cafe&bar oldspring♪

内なる声に耳を澄ませ、勇気を持って行動せよ。

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友達のコーヒー屋さん「辻本コーヒー」のメルマガで連載したエッセー。 http://www.rakuten.co.jp/tsujimoto/index.html
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人気低迷、球界再編、WBC(国別対抗戦)優勝で人気回復か!?と話題には事欠かないプロ野球。ペナントレースが始まったのに、僕は別にわくわくもしない。なぜなら贔屓(ひいき)のチームがすでにないからだ。ユニフォームを変え、名前と選手を分割され、かろうじて残ってはいるが、それもただの名残でしかない。大阪近鉄バファローズ。僕はこの球団のファンだった。ここはひとつ、印象的な話をしよう。約6年前の6月だった。

大阪ドームはすでに熱狂の渦だった。でもその熱狂の主はレフトスタンドの福岡ダイエーホークス(当時)のファンで、なぜならその試合はホークスがマジック7で迎えた試合だったからだ。近鉄ファンが陣取るライトスタンドは、客もまばらなさみしい状況だった。外野の自由席は顔見知りしかいない「半分指定席」になっていた。

一回の裏、近鉄の攻撃が始まった。その時、僕の左下に座っていたおじいちゃんが突然叫びだした。「大村ぁ〜・・・、がぁん・ば・れぇー!」。すかさず周りの客からあたたかい拍手が降る。続けて応援団のラッパが盛大に鳴り、もはや楽器としての生命を全うしたかのような太鼓の悲惨な破裂音が球場内にこだました。おじいちゃんは応援団とはなんの関りもないと思われた。なぜなら彼らの応援におじいちゃんのメガホンは全く合っていないからだった。連係はしていない、それがおじいちゃんの英雄的な一声を確かなものにしていた。

おじいちゃんの咆哮(ほうこう)は、僕には戦闘開始の合図に思え、武者震いがしたものだった。そしてバファローズは初回からかっ飛ばした!おじいちゃんはそれからも「ローズぅぅぅ〜、かっっ・・・、とぉばせぇー!」と歯切れはだいぶ悪いけれども、よく通る声をドームの天井に突き刺していく。周りはその都度拍手で迎える。じんわりと、やわらかく、「僕はなんといい球団のファンになったのだろう」とうれしくなったのを憶えている。

どんな人気のない球団にでも一定のファンは存在する。僕が見たのはそんな一・老近鉄ファンだったのだろう。ふと、おじいちゃんは藤井寺球場で何年もバファローズを応援し、そして今日も藤井寺から来たのではないか、と思えてきた。大阪の東、奈良県寄り、昔は河内と呼ばれた所。近鉄南大阪線・藤井寺駅を出て右に6、7分。藤井寺球場は住宅街に突然そびえ立っている。日本シリーズでさえ満席にならなかった(らしい)伝説の球場で、本拠地が大阪ドームに移ってからは二軍の練習場や高校野球の府大会予選に使われていた。

そんな妄想を膨らませている間に試合は6回裏、ノリ(中村紀洋)の満塁ホームランで大量7点を奪ったバファローズが、終ってみれば16対0の大勝利。おじいちゃんや周りのファンと握手し、いい気分で球場を後にした。それから約6年。あのとき満塁弾を打ったノリはメジャーを経て現在はオリックスのユニフォームを着、大村はソフトバンクと名を変えたホークスへ。ローズは巨人へ行ったが打率が悪かった、あるいは監督の構想に合わなかったからか、さっさとクビを切られた。近鉄があったならローズは今でも仲間と楽しくやっていたかもしれないなぁと思うかつてのファンは、ただただ嘆くしかない。

藤井寺球場も、すでにない。自治体もかつての親会社も、懐が厳しいのだ。しょうがないと言ってしまえば、部外者が他に言えることはない。本当に、時代の流れとは過酷なものだ。採算と効率を突き詰めていっても、離れたファンの心はどうしようもない。もはや野球を見て手に汗握ることはなくなった。でも、あのおじいちゃんを見た日「やった、やった!勝った、勝った!」と小躍りしながら一人、赤いメガホンをカチカチ鳴らしつつ家路に着いた日が懐かしく思い出されるとき、僕は少しだけ熱い気持ちに戻れるのだ。

