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「イリさん、また寒がりなのに薄着ですね^^」 ブルーのストライプのシャツにエンジ色のネクタイ、紫の薄いセーターにグレーのマフラーといういでたちに、オノさんは微笑んだ。 彼女は、僕が広告を担当しているギャラリーの店員さん(記事を書くだけが仕事ではないのです)。店では定期的な展覧会のほか、空いたスペースで民俗雑貨を売っていて、彼女はいつもエスニックなショールや少数民族のアクセサリーなどを洋服に合わせている。 その展覧会の広告の反響調査に来た。それを聞いて今後の広告に活かすためだけれど、それは二の次。本当はその後の「長い脱線」が楽しみなのだ。 イリ「広告の反響どうでした?」 オノさん「はいっ!リピーターのお客様が来るたびに違うお友達を連れてきてくれました。本当にありがとうございます」 それはよかった。人の役に立つって、単純にうれしいのだ。 オノさんは大学入学とともに九州の南のほうからはるばる僕の町にやって来た。大学生のときに6歳歳上の男性と知り合い二十歳で学生結婚。程なく女の子を出産し、子育てをしながら卒業した。子どもが幼稚園に通い始めると同時にこのギャラリーで働き始めた。そして僕と知り合った。 開催中の版画の展覧会を一通り見て回ると、木のテーブルには石榴(ザクロ)のお茶が湯気を立てていた。アンティークの茶器にたまる紅海。それはとても甘酸っぱい中東の味がした。 * * * 僕らは旅の話が好きだ。 というのも、ギャラリーのオーナーが世界中を駆け巡り一点物の民族雑貨の買い付けをしており、そんな人の下で働いているオノさんも「いつか旅してみたい」と夢見る25歳なのだ。 少しだけどそういう旅をしてきた僕は、彼女に自分の旅の話をする。オノさんはそれを聞きながらまだ見ぬ世界に思いを馳せる。僕も思いを馳せる。でもそれは、ヒコーキに乗っていく旅ではない。 イリ「オノさんはこれからいくらでも旅に行けますね」 オノさん「そうなるといいですネ。イリさんはもう旅はされませんか?」 イリ「僕は・・・」 「もういいんです」と言おうとして、やめた。「・・・旅したいですよ、そりゃ!」。努めて明るく言いすぎたから、ちょっと変に響いたかもしれない。オノさんってそういうところにすごく敏感なのだ。 正直言って、今はどこかの国をあてもなく彷徨ったりする旅にはいささか興味がない。それよりは何か新しいことに挑戦してみたい。 何か?。。。 ずっと黙っていると、オノさんは僕の胸の中を見透かしたように言った。 オノさん「・・・。隣の芝生・・・ですネ?」 イリ「あはは。そういうことです」 お互い見事なまでの「ないモノねだり」に、僕らはなぜかお互い赤くなって笑う。 + + + 20代も後半になると、僕らは「ありえたかもしれない人生」や「Y字路の逆の道」のイメージで頭がいっぱいになる(と思う)。 人それぞれ、選んだ道と選ばなかった道があり、違う道を行けば今とは違う人生が拓けていたかもしれないという淡い期待に、一時の酔いがまわる。それはひどく甘美で、妙に切なく、時として危ない。 そうはいっても、オノさんも僕も現実には「そういうふうに」生きてきてしまった。過ぎ去ったものや失ったものは取り戻せないし、別に取り返したくもない。 だから僕はザクロのお茶を飲み干して、「結局はこれでよかったんですよねぇ」とつぶやく。オノさんはショールを肩にかけながら、コクリと頷く。 それは諦めでも逃げでも、ましてや強がりでもない。 * * * ところで。 オノさんとのどこまで行っても心地良い平行線の会話は、もうしばらくできなくなる。非常に残念だ。この展覧会が終わると、彼女は来月の終わりに生まれる子どものために産休に入る。 だから今は、青臭いモラトリアムに沈んでいたい。それは心地良い堕落であり、気持ちいい停滞であり、暖かい泥に身を沈めるような、そんな時間なんだ。 オノさん「イリさん、ボクシングがんばってくださいネ!」 イリ「ありがとうございます。オノさんも元気な赤ちゃん、産んでくださいねっ!」 同じだ。 めくるめく大冒険も、孤独を背負った一人旅も、雑貨の買い付け旅行も。 同じだ。 今日の夕飯のカレーのにおいも、慣れた二人目の出産も、いつもの文章校正の間違いも。 同じちっぽけな人間の日々の、尊く儚い営みなんだ。 長い休暇の前の、ひと時のティータイムで感じたもの。またすぐにでも会うような会話を交わし、僕はギャラリーを後にする。僕らがまた木のテーブルに向かい合ってお喋りするとき、オノさんは新しい命と対面しているだろう。 帰り道、高架道が交差する隙間から夕焼けが見える。それはいつもと同じなんだけれど、こめかみがミシミシ鳴って、ひどく綺麗だ。 たぶん大切なことは、若くして偉大な経験をしたということでも、旅が残してくれたことでもない。自分の歩んできた道に「YES!」と言えること。 今ならば、このすばらしい夕陽に恥ずかしげもなく言えそうな気がする。
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