空に続く道

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中編

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ケセラセラ 10 完

  が、次の瞬間だった。波形が急に激しく上下し始めたのだ。アラームがけたたましく叫び、モニターの画面も見たことの無い形に変わる。あっという間に医者やナースたちが部屋に流れ込んできた。不穏な空気の中を、鋭い声が飛び交い、フミの体を多くの人が取り囲む。
 五人は弾き飛ばされるように廊下に出された。
「フミ……ちゃん」
 呆然と俯く和子の足元に、失意が長い影となって伸びていた。誰も、何も言い出せなかった。
 そこに小さな影が重なる。
「みなさん、帰りましょう」
 ノンの影だった。
 
――
 
 いつもより早くに目覚めた和子は、カーディガンを羽織り、お茶でも飲もうとひんやりとした静かな廊下を食堂に向かって歩いていた。
 外の桜は、もう紅葉し始めていた。秋色の葉は、薄紅色の花弁のような初々しさも瑞々しさもない。だが一枚一枚、その葉だけの色彩を鮮やかに宿し、世界を誇らしげに茜色に染めている。
 和子は紅葉を愛でながら歌を口ずさんでいた。やっと思い出した、カナリアの歌だ。せっかく思い出した歌詞の内容は散々だった。カナリアが山へ捨てられかけたり、鞭でぶたれかけたり。でも結構気に入っていた。だって最後には……
「唄を忘れたカナリアは 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば……」
 歌い終えかけた時だった。微かな音色が、耳にそっと触れた。和子は歌を止め、息をのむ。
 ピアノの、音色だ。
 それはたどたどしくも、和子が食堂に近づくにつれ、朝の光に木の葉が舞うような軽やかな旋律になっていく。
 鼓動が高鳴る。早く確かめたいような、逆に怖いような、相反する気持ちに、食堂に向かう足が戸惑う。食堂のドアに震える手をかけた。隙間から見えた黒く艶やかなピアノ。小さな背中。ひらめく左手。
 カナリアは、唄を思い出したのだ。
 振り返った、カナリアが微笑む。溢れる涙を拭い和子は頷くと、心を重ねるように歌った。
 
ケセラセラ ケセラセラ……
 
 カナリアたちの歌声が、今、澄み渡った秋空にのびやかに舞い上がる。

ケセラセラ 9

  一曲、一曲で良い。フミが生きているうちに……。
 和子は祈るような気持ちで、由美の手を握り続けた。
「母はどうやら、とても素晴らしいお友達を持ったようですね」
 沈黙の中、静かに声が降ってきた。手が、そっと握り返される。
「じゃ……」
  顔を上げる和子に、由美はフミに良く似た笑顔で頷いた。
「お願いします」
 わっと歓喜の声が背後で上がった。和子は振り返ると、四人と頷きあう。
 てんでばらばらの人生を歩んできた、てんでばらばらの性格の、じじばばばかりの即席合唱団。自分を諦めていた。このまま、空っぽの人生の終わりをただ待つのだと思っていた。
 だけど、きっとそれは違う。自分たちでも何かできるはずなんだ。
 だって、まだ、生きているのだから!
「さぁ、皆。行くわよ!」
 和子の声に、一同が一斉にこちらに向いた。心がしゅうっと一つに束ねられていくのがわかる。
和子の手がすっと上がった。
 フミちゃん、聴いててね。
 静かに手が、振り下ろされる。同時に、博の柔らかな低音のハミングが、ふわりと広がった。優しく明るい前奏が部屋に満ちた頃、博の歌声にエスコートされ、和子のメロディと双子のコーラスが伸びやかに登場する。
 
 幼い少女だった頃
 私は将来何になるのってママに尋ねた
 
 慶子と富子は目を合わせながら、お互いに小さく微笑んだ。
 まるで鏡映しのような自分の分身。性格や生き方の違いで、良く衝突し、今だって喧嘩は耐えない。が……。
 どちらからともなく手が伸びた。重ね合わせた掌は、皺の形まで一緒だ。齢の数だけ刻んだ時間が、確かな絆となり、絶妙なハーモニーを紡ぎあげる。
 
ケ・セラ・セラ
なるようになる
未来のことなどわからない
 
 双子の睦まじい姿は、博には少し眩しかった。根なし草の気楽さは、自分の性にあった生き方ではあったが、時に猛烈な寂しさも覚えるからだ。瞼の裏に浮かぶのは、遠き日の面影だけ。順風満帆なばかりが、人生じゃないさ。だから、面白い。博は痛みをそっと抱きしめ、陽気に声を響かせた。
 
恋人に尋ねた
将来は何が待っているの?
 
