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内なる声に耳を澄ませ、勇気を持って行動せよ。

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友達のコーヒー屋さん「辻本コーヒー」のメルマガで連載したエッセー。 http://www.rakuten.co.jp/tsujimoto/index.html
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五月の風

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「十年一昔」という。イリイリ19歳、大阪で迎えた春。

五月の風に乗って運ばれてきたのは、白い便箋に書かれた漫画文字。

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季節でいつが一番好きですかと尋ねられたら、迷わず「夏」と答えたい。しかし一番好きな月はいつですか、と質問されたら暦の上では春だが「5月」と即答したい。なぜですかと問われれば、答えは「風」と答えたい。


部屋でぐうたらしていると5月の風がそっとカーテンを揺らす。風は桃色ではなく、薄い緑色。そんな瞬間、あの時を思い出す。


もう5年も前の話になるが、当時僕は大学一年生だった。初めて故郷を離れ、大阪での一人暮らしが始まった。5月といえば五月病。多くの例に漏れず、僕も毎日憂鬱で、退屈だった。


大学に入ったらあれをやろう、これがしたい、と希望に胸躍らせていたはずだったのに・・・。何かが違う、毎日そんなことを思いながらニヒルな日々を送っていた。


あれは土曜日だったと思う。大学に行った。授業を一つ取っていたからだ。つまらない講義を終え、食堂で適当に食べ、人もまばらなキャンパスのベンチでタバコを吸っていた。


ため息をついて空を見上げると、当たり前のように青空があった。見慣れた青空だった。ベンチの横に大きな木があった。たぶん桜だったと思う。その頃すでに花は散り、青々とした若葉が生い茂っていた。


葉っぱの間から漏れた光が眩しくて、恍惚となった。胸がドキドキして苦しいくらいだった。木漏れ日というやつだ。


アパートに帰り郵便受けを開けると、手紙が入っていた。「誰からだろう」部屋に入り、窓を開け、コーヒーを入れ、封を切る。かわいらしい字が並び、行間には悩みに悩んで一生懸命書いたであろう、その人の顔が浮かぶ。


コーヒーの苦味が舌の両側に広がった頃、タバコに火を着けた。便箋の端が、やわらかい風でやさしく震えていた。僕が生まれて初めてもらった、ラブレターだった。


あの時、手紙から目を離し背伸びをすると、今なら僕は何でもできるんじゃないか、と思ったものだった。自分は可能性の塊だ、とも。この原稿を書いている今、僕の部屋の窓からは隣の家の納屋と、藤の花の色をした雄大な山が見える。


思いに浸っていると5月の風がそっと頬をなでた。すると、かつて住んでいた部屋と、揺れる緑色のカーテン、窓から見える誰もいない午後のキャンパスが思い出されるのだ。


胸に、僅かな痛みを伴いながら。

秋の特別編 『青空』

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 ひとつのことをずっと考えてしまう癖がある。それは学校や会社でのフラストレーション、人間関係の行き詰まりなど様々だ。僕たちも、僕たちよりもずっと年配の大人だって、そんなことを考えたりすると思う。でもたいがいはお酒を飲んだりぐっすり眠ったり、あわよくばステキな夢でも見られれば次の日にはすっかり消えてしまう。やってきた明日が高く、どこまでも澄んだ秋の青空だったりすれば、なおさらだ。

 ここ2年半くらい、ひとつのことをずっと考えてきた。そんなことをしていたら誰だって頭がおかしくなる。でも僕はできるだけ外では平静を装った。無理がたたってかからなくてもいい病気にもかかった。あまり大きい声で言うものじゃないけれど、考えていたのは恋愛のことだ。男女が出会い、愛し合う。でもちょっとした行き違いや安っぽいヒロイズム、漠然とした将来への不安や、あってないような「社会人としての普通の生活」だとか、そういうことが複雑に絡み合って、やがてそれはある日突然終わってしまったりする。僕の場合だってその例に漏れなかった。よくあることなのかもしれないけれど、その最終段階において――つまり別れのとき――、僕は彼女にウソをついた。