第47回 『大塚先生』

高校2年生のときの担任は、とにかく変なヤツだった。理科の教師でもないのに、いつも汚れた白衣を着ていた。後頭部には必ず寝癖があり、ネクタイはいつも黄色だった。変なところはいっぱいあったが、とりわけ変なのがひどく律儀な話し方だった。「イリ君、今日は元気かね。うむ・・・」。本当にこんな喋り方なのだ。人は相槌を打つ際、果して「うむ」などと言うだろうか。「〜かね」などと尋ねる人も漫画やドラマの世界にしたって稀である。

先生はこちらが避けようとすればするほど、微妙な距離でジリジリと近寄ってくる。こんなだから、もちろん生徒にはバカにされ、むやみに嫌われ、先生はその度に「ウムム・・・」とあごに片手を添え、困ったポーズをとる。からかわれても全然怒らないし、ちょっとしたことで注意され逆切れする生徒に「う〜む、しょうがないなぁ」などと腕を組みながら苦笑する。それが見ている側には面白く、傍観している側から言わせればじれったかった。

いつしか皆彼のペースに引き込まれていった。バカにはするが、同時にゆるい空気も漂っていた。傍観している側からすれば、気に入らなかった。率直に、僕はひねくれた生徒だった。昼休みに馬鹿騒ぎする連中を見て本当に「バカだ」と思い、同時に「誰か相手にしてくんねえかなぁ」と思っていた。そんなときよく先生が話し掛けてきた。机に突っ伏して寝ている僕に、「イリ君、昨日の野球を見たかい?阪神強かったねぇ」と微笑む。相変わらずの口調だ。僕は、無視した。三者面談で志望大学の話のとき「僕は美容師になる」と突っ張った。母親は慌て、先生は苦笑した。小さい優越感に浸る高校2年生のガキがいた。

高校は珍しいことに給食だった。先生は教卓でご飯をかっ込みながら、誰とも机を合わせようとせず一人で食べている僕を、まるで中学生の女子が好きな男子を盗み見るかのように上目遣いで見ていた。僕はそこでもひねくれた。ちゃんと見たわけではないが、わざと背を向けてまずそうにご飯を食べる僕を、先生はたぶん微笑とともに箸を置き「しょうがないなぁ〜イリ君は」という、いつもの腕組みポーズで僕を見ていたと思う。

3月、終了式の後のホームルーム。先生は突然「僕は今日で教師を辞めます。みんな3年生になってもがんばるように。以上!」と一息に宣言した。言い訳、理由、一切なし。あっけにとられた僕らを尻目に、先生は真っ白なテレホンカードを皆に配った。太いマジックで四文字熟語が書いてある。名前を呼ばれ取りに行った。「捲土重来」と書いてあった。先生は問題のある生徒だからといって、特別なことは言わなかった。ただ「がんばって」と静かに言った。そのささやかな一言が彼のやさしさと気付くまで、僕は6年かかった。

そのテレカを再び見ることになったのは大学4年の秋。就職活動はほったらかしで小説ばかり読んで暮らしていた。久々に見るテレカは、字が少し薄れていた。当時は気にもしなかった言葉の意味を調べた。辞書には「挫折した者が、砂ぼこりを巻き上げるように再び挑戦すること」とあった。自分の状況はまさしくこれだった。身勝手だが、次の日から一つの思いにとらわれた。先生に会って、あのときのことを謝る。そして、話したい。僕は先生を探した。高校の友達に訊くと彼はどこかの予備校の教師をしているらしい。ある予備校の教師紹介蘭に同姓同名の名前を見つけた。連絡をとったが、返事はなかった。

本当に心から接してくれる人は、近くにいながらも黙っているものなのかもしれない。絞るところがないほどひねくれた僕は先生をわざと遠ざけ、さり気ないやさしさに苛立ち、意味なく背を向けた。後に聞いたが、先生は僕らの卒業式に来ていたらしい。誰も気付かなかった。それも無理はない。気付いた数人によれば式場の隅の方で腕を組み、後期ビートルズ並みの髭もじゃの顔で「うむ、うむ」と頷いていたとのこと。あんなやさしい先生は、後にも先にも彼だけだった。具体的な相談に乗ってもらってもいない。余計な情熱で迫られてもいない。だけど先生は、本当にやさしい目をしていた。先生がくれたテレホンカードは、いつも僕の財布の奥に入っている。