 台所に立ちながら鼻歌を口ずさむ女房の背中を、鴻上は思い出していた。苦労ばかりかけたのに、不器用な自分は、最期まで労いの言葉一つかけてやれなかった。いつか、あの世で会えたなら、必ず言おうと決めていた。「ありがとう。お前は最高の女房だ」と。清太の、力強い声が歌に躍動感を与えていく。
 
ケ・セラ・セラ
なるようになるの
未来のことなどわからない
 
 和子は歌いながら、心の中でフミに話しかけていた。
 どう? フミちゃん。皆、良い顔してるでしょ? アナタが歌の楽しさを教えてくれたおかげよ。
しかしフミの表情は変わらない。
 和子だって十分承知していた。人はいずれ、皆、等しくお迎えが来る。きっと、自分たちはその中でも順番の早い方だし、明日さえわからない。でも、だからこそ……
 
今は子どもに恵まれて
子どもたちが自分は将来何になるのって私に尋ねるの
だから私は優しく答えるの
 
 この心臓が、心が、歌っている間は、まだまだ私達は人生を謳歌しなきゃ。そうでしょ? フミちゃん!
 五人の声が、心が、重なった。
 
なるようになる
未来のことなどわからない
成り行き次第
ケ・セラ・セラ ケ・セラ・セラ ケ・セラ・セラ
 
 歌がそっと閉じられ、病室に拍手が鳴り響いた。由美が席を立ち、千切れんばかりに手を叩いていた。
「確かに、確かに子どもの頃、母が良く歌ってくれた歌です」
 涙にぬれる声に、五人も胸を詰まらせる。
私達の歌、届いた? 和子は由美の肩を優しく抱きながら、フミに視線を移した。
「あ!」
 心電図の音の変化に初めに気がついたのは、慶子だった。声に驚き、一同がモニターに目をやる。間隔が狭まる波形。
 もしかして、意識が……? 淡い期待が急激に膨らんでいく。

ケセラセラ 8

――
 曲が決まり、あとは練習となった。ホームに事情を話し、昼、夕のそれぞれに一時間、食堂を使わせてもらえる事になった。アカペラは簡単ではなかったが、ノンが調べるインターネットからの情報をもとに、見よう見まねで、五人は少しずつ練習を続けた。
ようやく、一曲が形になった時。季節はもう春から梅雨にさしかかっていた。空は重ったるい曇天に覆われる事が多くなり、じめっとした空気が肌にまとわりつく。
 昼の練習後、和子はピアノの傍でまだ陽の見えぬ空を見上げていた。フミへの面会は未だに許されてはいなかった。
 パタパタと駆け寄る足音がした。胸騒ぎを覚え、和子は首をめぐらせた。
「いた! 竹下さん!」
ノンが息を切らせて食堂に飛び込んでくる。
「た、大変です!」
「どうしたの?」
「櫻井さんが……櫻井さんが……」
 和子は逸る気持ちを押し殺しながら、声を震わせるノンの肩を抱いた。
「フミちゃんに、何かあったのね?」
――
「行きましょう」
 面会謝絶の札を前に、ゆっくりと頷き合う。ノンからフミの危篤をきいて、五人はわき目も振らず駆けつけたのだ。
和子は息をのむとノックをし、返事を待たずにドアを開けた。
 病室内にはフミの優しい面影を映す女性がベッド脇に座っていた。当惑した顔で軽く腰を浮かし、こちらを見ている。
「突然お邪魔してごめんなさいね。私、竹下と申します。私達は、フミさんのホームでの友人なの。様態が思わしくないと聞いて……」
 和子の説明に、女性は少し疲れた顔に微笑を浮かべ
「それは、わざわざ有難うございます。私は娘の由美と申します」
と頭を下げた。
病院の独特な臭いが漂う空気を、一定のリズムを刻む無機質な音が支配している。和子は落ち着かない気持ちで由美の後ろのベッドを気にしながら「それで、フミさんは」と尋ねた。由美は申し訳なさそうに首を横に振る。
「せっかくお越しいただいた所、申し訳ないのですが……」
 会ってやってと言うように、一歩下がった。和子は恐る恐る、ベッドの傍まで行く。
 声が、でなかった。
 そこには、数ヶ月前、ピアノの前で鮮やかに指を躍らせていたとは思えないほど、痩せこけた枯れ木のような老婆が横たわっていた。
 和子は思わず膝をつき、フミの左手をとった。名前を呼びたいのに、皆でここに来たと伝えたいのに、涙が喉に引っ掛かり、何も声にならない。
「僕たちは、僕たちができる事をしよう」
 見かねた博の手が、和子の背中に添えられた。和子は目じりに溜まった涙を拭い、ゆっくり立ち上がる。
「できる、事……ですか?」
 由美が目を丸め、一同を見回した。和子は、一人ひとりと目を合わせると、最後にフミの娘、そしてフミと向き合う。
「歌を、歌わせて欲しいんです」
「歌……ですか?」
 不審がる由美に、和子は顎を引いた。
「ホームでフミさんは、私達によくピアノを弾いてくださいました。でも、フミさんご自身は一度も、好きな歌を歌うことはできなかった。だから、私達がフミさんに歌をプレゼントしたいんです」
 片手でも、楽しそうに微笑みながら、皆に歌を……思い出をくれたフミに目を落とす。胸の上下が無ければ、生死も図れない姿だ。
「せっかくですが、皆さんにそうしていただいても、たぶん、母はもう……」
 由美の声が涙で途切れた。電子音が、沈痛な空気を責めるように響く。和子は目を伏せた。確かに、無意味かもしれない。届かないかもしれない。でも……
「それでもまだ、生きてるのよ!」
 左右から同時に声が飛んだ。由美に訴えかけるような目で見つめる慶子と富子だ。鴻上が二人を後押しするように口を開く。
「ワシらには先を悲観したり、躊躇したりできる時間はないんだ」
 博がそれに続く。
「今、できる限りの事をしなければ、残された人間は、必ず、手放した可能性に、苦しむ事になるんです」
 和子が由美の手を握った。
「一曲だけでいいの。彼女に、歌を贈らせてください」
「お願いします!」
 五人が同時に頭を下げた。