 それは単純でありながら、絶対についてはならないウソだった。好きなのに、別れたのだ。当時24歳の僕に彼女を幸せにしなければという「責任」がどれほどの意味を持っていたかはわからないけれど、とにかくそうしてしまった。弁明を許してもらえるなら、当時は自分のことで精一杯で彼女の気持ちを考えられなかったのだ。得体の知れない「責任」というありもしない不安に苛(さいな)まれた。結局僕は、現実から逃げたのだ。彼女はその1年半後、僕の知らない誰かと結婚した。

 やがて迷走の日々が始まった。その日から、ふざけているわけでもなく、言葉遊びをしているのでもなく、本当に、人を好きになるということがよくわからなくなってしまった。こんな自分を好いてくれる女の子もいた。でも彼女たちに対して、僕はあいまいな態度を取り続けた。彼女たちは僕が恋人を受け入れない人間だとすばやく察知してくれて、友達という形で接してくれた。今でも本当に感謝している。でも、そうやって日々が流れていっても僕自身は何も変わらなかった。なぜなら目の前にあった彼女という幸せを自ら放棄したくせに、ずっと彼女を求め続けている自分になかなか気付かなかったからだ。

 今年の10月、いつものように金木犀の甘い香りが切なさを引っ張ってくる頃。風が強くて、寒い日だった。仕事の帰りに車を運転しながら、ふと彼女が1年前の今頃にくれた携帯電話のメールを読み返してみた。それは当時僕が「離れていてもまた会おう、助け合おう」などと調子のいいことを書いたメールに対しての返信だった。これまで何回読み返したかわからない。でもそれは、いつも黙読だった。だからというわけでもなく、なんとなく声に出して読んでみた。最後まで読み終わらないうちに、嗚咽(おえつ)が止まらなくなった。久しぶりに、僕は泣いた。

 『あなたの言いたいことや思いは伝わったから、私を信じてください。あなたが私を大切って思ってくれているように、私もあなたを大切な存在のまま私の心の中にいてもらいたい。あなたの心の中にもいたい。だからあなたがそういうふうに思ってくれているだけで私は幸せなんだよ。心の中にいるっていうのはそういうことだと思ったから』。彼女は、僕たちが別れたあともいつでも会える気のいい「友達」という形でお互いが続いていくならば、僕との思い出が安っぽいものになってしまう、と言いたかったのだろう。だったら切ないけれど、会わないほうがいい…。それはずいぶん前に理解していた。でも、声に出して読むと彼女のやさしさがひしひしと伝わってきて、僕の心はひどく揺れた。僕は何もわかっていなくて、彼女はしっかりとわかっていた。そのとき、僕は灰色の2年半を、許せた。自分が今確かに、生きている音がした。

 自分の本当の気持ちがやっとわかった今、こう思っている。『彼女が好きだ。でも、誰かいいコいないかなぁ』なんて。そして僕も彼女も日々成長するのだから、いつか許されるのならば、ちょっとはずかしいけれど彼女に会ってみたい。テレビの話題とか流行の音楽だとか、近所のおしゃれなカフェだとか、そんなたわいもないおしゃべりをしてみたい。彼女はどう思っているかわからないけれど、人の思いは日々変わっていくのだからそういう日が来るという可能性を信じても、たぶんバチは当たらないだろう。そして、切ない思い出とか一緒に聴いたセンチメンタルな音楽を飛び越え、僕は彼女が教えてくれたことをこれからもずっと、ずっと大切にしていくつもりだ。僕はそのことがわかっただけで、とてもすっきりしている。まるで雲ひとつなく、どこまでも澄んだ今日の青空みたいに。