2月。風が冷たい。時計を見ると午後4時50分。僕は急いで新宿駅東口に向かった。そこである人と待ち合わせをしていた。彼女とはカンボジアのシェムリアプで出会った。シェムリアプにはアンコールワットを始めとする遺跡群がある。その中にタ・プロームという遺跡がある。あの日、日差しは容赦なく、時計についていた温度計は36℃と表示されていた。崩れかけた遺跡をビーチサンダルで徘徊し、回廊を抜け、樹木が石の遺跡に複雑に絡みついた様を崩れかけた遺跡に座って見ていた。と、左横の回廊から人が出て来た。お互い軽く会釈した。僕はその瞬間、たぶん日本人だなと思った。それが彼女だった。

その彼女と、新宿で再会した。旅のときと違いメガネをかけていたので、ちょっとわからなかった。一軒の飲み屋でお互いのその後を語った。彼女はあれからタイに行き、僕はヴェトナムを回った。そして今、差し向かいで酒を呑んでいる。料理を食べ、酔いも心地よく回ったところで、話は「旅に出るきっかけ」になった。彼女の話は、旅に出た者からよく聞くストーリーだったと思う。仕事を辞めて旅に出た。こういう場合、仕事は概して「悪者」である。入って3日で辞めたくなったそうだ。毎日が辛かった。彼女の言葉を借りれば「カツカツだった」。今風の言葉だが、なんとなく意味がわかったのは顔を見て話していたからだろう。「でもね、ひとつだけいいことがあったの」と彼女は言った。

彼女は首都圏の、ある老人介護施設で働いていた。入所者はいずれも身寄りの少ない、あるいは全くいない老人ばかりだった。だから面会はほとんどないという。その中で一人、とてもカワイイおばあちゃんがいた。目の前の彼女はショートカットだが、仕事をしていた頃は長かったという。彼女は長い髪を貝殻の付いたリボンで結って仕事をしていた。いつからかおばあちゃんは、彼女を「リボンちゃん」と呼び始めた。入ってくる老人はほとんどが認知症(痴呆症)である。介護する側の名前をほとんど覚えてもらえない。非常に珍しいことらしいが、カワイイおばあちゃんは彼女の名前を覚えたのだった。

彼女は1年9ヶ月仕事をし、辞めた。そして旅に出た。帰国してすぐ、以前働いていた職場の人から「おばあちゃんが危篤だ」という知らせを受けた。彼女は心臓がいつもより大きくなってしまったような激しい動悸を感じながら病院に駆けつけた。だが、おばあちゃんは案外元気だったという。そのときの様子を携帯電話の動画で見せてもらった。小さい画面には、おばあちゃんが皺くちゃの顔をくちゃくちゃさせながら映っていた。リボンをしていなかったが、おばあちゃんは久しぶりにも関わらず彼女のことをちゃんと憶えていた。その日訪れた病室は殺風景で自分以外の誰かが訪れた形跡が全くなく、花瓶も花もなく、だからおばあちゃんには今、身寄りというものが本当にないのだと自覚したという。

次の日、おばあちゃんは亡くなった。葬式はたぶん自治体が行い、市の無縁墓に葬られるのだと思う、と彼女は言った。グラスを傾け冷たいお酒を一口流し込んだ。「全く、奇跡ですよねぇ。旅から帰ってきて、亡くなる前日に会えたんですから」。本当に、そう思う。「最期にリボンちゃんに会えて、おばあちゃん最高に幸せだったね」と言うと、「・・・だと思います」と言って彼女は笑った。とてもいい笑顔だった。外に出ると東京の寒さが身にしみた。「カンボジアの空はどこまでも青かったなぁ」などと、二人寒空の下でぼやいてみた。

駅の改札を抜け、僕は真っ直ぐ、彼女は左。「では、またどこかで」。彼女は辛い別れをしてきたばかりだというのに、それを無理に背負うこともなく、軽やかに、確かな足取りで雑踏の中に消えていった。彼女の後ろ姿を見ていると、これからの彼女の成功を願わずにはいられなかった。僕は彼女の背中に向かって、「おばあちゃん、リボンちゃんは元気ですよ」と心の中で言った。彼女は今、沖縄で働いている。

