例えば。
相手が傷ついたりショックを受けるといけないので、本当のことをあえて隠す場合があります。
一方で、長い目で見たらやっぱり本当のことを言ったほうがいいんだろうな、と思うときもあります。
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「○○関係者」とか「業界人」とか「○○大学教授」とか、自分よりもはるかに見識のある人がもっともらしいことを言ってても、「んっ?」と思う瞬間があります。
農産物などの風評被害に関する政府の会見で、「ただちに人体への影響はでないが、食べないほうがいい」といった趣旨の奇妙なレトリックには誰もが首を傾げたと思います。
原発から20キロ、30キロと赤や黄色の同心円を描き、その外は大丈夫という。すると、その数日後に円の外で大きな放射能が測定されたりしましたが、他の国では初めに大きく同心円をとって避難させ、徐々に狭めていくらしいです。
情報番組で「安全だから大丈夫」って連日学者を招いて繰り返したり、風評被害を「食い止めようと」報道し、一方で漁業関係者とかの悲哀も記事にする新聞。
大学の先生が論理的に、わかりやすく説明してくれても、テレビを見ている僕らの「う〜ん、そうなのかなぁ・・・」っていう気持ちが消えないのは、なぜなんだろう。
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自分がそういう商売をやっているので、身近な問題なんですけど。
テレビや新聞が成り立っているのは、当たり前だけど広告主がいるからです。当然、広告主に不利益な情報や隠したい事実は、報道できません(そういう場合が多いと思います)。
事実、朝のワイドショーやラジオ番組では、独自の取材や海外メディアからの情報を基に発言した人が、オンエア終了後に番組を降板させられたらしいです。
広告主にキン○マを握られた(下品な言い方失礼!)メディアがいくら「安全です!」って言っても、やっぱり心に響かない。
それはもう、本能的な違和感といっても差し支えないと思います。○○テレビの報道はAだからイヤだ、じゃないのです。
ただ、ただ、胡散臭いのです。
信用できないのです。
「安全です」「大丈夫です」って連呼することで本当のことを隠しているのだとしたら、それはデマよりもタチが悪い「安全デマ」と言わざるを得ません(と、自由報道協会の人が言ってました)。
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ミュージシャンの斉藤和義が「ずっとウソだった」という自身の替え歌を歌ってちょっと有名になってます。
ほとんどのミュージシャンはレコード会社に所属して、自分の音楽を創造し、多くのスポンサーから支援を受けて、場所も借りて、ライブをやって、私たちを楽しませます。
しかし、「フリーダムな野外フェス」のメーンスポンサーが原発関連事業や東電のような巨大企業だとして、そこに忌野清志郎や斉藤和義が、果たして自由にパフォーマンスできるでしょうか。
戦時中に「大本営発表」という言葉がありました。日本軍は負けているのに、「善戦」と言い、撤退したのに「転戦」と報道し、国民は「新聞に書いてあるから」そう信じていました。
その「負け」は、予想していた負けではなく、日本は神国だからぜったい勝つ!って思ってていきなりやってきた「負け」だったので、精神的ショックも大きかったのかもしれません。
当然、本当のことを言った人は、「非国民」と呼ばれて憲兵に連れて行かれました。
自分が信じていることや信じたいことと
相手が自分を裏切ることは
実は全く関係ない次元の話で、
人は、自分の信じたいことだけを信じる(傾向がある)弱い生き物だ
と、よく耳にしますし、自分でもそう思います。
普段クソミソにバカにしている国が「早く安全宣言を出してくれればほうれん草買うのに!」とか、そういうことを周りでよく聞きますけど、
国や権威のある人がどんな言い方したところで、ほうれん草そのものは変わらないだよなー。
毎日違和感に包まれて過ごしていると、気持ちが一箇所に定まらずに変なことばかり考えちゃいます。あ〜、愚痴ってスッキリしたー。