第56回 『父の手は』

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 仕事から帰ってくると弟を除いて我が家は寝静まっている。もっとも祖父は病院のベッド、祖母は母屋に、兄は都会暮らしなので、正確には父と母がすでに就寝中なのだ。4、5日前の夜、帰宅すると2階の角部屋が明るかった。親の寝室だ。すでに11時を回っている。いつもなら寝ているはずだけど、たまには見たいテレビでもあるのだろう。別に気にもしなかった。車を停め、荷物を自分の部屋に置き寝室の隣のトイレに行った。

 暑がりの父の希望か、寝室の引き戸は全開。光が漏れているどころではない。疲れていたので話しかけられるのも億劫だったし、親はよくテレビを見ながら寝ているので、今晩もそうなのだろうと、やや薄情だが「ただいま」も言わずそのままトイレに入った。用を足していると母に呼ばれた。父も母も起きていた。そっけない返事とともに寝室に入ると、父が珍しく上機嫌なのだ。珍しいな、と思った。何か見せたいものがあるらしい。まだ慣れないのだろう、DVDレコーダーのリモコンを両手で動かしている。老眼鏡をかけると脂性の肌に目尻のしわが蛍光灯の光で深く刻まれた。部屋は涼しかった。秋も深いのに網戸なのだ。やれやれ、だ。母は父と違ってやせっぽちだから、風邪を引くかもしれない。父が「よ〜し見てろ〜」と再生ボタンを押すと、テレビ画面に葛飾柴又の帝釈天が写った。

 そういえば幼い頃、やおら父親に「トラさんを見に行こう」と言われたのを憶えている。小さい子どもが嬉しくないはずがない。僕は張り切った。てっきり動物園でも連れて行ってくれるのかと思ったからだ。ほとんど何の説明もなく「トラさん」と言われれば幼い子どもは動物のトラだと思うだろう。着いた先は山だった。そこで僕の記憶はとぎれてしまう。父は家の近くにある山で『男はつらいよ』のロケがあると聞き、エキストラに出ようとしたらしいのだ。映画はちょうど渥美清が柴又の実家に帰ってきたところだった。

 シーンは祭りで賑わう山の神社に移った。風来坊の寅さんは我が町の観光名所で赤や青の健康サンダルを売っている。寅さんがテキ屋の口上を述べた瞬間だった。画面右端に白いジャンパーを着た若い男が写った。紛れもなく、父であった。白髪もなく、しわもなく、老眼もかけていなかった。今よりも痩せていて、ハンサムで、当たり前だけど、若かった。父の右手には神社の階段で躓かないようにか、幾度ものリハーサルにふてくされてしまったのか、目的の「トラ」がいない不満からだろうか、幼い僕がキツネの絵がプリントされた白いトレーナーに黒いズボンをはいてうつむきながら手を引かれていた。

 確かに僕だった。割合幼い頃の記憶はいいほうだけれど、この日のことは記憶の断片から見事にはがれ落ちていた。物心が付くにつれ「お父さんがトラを見せてくれると言ってウソをついた」ことだけが鮮明になり、映画出演のことは知らなかったに等しい。父と僕はほんの一瞬しか写らなかった。母が当時を懐かしみ、まだ生まれて間もない弟をおんぶしつつ神社の上から撮影の様子を見ていたと述懐する。何回もやり直しさせられたことを父が遠い目つきで言う。ついにはアルバムまで引っ張り出した。そこに深夜族の弟が入ってきた。家族4人で思い出を肴に話が弾む。今は180cmもある弟が、保育園の運動会で偶然にもトラのお面と尻尾をつけてお遊戯をしている写真があった。本当に、かわいかった。

