅宗の祖である達磨大師が西天インドからはるばる中国唐へ仏教を伝達した意味は何か、ということになる。しかし、本稿では更に解釈を広げて、達磨大師が生涯をかけて追究した禅の真髄とは何か、己自身の真実とは一体何者か、という意味を込めた捉え方をしてきた。今回も同様の観点から解釈を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭の「堆山積嶽、撞墻&amp;#30933;壁」とは、現象のさまざまな障壁に迷い、罪の意識を抱き、桎梏に苛まれる多くの人々を象徴した表現である。「堆山積嶽」とは山嶽を形成するほどに高く積上るほどに、多くの難問や課題を抱え込むこと、「撞墻&amp;#30933;壁」とはむやみやたらと障害に向かって突き当たっていくこと、という意味がある（“墻”は垣根、“&amp;#30933;”は音を立てて当たるさま）。そのような状態で「佇思停機せば一場の苦屈」であるという。「佇思停機」とは佇みて思い機を停む、即ちあれこれと思い悩み、心の働きを止めてしまうことを指す。心がある１点において引っかかりを生じると、本来の人間の備え持った心機が失われ、自由自在の魂が縛られてしまうことによって、現世の実相は光明世界でありながら「一場の苦屈」、一転して阿鼻叫喚の地獄絵図と化してしまうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、悟れる覚者がそこに現れ、世の一切の現象と見える事物を払拭し、あらゆる状況においても、どんな相手に対しても、絶対に揺るがぬ真理を自在に説く力を現したならば、それはまさに近づくことも容易に出来ないような偉大な人物だろう、というのが、続く一文の「或は箇の漢あって出で来って大海を掀翻し、須弥を&amp;#36386;倒し、白雲を喝散し、虚空を打破して、直下に一機一境に向って、天下人の舌頭を坐断せば、汝が近傍の処無けん」である。掀翻とは持ち上げて翻すこと、須弥とは須弥山と呼ばれる、仏教で説かれる世界の中心に聳え立つとされる伝説の高山である。日月星辰もその周囲を回るというから、近代以前の天動説と同根の思想である。その須弥山を&amp;#36386;倒、即ち蹴り倒すということは、現象一切を否定するという意味に等しい。海原（ここでは「蓮華蔵世界海」を意味し、現象を生み出す世界の根源）をひっくり返し、地上を蹴り倒す。可視の世界は決して金剛不壊の世界ではない。どんな強靭な建築物とて、大自然の御業の前には全く歯が立たない。現象は流転の世界である。果たして、上記のような人物がこの世に存在するのだろうか。古より脈々と継承されてきた人類の魂が、かく認められる人物を生み出し得るのだろうか。次に掲げる本則を読んで、真理を会得しなさい、として「従上来、是れ什麼人か会て恁麼なる。試みに挙す看よ」と終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回までに触れているように、現象世界の至るところ一切、祖師西来意が満ち満ちているのである。“祖師”とは必ずしも、達磨大師お１人を指している表現ではない。祖師とは、万物の中心にあり、一切を生かし給うところの大いなる生命そのものである。西来することなく西来しているのであり、東にも北にも南にも、存在し得ない箇所は１点もないのである。肉眼を以て世を見れば、欺瞞に満ち混沌とした世界が広がり行く一方である。しかし心の眼を開き、心の耳を傾ける者は、どんな苦境に陥っても、如何なる障壁に当たっても、それは苦境でなくなり、障壁でなくなるのである。そこに祖師の説き給うた大真理の説法が満ち満ちているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第２０則・龍牙西来意」の「本則」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63538778.html</link>
			<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 22:08:43 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第１９則…倶胝指頭禅・頌</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第１９則■ 倶胝指頭禅 ( ぐていしとうぜん )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 頌 ( じゅ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（編者の短評）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 頌 ( じゅ ) に 云 ( いわ ) く、 対揚 ( たいよう ) 深く愛す 老倶胝 ( ろうぐてい ) 、宇宙 空 ( くう ) じ来って更に誰か有る。 会 ( かつ ) て 滄溟 ( そうめい ) に向って 浮木 ( ふぼく ) を下す。 夜涛 ( やとう ) 相 ( あい ) 共に 盲亀 ( もうき ) を接す。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