大学生の頃、アパートで日がな小説を読みふけり、酒とタバコとスーパーへの買い物が日課だった。夕暮れ時、そろそろ夕刊が配達される頃になるとアパートの外で奇声が響く。管理人さんによれば、近くに住む障害者の人が施設から帰ってきたとのこと。彼には道ですれ違いざまに怒鳴られたり、アパート近くの公衆電話を使っていると「おれにも電話、電話!」と耳元で言い寄られるなど、僕は結構相手にされていた。それが平野君。

やがて卒業の時期が来て、アパートを引き払うことになった。積み上げた段ボールは、4年前よりも確かに増えていた。引越し屋さんに荷物を託し、僕は実家へ帰っていった。1週間後、届けられた段ボール箱を開けてみると、ないのである。大切にしていた小説が入った段ボール箱だけがないのだ。引越し屋にも掛け合ったが、確かに配達したとの一点張り。すると一つの光景が思い出された。引越しの日、まだ昼間だというのに、あの奇声が聞こえてきた。平野君だった。彼は「僕にもくれっ!」と叫び、積み上げてあった段ボール箱ひとつを持ち去った。慌てて追いかけるとその場で返してくれ、さらに彼の母親が「どうもすみません」と、もうひとつの段ボール箱を返しに来た。僕は平野君が持ち去ったであろうあとひとつの段ボール箱が、未だ彼の家にあるのではないかと疑ったのだった。

会社での仕事にもようやく慣れた頃、運よく連休が取れた。アパートの近くに住む友人の車で平野君の家までやってきた僕は、一息ついてインターホンを鳴らす、が誰も出て来ない。その後1時間置きに鳴らしたが、誰も出てこなかった。夜9時、これで最後とインターホンを押した。すると、奥から父親らしき人が出てきた。僕は必死に訪問の理由を話し、決して平野君が盗んだと疑っているわけではなく、あくまで自分の落ち度なのだと言った。すると父親は「あの子は悪いことをしてると思ってないんだ」と力なく呟いた。荷物が気がかりだった僕は早く彼の部屋に案内してほしい一心で、ささくれ立っていた。

部屋に続く廊下や階段にはお菓子のカケラや飲み物のシミ、破れた紙片や布、そして異様な匂いが漂っていた。父親によれば本人は外出中という。いよいよ平野君の部屋。隅っこにはボコボコになった段ボール箱。あった!小説は所々カバーが折れたり破けたりしているが、8割方大丈夫。父親は申し訳なさそうに本の収集を手伝ってくれた。父親は「これは君のかな?」「これは・・・これは私のだ。学生時代に読んだなァ、私も文学が好きでねぇ」とやさしい笑顔を見せた。いつしか僕は、自分の気持ちが丸くなっていくのを感じた。

用意してくれた段ボール箱は、失ったはずの本で埋まっていく。かがんで作業をしていた僕が立ち上がろうとしたとき、床に一葉の写真を見つけた。それは茶色いシミで汚れていた。そこには奇声を上げ、いつも何かに怒っているような険しい眼つきの平野君ではなく、紺色のソファにやや縮こまって座り、こちらを上目遣いで見ている微笑した彼が写っていた。隣に写っているのは祖父母だろうか。僕はその写真に釘付けになった。やっと少し目を離すと、壁には画用紙が張ってあった。読み取れない文字と抽象的な絵がクレヨンで描いてあった。僕の様子に気付いた父親は「それはあの子が職業訓練校で描いてきたものなんですよ。なんだかわからないでしょ」といって薄く笑った。僕は黙った。さっきまでのささくれ立った気持ちは完全に消え、僕は平野君を、父親を、赦(ゆる)していた。

外はすっかり暗くなっていた。友人の車に荷物を積み込み、僕は友人の原付でエンジンをかける。「それでは、どうもありがとうございました」と礼を言いハンドルを握り、一度だけ後ろを振り向くと、父親は深々とお辞儀をしていた。そして僕は帰った。ただ、それだけのことだった。ひとつ分かったことは、僕は小説本を取り返しに行って、ただの紙の集まりよりも大切なものを貰ってきたということだ。