 この写真から、もう15年以上も経つというのか・・・。母を見、父を見、弟を見た。ここにはいない兄を、祖母を、そして病院のベッドで寝ている祖父を想像した。皆、それぞれに老いた。あの頃、布団にもぐって「コワイ夢を見ませんように」などと祈っていた僕。父の仕事場は背広の役所から作業服の工場に変わり、僕はただなんとなく大きくなった。父の手は爪が汚れ、荒れてガサガサになった。寅さんの前で僕の手を引いていた父の手は、今ここにある手なんだなぁと、当たり前のことを思った。そっと寝室を出て、次に僕が父と手をつなぐのはいつになるのだろうと、ぼんやり考えた。

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 朝起きると、テレビでは「台風が来る」と大騒ぎしていた。窓を開けると生暖かい風が唸り、唸るけれども、空のずっと上のほうは、僕には穏やかに見えた。どんどん雲が流れていく。やっぱり行こうと決めた。こんな日に行ってしまうのが僕らしい、と思ったのだ。バスと電車を乗り継いで2時間、神奈川県の茅ヶ崎駅に着いたのは正午少し前だった。

 駅前は閑散としていた。サザンの歌に出てくるような町を想像していたので、肩透かしをくったような気がした。バスのロータリーにはベンチがあり、座ってバスを待った。風が強い。台風が来るのだから、人気(ひとけ)がないのも仕方ないなと思った。やがてバスが来た。乗り込んで中ほどの右側に腰を据えた。商店街を抜けお洒落な店が所々に建ち並ぶ通りを5分ほど走ったところが「東海岸通り5丁目」のバス停だった。

 バスを降り駅の案内所にあった地図を思い起こして歩く。大通りから脇道に入る。どうやらこの道をずっと歩いていくと目的の場所らしい。なんとなく潮風の匂いがする。ぎっしり詰まった家々の間の細い道では、子どもたちがサッカーボールを蹴ったり、バドミントンをしたり、アスファルトで裸足で鬼ごっこをしたりしていた。いい風景だな、と思った。さらに歩いていくと右側に瀟洒な建物が見えた。開高健記念館。道の先には、うっすらと海が見えた。

 中には開高健の愛用ジッポーやパイプ、愛飲したであろうワインやベトナム戦争に従軍取材した際の品が並んでいた。とりわけ目を引いたのは開高氏がかけていたメガネ。主を失った遺品の数々はすでにそれ自体の輝きはなく、彼と一緒に死んでいた。記念館の周りには石碑があり「悠々として急げ」「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」とあった。いずれも氏の愛した言葉たちだ。

 記念館を後にし、海へ出かけた。自転車の横にフックをつけ、それにサーフボードを引っ掛けた地元のサーファーたちが僕を追い越してゆく。原色のビーチサンダルが、やけにきれい。つられて早足になった。海に出た。朝起きたときと同じ、雲は高速で流れ、暗雲の向こうには薄い雲の層ができ、僅かにオレンジ色に染まっている。薄い雲をポケットナイフで裂くと、そこからやわらかい光が差し込み、目の前の海はいつか雑誌で見たどこかの外国のビーチを思わせた。右を見ると、海岸線はなだらかに湾曲し、防波堤が伸びていた。遠くに三浦岬が見えた。ある歌が頭の中に流れてきた。急に胸が、苦しくなった。

 帰りの電車は、混んでいた。車内は湿気があって、床は汚れた水がへばりついていた。結婚式の帰りと思われる女性たちが、金属音で話をしていた。会話には愛憎や打算、希望や欲望がちりばめられ、僕にはなんだか遠い世界の出来事に思えた。夕方家に帰ってきて、予約してあった美容室に行った。いつもの美容師さんが「イリ君、茅ヶ崎にサーフィンでも行ってたんですか?」と尋ねた。僕は曖昧に笑って「ええ、いい波でした」と嘘をついた。

 昔々のお話・・・ではなく、ごく最近の話。京阪神のある都市、そこはもう隣の県との県境にも程近い場所に、いろんな意味でたいそう未熟な男がいた。何が未熟かって27にもなるのに定職に就かず、友達の喜びを素直に喜べないヘソ曲がりで、小さなことをいつまでも消化しきれない小心者で、さらに人を妬む心は人一倍という、ま、言ってみれば結構最低なヤツだった。