老師倶胝和尚の、弟子を教化する精神、姿勢は実に深切で真心の深いものだ。世の一切を空と断じ終えた先に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いったい何が残るのか。蒼々とした大海に、一本の木の枝を浮かべたところで、それを自力で見出すのは非常&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に困難である。しかし、真っ暗な夜の海に漂っていると、盲目の亀が不思議とそれに巡り会うことができてし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
「頌」とは、公案の本問題を意味する「本則」を受けて、その公案を選んだ本人である、『碧巌録』の原典の編者である雪竇和尚が書いた“短評”を意味していて、要は「本則」の要点を記し感想を述べたもの、と思っていただけると良いだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前回本則で触れたように、倶胝は天龍和尚の機縁に触れて大悟した後、相手からの如何なる問答に対しても、一指を立て示す「指頭禅」を確立し、後進の弟子たちを教化した。それは時に、形骸に堕し己の型を真似ていた弟子に対し、弟子の指を切断して悟らしめるほどの、徹底した伝道であった。倶胝和尚が会得した禅道とは、真に理解し真に実現せしむるべきものが肉体の自己ではなく、“今・ここ”に顕現する己の魂そのもの、時間軸にも空間軸にも依拠しない、１点の中に全てを包蔵するところの、己の真実なる存在そのものであること、それを現象的に現すべく、仮に「一指頭を立てる」ことで表現する愛他行の実践である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、頌では「対揚深く愛す老倶胝」とある。この文は、倶胝老師の弟子を教え導く愛の深さを讃えたものである。対揚とは、仏教では師の説法の会座で問答し、仏道を明瞭にすること、また師の宗旨を明らかにし教義を広く宣布することを指す。現代的な感覚を以てすれば、弟子への説法の過程で、取り返しのつかない所業を為している人物に対して、愛深いという表現は適切でないように思える。事実『無門関』では、編者の無門和尚が倶胝の行為を批判しており、如来は適宜説法が出来るはずだから、小僧を悟らしめるには他の手もあったはずだと評している。肉体上に指があろうが無かろうが、本公案の真髄には何の関係もないからである。その一方で、肉体を超えた霊的実在とその優位性を是認するのが、古今東西の宗派に共通する基本的な教えの１つである。結果として自己の実相研鑽を為し得たのであれば、肉体的な破損などは取るに足りない些末な問題なのかもしれない。倶胝和尚のみならず、禅門の高僧たちの教導は、得てして苛烈な例も多いこともあり、弟子を悟らしめる手法も様々である。全てが史実かどうかは分からないが、“殺人刀”を振るい人を活かした、という解釈が適当ではないかと考察する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして「宇宙空じ来って更に誰か有る」と続く。現世に存在する一切の事物は、有機物も無機物もみな、大いなる実在によって形成されたところの、空間上に投影された観念の波紋である。我々人間の肉体も、１人として完全なるものはなく、永遠不壊の存在である物質は現象界に於いては、何一つ存在しない。仮に形成されたとしても、内的・外的要因が付加されることによって価値が損なわれ、傷つき、消滅することもあり得るのである。人類の築き上げた文化文明も、自然の想定外の脅威の前には全く無力に等しい。ただ厳然として、真に実在を主張でき得るものは、一体何者であろうか。宇宙に存在する一切の事物を“空”と断じても、決して無くならない不滅のもの、それは即ち“不立文字”、言説を以て全貌を言い表すこと能わざる絶対的な事実である。よって、師と弟子との間の魂の&amp;#21840;啄同時が実現してこそ、衣鉢を継ぐ資格を有することになるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言葉で説明が不可能であるから、倶胝和尚は一指頭の禅を以て説いた。「会て滄溟に向って浮木を下す」ようなものだ。滄溟とは、広大で蒼々とした美しい海原を指す。紺碧の大海に１本の木の枝を上空から落として、簡単に見つけ出すことなど、そうそう容易には出来ない。仮に辿り着けたとしても、縋り付くことは一層困難である。