ケセラセラ 7

「もしかして、あの曲だったから?」
 途端、鴻上は痛みを堪えるような顔になり、深い哀しみと後悔をその瞳ににじませた。
長い沈黙が訪れた。しかし和子は、何か言いたげな皆を片手で制し、じっと鴻上の言葉を待った。
やがて、鴻上は観念したのか、深い溜息をつくと、呻くように答えた。
「……先に逝った女房が好きだった曲なんだ」
 誰からともなく、溜飲を下げた声が漏れる。
「あの人には悪かったと思っている。だが、歌なんか無理だ」
 清太はぶっきらぼうに答えた。なんだかその姿が、反抗期の頃の息子と重なり、和子は思わずいさめる様に尋ねた。
「ご職業は、何を?」
「大工だ」
いかにも、って感じね。納得する和子に富子が首を傾げる。
「関係あるの? それに、やっぱりアカペラなんてできるかどうか……」
「大丈夫」
 和子はにっこり微笑むと、まず、慶子の方を見やった。
「慶子さんは教師を四十年以上お勤めされて、良く通る声をなさってるわ」
 急に水を向けられ面食らったのか、慶子はまんざらでもない様子で「そう?」と嘯く。
次に和子は、富子に尋ねる。
「富子さん。ノリ弁一つって注文したら、どうしてた?」
 きょとんとする富子は、つぶらな瞳をぱちくりさせながら、記憶を探る。
「え? それは厨房に『ノリ弁いっちょう!』って……あ!」
 和子が睨んだ通り、忙しい調理場でも綺麗に響く声だった。和子は頷くと、今度は博に目を向ける。察しのいい博はすぐに言わんとする所がわかったようだ。茶目っけたっぷりにウィンクすると
「全速前進ようそろ!」
 と低くとも食堂中に響き渡る声で号令をかけた。
この三人の声なら申し分ないだろう。和子は嬉しくなって鴻上を振り返った。
「ね? 鴻上さんも、大工さんのお仕事なさっていたなら、声、出せますよね?」
「だが……」
「声が出るなら、あとは楽しむ気持ちがあればいい」
 和子はキッパリと言い放つと、ピアノを振り返った。
「フミちゃんが、教えてくれた事なんです」
 しんみりとした沈黙がおりた。
今さらながらに、本当に彼女がここにいないというのが信じられない。
「じゃ、竹下さんは?」
 静かな水面に小さな泡が一つ浮き出るように、その質問はノンの口をついて出た。今の今まで人の事ばかり考えていた和子は「私?」と思わず聞き直してしまう。
「私は……」
 急に気持ちが萎んでいく。人の世話しかしたことのない専業主婦。みんなと違って、これといった経験や能力もないただのおばあちゃん。いや、皆と違い、声も記憶も無くしかけてる分、むしろ役立たずな……
「アンタが、棟梁だろ」
「え?」
 その言葉に、和子は驚き顔を上げた。そこには、和子を信頼する仲間の笑顔が並んでいた。
「こんな風に、上手く人をまとめられるのは、アンタしかいない」
「やりくり上手とも言えるかしら」
 慶子がにやりと笑い、富子がどんと和子の背中を叩いた。
「さすがは、長年、一家を支えてきた主婦よね」
 その言葉に博が頷く。
「そうそう。好き勝手やって来た僕らにはできない事だ」
「皆さん……」
 和子の胸に、熱いものがこみ上げてきた。言葉にならず、ぎゅっと目を閉じる。
 人生は、私の人生は、空っぽなどではなかったのだ。
「じゃ、さっそく曲を決めましょうよ」
 ノンが元気な声を上げた。曲……和子は鴻上の顔を見た。どうせなら、フミが好きな曲がいい。
「鴻上さん」
 朝の光がピアノに射し始めた。
「あの曲。タイトルは何ですか?」