 僕と同じ大学を出たから、彼は当然頭が悪い。早くに就職を決めたが、勤めた先は学生の間でよく言われている「ブラック企業」。彼はその広告代理店に勤め、朝の6時半に起き、夜中の0時に帰宅するという生活を続けた。いつもならすぐ「もうアカン、もうアカン」とかなんとか言いながら弱音を吐くのに、このときばかりは類まれなる才能を見せ、1年2ヶ月その仕事を続けた。でもそれも裏を返せば「履歴書にキズがつく」からがんばったにすぎない。結局その時点で男は、まだ自分の弱さを克服しきれていなかったといえる。

 彼は会社を辞めてから、公務員試験の予備校に通いだした。「俺な、あんなアホな企業で働いとってな、わかったねん。しんどい立場で長時間働かされてる世の中の人を助けてあげたい」。彼が次に目指した労働基準監督官とかいう聞いただけでも難しそうな仕事。志望動機だけは立派だった。それはもうすぐセミが鳴き出しそうな頃だったと思う。

 あれからもう、2年あまりも経つのだろうか。彼は持ち前の愚痴り癖を遺憾なく発揮し「模試で最悪やったわ」と落ち込み、「小テストでクラス一番やったで!」と喜び、「やっぱアホな大学出た時点で面接でハネられんねんやろなぁ」などと、受けてもいない面接のことでよくブルーになっていた。遠く離れた僕にはどうしようもないし、どうしていいかもわからないから、とりあえず彼の言うことを適当に聞き流して、さもマトモそうなアドバイスをしていた。

 一年目の勉強の末、彼は受けた試験にすべて落ちた。一方、同じ予備校の仲間はすべて合格、晴れて公務員になった。ある日予備校仲間が「飲みに行こうぜ」と言ったのに対し、受かった余裕をわざと見せ付けているのかと邪推した彼は、黙って仲間の元を去った。切ない秋が過ぎ、いつも通り寒い冬が来た。吐き気がするほどの鬱状態を手紙で知らせてきたのは、今年の1月のことだったと思う。新年の挨拶とともに、暗い文章が並んでいた。

 「毎年『負ける』と言われて本当に試合に負けるK−1ファイターの曙は、負けても1試合数億円と言われる巨額のファイトマネーを手にするけれども(筆者注:定かではありません)俺は今度の試験に負けたときに、いったい何を手にすることができるんやろか・・・。」おまけに文末で僕の健闘を祈ってくれているらしいが、字を間違えて「拳闘」になっていた。確かに僕はボクシングをやっているのだが、男の漢字能力に果てしない危機を覚えた。でも依然として三食食って生きている彼を、僕はまったく心配していなかったと思う。

 今朝、新しくしたばかりの携帯に電話がかかってきた。「受かった!受かったヨ〜!」。僕は床に就いて3時間。だいぶ眠かった。「お、よかったやないか。おめでと」。思えば一人で喜んだり落ち込んだり、忙しいヤツだった。あの日、息巻いて労働基準監督官になると言われ、僕は一回で聞き取れなかった。「なんになるって?」「ロウドウキジュンカントクカン、や」「なんでなん?」「世の中の困ってる労働者を助けたいねん」「ふ〜ん」。

 電話のおかげで目が冴えた。二度寝できなそうなので会社に行くまでこんな文章を書いている。ここまで書いて眠くなってきた。もうそろそろ本来の起きる時間だけれど、心地よい眠りよりはこの喜びを彼と素直に分かち合いたいと思う。彼はようやくスタート地点に立ったようだ。ぜひ、世の中を変えてほしい。「関東勤務になったら遊ぼうなっ!」相変わらずの先走り癖に焦燥を禁じ得ないが、ま、ええやろ。よかったやん。


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