世の人々は皆、本来存在などしない表面の波に揺られて、浮き沈みを繰り返す遭難者のようなものである。だが同時に、浮き沈み自体が因果律を象徴する動作であり、一種の迷いの自壊作用と言ってもよい。どんなに気炎を上げたところで、肉体の人間１個の力には限界がある。しかし「夜涛相共に盲亀を接す」、夜の暗闇に海上を漂っていると、なぜか不思議とふとしたことから、救いの機縁に触れることがある。結局、現在どんなに憂苦や懊悩に惑わされていたとしても、順風満帆で何の迷いなく世の天下を闊歩していたとしても、“本来”人間は誰一人として不完全なるものはなく、みんな既に救われている尊い仏子なのである。迷い自身は不完全な存在であるから、それ自身が消極的であり、実態は“真理の非在”に過ぎないのである。倶胝和尚の指し示す先にある、救われ済みの実相を観じ得た者は、光一元のエデンの園、極楽浄土が、“今・ここ”に、確かに存在し現れていることを悟れる者なのでである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上で「第１９則・倶胝指頭禅」の解釈を終わります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
次回は「第２０則・龍牙西来意」に入ります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63509622.html</link>
			<pubDate>Sat, 04 Feb 2012 23:51:34 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第１９則…倶胝指頭禅・本則</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第１９則■ 倶胝指頭禅 ( ぐていしとうぜん )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 本則 ( ほんそく )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（本問題）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 挙 ( こ ) す。 倶胝 ( ぐてい ) 和尚、 凡 ( およ ) そ 所問 ( しょもん ) あれば 只 ( ただ ) 一指 ( いっし ) を 竪 ( た ) つ。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例を挙げてここに示す。倶胝和尚はいつも、自分に禅問答を受けたとき、ただ人差し指を１本立てて、相手に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
示してみせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「本則」とは、禅宗で出される「公案」のことである。禅問答の試験問題のようなもの、と言い換えても良いだろう。今回は第１９則の「本則」である。わずか１文の本則であるが、古来代表的な禅門の公案としてつとに知られており、『碧巌録』と並び禅宗の代表的な公案書である『無門関』にも、第３則に取り上げられている。『無門関』では前後段を付して説明されており、これを解釈することが即ち本則の要諦を説明することにつながり、読者の理解を得やすいように思うので、時系列を追って順に説明することとしたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の本則の登場人物は、倶胝和尚である。本論に入る前に、前日譚に触れておく。倶胝和尚については正式名を調査したが不詳（「倶胝」すら本名ではないとされる）、生没年も未詳だが、中国五名山の１つ「西岳」で知られる華山に住んだ、禅宗第１１祖となる人物とのことである。時は唐代、皇帝武宗(814-846)によって廃仏令（会昌の廃仏）が実施されていた頃、若き倶胝もまた、華山に小さな草庵を建てて隠れ住み、日々修行に明け暮れていた。そんなある日、１人の尼僧が倶胝の庵を訪れてきた。尼僧は草鞋も脱がずに上がり込み、倶胝が座禅を組んでいる周囲を、笠も取らずに何度も回り錫杖を立て「私の名は実際という。実際とは何者であるか、述べてみよ」と話した。倶胝は何を言えばよいか分からず、黙り込んだ。すると二度三度「実際とは何者であるか、述べてみよ。述べられれば笠を取ろう」と尼僧は言う。しかし、答えが分からず黙り込んだままの倶胝に、尼僧は黙って帰ろうとした。倶胝が「もう暗くなるからお泊り下さい」というと、尼僧はまたも「実際とは何者か述べよ。述べられれば笠を取る」と伝えた。