京都より愛をこめて

京都を中心に、また少し足をのばして奈良・大阪までの思いを綴った、ぶらり歩きです。

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唐津小笠原藩邸跡

正親(せいしん)小学校の前に建つ三つ目の石碑は「唐津小笠原藩邸跡」と刻まれている。



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唐津藩は現在の佐賀県唐津市を支配した藩で、豊臣秀吉に仕えた寺沢宏高が、朝鮮出兵の折の手柄により、上松浦郡一帯の8万石余を与えられる。

関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、天草一郡を加えられ12万石余の大名となるが、広高の跡を継いだ堅高の時に、島原の乱

(天草四郎が先頭にたち、キリシタンを忠臣とした過酷な年貢取立てに対する一揆)

が起こり、その責により改易となる。(1593年(文禄元年)〜1647年(正保4年))

その後に、大久保忠職が領主となるが、弟の忠朝の時に、下総国佐倉藩へ移封となる。(1649年(慶安2年)〜1678年(延宝6年))

それに変わり松平家が入るが3代で鳥羽藩へ移封され、(1678年〜1691年(元禄4年))次に土井家が入るも4代で下総国古河藩へ移封となる。(1691年〜1762年(宝暦12年))

その後に水野家が入るのだが、これもまた4代忠邦の時に遠江国浜松藩へ移封となる。(1762年〜1817年(文化14年))ちなみに忠邦は老中職となり、天保の改革を行うこととなる。

そして小笠原家が入って徳川幕府の終り明治維新までを支配する。(1817年〜1871年(明治3年))

唐津藩最後の当主が小笠原長行(ながみち)で、幕末に老中や外国事務総裁となり、戊辰戦争

(薩長と会津を中心とした奥羽同盟との戦い)が起きると、徹底抗戦を主張し函館まで転戦をし、新政府軍と戦うが、時は味方しなかった。

徳川の普代で明治維新で徳川に離反した藩は多かったが、唐津藩の小笠原行は最後まで徳川に忠誠を尽くした人物であった。



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唐津藩(佐賀県北部)は初代の寺沢家を除き、代々徳川普代の大名が治めたが、藩主は目まぐるしく変わっている。

唐津藩最後の藩主小笠原家の屋敷は、平安宮大蔵省や聚楽第があった所に建てられていた。

同じ佐賀県南部を支配した鍋島藩は外様(徳川家代々の家臣ではなく、関ヶ原以降に家臣となった大名)で、

同じ地域の北と南を支配するのだが、一方は新政府に、一方は幕府にと夫々の立場をとり、明治維新へと向うのである。

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