第44回 『寄り道』

高校を卒業してから、多少の寄り道をした。何のことはない。単に大学受験に失敗したから予備校へ通うことになっただけの話である。とはいえ、当時は不安だった。4月の時点で「もし今年受からなかったら僕の人生はどうなってしまうのだろう」などと、早くも弱気モード全開だった。頭の中を不安が螺旋(らせん)状に下降していて、小心者の母親の性格を負の部分で完全に受け継いでしまったことを、5月の終わりになって自覚した。

不安であろうとなかろうと、誰にでも時は等しくやってくる。4月下旬、通学定期を買おうとしたときのこと。職業欄にこれから通う予備校の名前を書くと、「予備校生は職業じゃないよ」と駅員は無表情で言う。社会的に予備校生とは無職になるらしい。つまり学割が使えない。ただの通勤定期を使う無職である。その事実を知り、僕は暗い気持ちになった。予備校には当たり前だが自分と同じように若くしてつまずいた無職がいっぱいいた。同じ予備校生なのに妙に明るい奴もいて、楽天的な性格がとても羨ましかった。オリエンテーションをした予備校のスタッフが、「予備校は決して灰色の日々じゃない!」と気勢を上げていたのを強烈に憶えている。こうして僕の浪人生活はあやふやなスタートを切った。

使い古された言葉だが、受験生に夏休みはない。ないはずだったが、8月21日の模試のあと、僕には10日間の夏休みがあった。予備校の夏期講習が終わり9月からまた授業が始まる、その中日だったのだ。たぶん他の人は必死に勉強していただろう。僕は夏だというのに毎日のように降る雨を、部屋の窓から怨めしそうにぼ〜っと眺めていた。「来年の今ごろはどうなっているのだろう」と、季節が変わっても暗い気持ちの僕がいた。

ある日予備校近くの郵便局にお金を下ろしに行った帰り、瀟洒(しょうしゃ)な白いマンションの前のベンチに女の子が二人座っていた。彼女たちは同じ予備校に通う生徒で、そのうちの一人は僕よりひとつ年上だった。それから街角や教室で彼女に会うと、そのまま僕らは近くの公園やマクドナルドで話すようになった。彼女には付き合って3年も経つ立派な彼氏がいるにもかかわらず、なぜか僕とよく遊んでくれた。彼女のつながりで7人くらいの仲間もでき、少なくとも僕は、半ば予備校に遊びに行くようになってしまった。

10月の終わり、僕は風邪をひいた。3日後、彼女から電話があった。僕が予備校に来ないのでどうしたのかと思ったらしい。「大丈夫?」と電話の向こうのやわらかい声が言った。人に心配されたのは、随分久しぶりだった。僕は本当に大丈夫になった気がして、彼女に会いに翌日からまた電車に揺られた。微妙な友達付き合いは、ゆらゆらと続いていた。受験は12月に受けた推薦入試(筆記試験)であっけなく終った。第一志望の大学にあっさり受かったのだ。自分の解放感よりも先に、うれしさを彼女に伝えた。彼女は「先に受かりやがって〜!でも、おめでとうっ!」と笑っていた。いろんなことがあった1年なのに、その日のことだけが今でもカラーで思い出せるくらい鮮明だ。自分のことのように喜ぶ彼女を見て、僕は人のやさしさの襞(ひだ)に触れた気がした。

仲間の進路は様々だった。急な家の事情で大学を諦めた者。第一志望に失敗して、妥協した者。すべて失敗してもともと通っていた大学に出戻りした者。結果的に寄り道は約1年で終わり、晴れて僕は大学生になった。でも、せっかく乗れた「真っ当な軌道」は、そんなに魅力的じゃなかった。仲間とは進学してからも付き合いがあった。でも、いつの頃からかそれも途絶えた。そして、僕の合格を喜んでくれた彼女とも・・・。あれは、本当に寄り道だったのだろうか。ひょっとしたらあれが僕の本道であって、きちんと働いてお給料を貰っている今が、本当の意味での寄り道なのかもしれない。そんなことを考えつつ、こう思う。あんな寄り道だったら、もう一回してみたいものだ、と。

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