途方に暮れた倶胝を見て、結局この実際と名乗る尼僧は立ち去っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尼僧の問答に何も答えられなかった倶胝は、己の非力を恥じ、夜を徹して己自身と対話し、名僧の門下に弟子入りして修行をやり直そうと決心した。するとその日の夜、夢枕に土地神が現れ「他所へ修行に出る必要はない、近いうちに“肉身の菩薩”が訪れるから、その者に教えを乞え」と啓示があったという。数日後、天龍和尚(?-?)という禅僧がやって来た。夢のお告げの“肉身の菩薩”に違いないと考えた倶胝は、天龍和尚に事の経緯を話し、どうすればよいのかと尋ねた。すると天龍和尚は黙って人差し指を立て、倶胝の前に示した。それを見た倶胝は忽然と悟りを開いたのであった。以来、倶胝はどんな相手の如何なる問答にも「指頭禅」、ただ指を１本立てて示く教義を貫いたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして倶胝和尚の「一指頭を竪てる」禅風が確立された訳だが、一見特異に見える説法であるから、当然真似をする者も出てくる。世が下り、天龍和尚の法嗣となり、弟子を多く抱えるようになっていた倶胝和尚は、自分の門下のある小僧が師の“形式”を真似て、あらゆる問いに指を立てて答えていると聞いた。倶胝和尚はある日、その小僧を呼び出した。小僧に「如何なるか是れ汝（お前は何者だ）」と尋ねると、例によって小僧は指を立てた。その姿を見た倶胝和尚は「この指がお前なら、この指を切断したらどうなる」と言い、小僧の指を刃を以て一刀のもとに切り捨ててしまった。あまりの激痛に慟哭し、逃げ出そうとする小僧を、倶胝和尚は一喝して呼び止めた。そして再度「如何なるか是れ汝」と問う。小僧にはもう人差し指がないから、師の真似をしようとしても真似できない。人真似でない指を立てないといけない。小僧の困った様子を見ていた倶胝和尚は、黙って己の指を立てて示した。瞬間、小僧は禅師の「指頭禅」の真義を悟ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天龍和尚が倶胝に指を立てたのは、「“実際”という尼僧は“コレ”だ」と、尼僧自身の“内在する実相そのもの”を示したのである。他に示しようがないからである。「正鵠を射る」ための表現であり、どんな物事にも通じる真理である。垂示で解説したように、一塵の中に一切の宇宙があるのと同様、一指頭の中に全公案の解決法が宿るのである。すなわち、天龍和尚が一指頭を立てたのは、天地全てがそこに立っているのに等しいからであり、万象一切を目の前に現して「“コレ”が実相だ」と示すことに等しいからである。「今・ここ」に全てがある。「今」とは過去・現在・未来の時間軸上に存在する“今”ではなく、今という１点に於いて、永遠なるものと合致するところの“今”である。「ここ」も空間軸上に存在するところの“ここ”ではなく、ここという１点に於いて、無限なるものと合致するところの“ここ”である。この時間と空間とが交差する１点、永遠と無限とが合致するところの１点を伝えるべく、天龍和尚は倶胝に、一指頭を立てて見せたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一指を立ててみたところで、深層を把握せねば、単に形骸化したパフォーマンスに過ぎない。小僧が示したのは、表層的な目に見える部分だけを見様見真似で表現しただけであるから、同じ動作でも意図するところは全く異なっている。倶胝和尚が小僧の指を切断して悟らしめたのも、かなり強引で乱暴な手法ではあるが、真に立てるべきものは「肉体の指」「形式の指」ではなく、“指が無くても立てられる指”であることを示したからである。指を切断された小僧は、指がなくても天地と共に立つ己自身の生命、それこそが己の真実であることを悟ったのである。天龍和尚の悟りも、倶胝和尚の悟りも、小僧の悟りも、みな根本は同一の真理なのである。今・此処の１点に、１つの塵の中に、１本の指に、全世界全宇宙があり、全生命が宿っているのであり、全生命が躍動していることが悟れる者が、一綟糸を斬り、一綟糸を染める働きを成すことができるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第１９則・倶胝指頭禅」の「頌」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63482567.html</link>