ケセラセラ 6

――
 夕食は一口も喉を通らず、夜は一睡もできなかった。夜明けとともに、和子は食堂に足を向けた。空腹だからではない。もしや、夜のうちにフミが戻って来てはいまいかと思ったからだ。
薄暗い廊下に朝日が差し込み、調理場の方から味噌汁の匂いが微かに漂ってきている。いつもと同じ朝。しかし……。
 ピアノは沈黙したまま、寂しく主人を待っていた。和子はやりきれない思いで傍まで行くと、鍵盤を一つ押した。跳ね返ってきた音が虚しく食堂に広がる。
「あ……竹下さん」
 入口の方から声がして振り返る。ノンだ。昨日の事を気に病んでいるのだろう。彼女は冴えない顔で隣に立つと、和子より低い音を一つ、頼りなく響かせた。
「フミちゃん、どうなの?」
「脳出血だそうです。まだ意識は……」
 ぎゅっと胸が塞がる思いがして、和子は鍵盤に目を落とした。つい昨日まで、ここであんなに楽しそうにピアノを弾いていたのに。
「もう、希望はないのかな?」
 やって来たのは博だった。顔の大きな絆創膏が痛々しい。彼もまた、フミを心配して眠れなかったのだろう。怪我のせいだけとは思えぬほど、萎れて見えた。
「わかりません。手術は成功したそうですが、前回の入院もありますし……」
「何とかならないの?」
今度は反対の入口から声がした。富子だ。後ろに慶子もいる。二人ともバツの悪そうな顔をしていた。
「このピアノも、もう歌えないわね」
 慶子が悔しそうにピアノの傍までやって来て、呟いた。富子が鍵盤を押す。たるんだ音がした。
やっぱり、フミの音じゃないとダメなんだ。和子は溜息をついた。もう、歌えないピアノ。歌を忘れた……カナリアは……歌、歌……
「歌!」
「なによ、藪から棒に」
 慶子がギョッとする。和子は構わず、皆を見回すと「歌よ! 歌!」と続けた。
「フミちゃんに、歌を贈りましょう。ピアノのお陰で色んな思い出が蘇ったじゃない。きっと、歌は頭に、ううん心に響くのよ」
「それで意識を取り戻そうというわけか」
「でも、誰がピアノを?」
 博も富子も興味はあるが半信半疑だ。確かに、なんの確証もないし、伴奏ができる者がいない。でも、何か彼女の力になりたかった。
「だったら、アカペラでいいんじゃないですか?」
 アカペラ! 四人はノンの言葉に顔を見合わせる。
「確かに、それなら」
 慶子が腕を組む。
「だったらもう一人くらい、男の人がいた方がいいかもねぇ」
 富子も全く同じ姿勢で腕を組んだ。
「だったら、決まりだね」
 博がウィンクし後ろを指さす。一同が不思議に思い目を向けると、そこにいたのは……。
「鴻上さん!」
「こちらにどうぞ」
 声を揃えた女性陣をよそに、博はにこやかに手招きした。柱の影に隠れるように立っていた鴻上は、しぶしぶ食堂に足を踏み入れる。
「良く顔出せたわね!」
 慶子の先制攻撃を博が「まぁまぁ」と代わりに受け流すと、爽やかな笑顔で
「協力してくれますよね?」
 と尋ねた。昨日、彼に怪我をさせた手前、さすがに邪険にはできないのか鴻上は、黙って俯いてしまう。
その横顔に、和子はふと、鴻上が怒りだした時のことを思い出した。何かが引っ掛かる。
「鴻上さん……どうして昨日あんなに怒ったんですか?」
 鴻上が顔を上げた。和子はその瞳をぐっと覗き込んだ。

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