			<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 14:14:36 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第１９則…倶胝指頭禅・垂示</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;5&quot; color=&quot;maroon&quot;&gt;■第１９則■ 倶胝指頭禅 ( ぐていしとうぜん )&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;black&quot;&gt;●&lt;b&gt; 垂示 ( すいじ )&lt;/b&gt; ●&lt;/font&gt;（序論的批評）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;red&quot;&gt;【書き下し文】&lt;/font&gt;（※現代かな遣い・新漢字に一部変更）&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt; 垂示 ( すいじ ) に 云 ( いわ ) く、 一塵 ( いちじん ) 挙 ( あが ) って大地収まり、 一花 ( いちげ ) 開いて世界 起 ( おこ ) る。 只 ( ただ ) 塵 未 ( ま ) だ挙らず、花未だ開かざる時の如きは、 如何 ( いかん ) が 眼 ( まなこ ) を 著 ( つ ) けん。 所以 ( ゆえ ) に 道 ( い ) う、 一綟糸 ( いちれいし ) を斬るが如し、 一斬 ( いちざん ) すれば一切斬。一綟糸を染むるが如し、 一染 ( いちぜん ) すれば一切染。只 如今 ( にょこん ) 便 ( すなわ ) ち葛藤を 将 ( もっ ) て 截断 ( さいだん ) して、自己の 家珍 ( かちん ) を 運出 ( うんしゅつ ) せば、高低 普 ( あまね ) く応じ、前後 差 ( たが ) うこと無く 各各 ( おのおの ) 現成 ( げんじょう ) せん。 儻 ( も ) し或は未だ 然 ( しか ) らずんば、 下文 ( げぶん ) を 看取 ( かんしゅ ) せよ。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;teai&quot;&gt;【私的口語訳】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わずか１つの塵が空に舞うことで、天地を揺るがすこともあれば、１本の花が開くことで、世界が大きく変わ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ることも時にある。しかし、その塵が空に舞う以前、花が開く以前のような状況であるのなら、我々はどこに&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
意識を向ければよいのだろうか。例えて言えば、世の真実とは、もじり織りをした糸を１ヵ所斬ったら、やが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て全てが斬れてしまうような、また１ヵ所を染料で染めたら、やがて糸全てが染まっていくようなものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
即ち、一切の艱難や迷いを真理を以て断ち切り、己自身の内なる実相を導き出せば、どんな相手にも事象にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由自在に間違えることなく、各々一切が活かされるのである。もし、まだこれを理解できぬ境地にある参学&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の者は、次に示す公案を読み、真理を会得しなさい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;blue&quot;&gt;【私的解釈】&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「垂示」とは、この『碧巌録』の編纂者である圜悟禅師が、自分の弟子たちに対して、「本則」(本問題）の要点や着眼点を、あらかじめ示す目的で書いた“課題提示”であり、前置きの文といったものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭の「一塵挙って大地収り、一花開いて世界起る」とは、１つの物質の中に全宇宙があり、１つの事象が変化することで、外の世界が一変する様を例えた一文である。この言葉は、一粒の米に置き換えて考察すると分かりやすい。一粒の米は、物理的には単なる“一粒の米”でしかあり得ず、それ以上も以下もない。しかし、具体的事物を成立せしめている、現象の奥にあり給う理念的世界に於いては、無限の宇宙をその内に包摂する存在としてあるのである。一粒の米を収穫する為には、数多くの稲を育てる人間が必要である。その１人の人間には両親に始まる、無数とも言える祖先の存在があり、我々の生きる社会や国家もまた、世界中と関係を保ちつつ生き続けている。さらには、人間も動物も植物も鉱物も、みな地球という天体に生き、太陽や月の多大な恩恵を受け、果ては無限の大宇宙、そこに宿る大いなる意思に活かされて今、ここに存在している。すなわち、一粒の米には、時間的・空間的な大宇宙の全てが、厳然と凝縮されているのである。況んや、我々人間の生命には、大宇宙を動かすだけの大いなる智慧と愛とが宿っているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この大いなる力を発揮せしめる為には、自己の我執を完全に棄却しなければならない。自己の願望に拘泥し、自己の保身のみを得んとする人間は、所詮宇宙の“塵”に等しい力しか発揮できない。我欲を捨て去った時、人間の生命は宇宙の大生命と一体と化し「一塵挙って大地収り、一花開いて世界起る」光明世界が現成するのである。社会や国家という存在も、それに等しい。ともに客観的・歴史的事実の上に成立するものであり、人間の意識に蓄積される想念によって形成される集合体であるから、「一花」に等しい。人々の心の中に、国家社会の理想が把握され、正しき使命と真実とが自覚されたとき、そこに一花が開き、善一元の世界が実現するのである。どんな些細な物質にすらも、神仏のいのちが宿り、神性仏性を現しているのである。愛と真心と深切を成すとき、一切みな大調和の世界が到来するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、本文に戻ると、垂示には続いて「只塵未だ挙らず、花未だ開かざる時の如きは、如何が眼を著けん」とある。前文のような働きが十全になされるためには、そうした天地が動き、世界が動くという“現象”にばかり着目していてはならない。むしろ、事象が未だ現れ出ずる前の本来相に相対して、端座しその真実を拝する姿勢が必要である。本稿でたびたび触れているように、現象界とは物質と法則に支配された世界であるが、原因と結果を以て成立する世界は、即ち一切を相対化しているに等しい。だが、本来相を把握するためには、相対の世界を超越して、一即多・多即一の世界を観ずることが求められる。真実のレンズを通して観れば、続く「一綟糸を斬るが如し、一斬一切斬。一綟糸を染むるが如し、一染一切染」となるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「綟糸」とは、もじり織りをした糸のことを指す。もじり織りとは、１本の経糸が１、２本の経糸に絡みながら緯糸と組み合った、隙間のある織物のことである。この宇宙に満ち満ちた根源の「一」が生命の本来の真中に透徹すれば、一綟の糸も、一ヵ所斬ってしまえば全てが切り離されてしまうかのように、また一ヵ所染料で染めれば全体が染めた色へと変色してしまうように、一ヵ所の働きが全てを動かすことができるようになるのである。では、実際にそのようにすれば、というのが「只如今便ち葛藤を将て截断して、自己の家珍を運出せば」である。即ち「今すぐに一綟の糸を一刀両断に断ち切る叡智を以てして、一切の迷妄や桎梏を断ち切って、自己のマコトなる魂を全て解放したならば」という意味である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果として、垂示では「高低普く応じ、前後差うこと無く各各現成せん」と表現している。つまり、臨機応変にその場、その時、その相手に応じて自由に説法が可能になる、と評している。前半も後半も、表現が異なるだけで、同一のことを述べているに過ぎない。そのままの姿、ありのままの己の姿が、神の御心、仏の御心と一体となるのである。“そのまま”とは肉体と欲望と障害とを備えた物質人間のことを称しているのではなく、円満完全、無礙無垢、供給無限、歓喜無限、調和無限、病なく迷なく罪もない、純粋な魂を備えた真実の人間のことである。しかし「儻し或は未だ然らずんば、下文を看取せよ」、まだその境地に達していない参禅の者は、続く文章（本則）を読んで、この深い真理を悟りなさい、として、垂示は終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次回は「第１９則・倶胝指頭禅」の「本則」に入ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;&lt;b&gt;読まれた方は、コメントいただければ幸いです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃｒｉｏｎ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yu_ta_crion/63470051.html</link>
			<pubDate>Sun, 15 Jan 2012 22:20:58 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
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